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無能扱いされた薬師の俺は、追放先の辺境村で疫病を止めて英雄になる

作者: どどんこ
掲載日:2026/05/26



「治癒魔法も使えない薬師に、患者の命を預けられると思うか?」


 王都施療院の大広間に、院長ダリウスの声が響いた。


 白い石床の中央で、俺――アレン・ローディスは、膝をついていた。


 周囲には、施療院の神官と治療師たちが並んでいる。誰も俺と目を合わせようとしない。昨日まで同じ調合室で働いていた者でさえ、俺がすでに存在しないかのように顔を背けていた。


「私は、患者へ投与する前に確認を求めただけです」


 俺は、床に置かれた割れた薬瓶を見た。


「高熱で衰弱した患者に、魔力を過剰に増幅する赤霊薬を使えば心臓が耐えられない。だから止めた。それでもセルド様は投与し、患者は――」


「黙れ!」


 ダリウスが机を叩いた。


「上級治療師セルドの聖術を疑い、治療を遅らせたのは貴様だ。患者が亡くなったのは、無能な薬師が現場を混乱させたからにほかならない」


 背後で誰かが小さく笑った。


「薬草を刻むしか能のない男が、聖術に口を出すからだ」


「そもそも薬師なんて、治療師の下働きだろう」


 俺は唇を噛んだ。


 患者の脈が乱れ始めたとき、セルドはすでに別室へ下がっていた。吐いた血を拭い、最後まで手を握っていたのは俺だった。


 けれど、死んだ患者は平民で、セルドは貴族の息子だ。


 誰の責任にされるかなど、最初から決まっていた。


「本日をもって、アレン・ローディスを王都施療院から除名する」


 ダリウスは一枚の辞令を投げた。


「なお、無資格のまま王都で調合を続けられては困る。北境ローナ村の臨時衛生係を命じる。任期は無期限だ」


 広間がざわついた。


 ローナ村。


 五年前に銀鉱山が閉じ、税も納められず、冬になれば街道から切り離される辺境の寒村。施療院内では、赴任すれば二度と戻れない場所として知られていた。


 除名したうえで、死にかけた村に放り込む。


 つまり、体のいい追放だった。


「院長」


 俺は辞令を拾い、立ち上がった。


「一つだけ、調合帳を持っていく許可をください」


「まだ薬師の真似事を続ける気か?」


「そこに患者がいるなら」


 ダリウスは鼻で笑った。


「好きにしろ。もっとも、ローナ村で貴様の薬を待つ者が、生きて残っていればの話だがな」


 翌朝、俺は小さな鞄と一冊の調合帳だけを持って、王都を出た。


 自分の価値を証明してやる、などとは思わなかった。


 ただ、最後まで手を握っていた患者の冷たさが、まだ掌に残っていた。


 次に救える命があるなら、今度こそ見捨てたくなかった。


       ◇


 ローナ村へ到着したのは、王都を出て七日目の夕暮れだった。


 村の入口に着いたところで、俺を乗せてきた荷馬車の御者が急に手綱を引いた。


「俺はここまでだ」


「門まで行かないのですか?」


「見ろよ」


 御者が震える指で、村の上空を指した。


 細い黒煙が、三本上がっていた。


 薪を燃やす煙ではない。湿った布と、人の髪が焦げるような、重い臭いが風に混じってくる。


「黒死熱だ。村で出たって、昨日の宿で聞いた。悪いが、金はいらねえ。俺には子どもがいるんだ」


 御者は俺の荷物を道端へ下ろすと、返事も待たず馬車を反転させた。


「黒死熱……」


 喉の奥が乾いた。


 王都の記録庫で、その名前を見たことがある。


 高熱、嘔吐、腹痛、そして皮膚に浮かぶ黒い斑点。流行した村では、一月のうちに半数近くが死ぬこともある病。


 施療院では『神の怒りに触れた土地に広がる穢れ』と教えられていた。


 だが、俺は古い診療記録を読むうちに疑問を持った。


 黒死熱が起きた土地のほとんどは、鉱山町か、鉱山跡の近くだったからだ。


 村の門は閉じられていた。


「王都施療院から来ました! アレン・ローディスです!」


 叩いても返事はない。


 もう一度、拳を上げたときだった。


 内側から、かすかな足音が聞こえた。


 扉の隙間が開き、十歳ほどの少女が顔を出した。頬はこけ、髪には煤がついている。両手で木の桶を抱えていた。


「お医者……さま?」


「薬師です。村に病人がいると聞きました」


「お姉ちゃんが……おじいちゃんが……みんな、熱くて……」


 少女が一歩踏み出した。


 その瞬間、抱えていた桶が地面へ落ちた。


 少女の膝が折れる。


「危ない!」


 俺は駆け寄り、その体を抱き止めた。


 額に触れた手へ、焼けるような熱が伝わる。


 首筋には、爪先ほどの黒い斑点がいくつも浮かんでいた。


「誰か! この子の家族は!」


 俺の声に、ようやく門の向こうから人が現れた。


「ミナ!」


 真っ先に走ってきたのは、栗色の髪を一つに束ねた若い女性だった。歳は俺と同じくらいだろう。顔色は悪く、袖をまくった腕には何度も水を運んだ跡がある。


「ミナ、しっかりして!」


「姉上ですか?」


「はい、リナです。お願いです、妹を……」


 そこまで言って、リナは俺の服に付いた施療院の古い徽章に気づいた。


 希望を浮かべかけた表情が、すぐに曇った。


「……王都から、今さら何をしに来たんですか」


「え?」


「病が出たと知らせを送ったのは十二日前です。返事はありませんでした。薬も、治療師も来なかった。父も母も昨日亡くなりました」


 声は怒っているのに、涙は出てこなかった。


 泣く力すら残っていないのだ。


「俺は救援として来たわけではありません。王都から、この村へ追放されました」


「追放……?」


「ですが、薬師です。妹さんを診せてください」


 リナは俺を見つめたまま動かなかった。


 彼女の後ろから、杖をついた老人が歩いてきた。


「リナ。ミナを中へ運べ」


「村長……」


「選べる状況ではない。王都に捨てられた者だろうが、悪魔だろうが、孫を救える可能性があるなら使う」


 老人は俺へ向き直った。


「ベルグだ。この村の長をしている。薬師殿、わしらにはもう、棺桶を作る木も残っておらん」


 その声を聞いた瞬間、俺の中で何かが決まった。


「空いている建物はありますか。できれば広く、火が使える場所を」


「古い集会所ならある」


「そこを施療所にします。歩ける人は全員、病人を運ぶ準備をしてください。それから、誰も井戸水を飲まないでください」


 村長の目が鋭くなる。


「井戸水だと?」


「確かめます。ですが、まずは止めるべきです」


 リナが呆然と呟いた。


「でも、井戸を止めたら……私たちは何を飲めば……」


「村に他の水場は?」


「南の森に湧き水があります。でも、往復で一刻近くかかります」


「動ける人で運びます。水は煮沸し、飲ませる器も分ける。今からです」


 俺は倒れたミナを抱き上げた。


「一人も、これ以上遅らせません」


       ◇


 集会所に運び込まれた患者は三十四人いた。


 村の人口は、もともと六十人ほどだったという。十二日前に最初の病人が出てから、すでに九人が亡くなった。歩ける者も、ほぼ全員が家族の看病で疲弊している。


 俺は一人ずつ、脈と呼吸、皮膚の斑点、嘔吐の回数、最後に飲んだ水を確認した。


「何をしているんだ」


 壁際で腕を組んでいた大男が、苛立った声を上げた。炭鉱夫らしく、太い腕に無数の傷が走っている。


「病人を並べて質問して、治るのか? 薬があるなら早く飲ませろ」


「薬を間違えれば死にます。全員が同じ病に見えても、体の残っている力は違います」


「王都の連中は、いつもそうだ。難しいことばかり言って、結局は助けられねえ」


「ガラン、やめなさい」


 リナが制したが、ガランと呼ばれた男は拳を握ったままだった。


「俺の女房は、三日前に死んだ。熱が出たから、神殿で買った浄化薬を飲ませた。そしたら、その日の夜に黒い斑が一気に広がった。薬師だろうが治療師だろうが、俺はもう信じねえ」


「その浄化薬の瓶は残っていますか」


「何だと?」


「中身を確認したい」


 ガランは俺を睨みつけたあと、懐から空の小瓶を放った。


 瓶底に、銀色の粉がこびりついている。


「銀灰霊薬……」


 俺の背中に冷たい汗が流れた。


 神殿や施療院が、原因不明の熱病に使う高価な浄化薬。通常の腐敗熱には効果を示すが、ある鉱物性の毒に触れると、体内で毒性を強める危険がある。


 俺が施療院で何度も使用制限を提案し、ダリウスに握り潰された薬だった。


「井戸へ案内してください」


 ガランが眉を吊り上げる。


「だから、薬を作れと言っている!」


「奥さんが亡くなった理由を知りたくないんですか」


 その一言に、男の顔が凍りついた。


 俺たちは集会所の裏手にある共同井戸へ向かった。


 井戸の石縁には、黒ずんだ苔のようなものが付着していた。水を汲み上げると、一見澄んでいるが、底に薄い銀色の濁りが漂っている。


 俺は鞄から乾燥させた青灯草を取り出した。


「それは?」


 村長が尋ねる。


「鉱石の毒を調べるための薬草です。毒がなければ青いまま、黒銀鉱の成分が混じっていれば紫黒色になる」


 青灯草を二つの器に分け、一方へ井戸水を注いだ。


 青かった葉が、みるみる黒紫に染まっていく。


 村人たちの間から悲鳴が上がった。


「嘘だ……俺たちは、ずっとこの水を……」


「まだです」


 俺はもう一つの器へ、ガランから受け取った銀灰霊薬の残りを削って加えた。


 黒紫だった水が、泡を立てて墨のように濁った。


「銀灰霊薬は、井戸の毒と合わさるとさらに強い毒へ変わる。奥さんは病だけでなく、薬によって急激に悪化した可能性があります」


 ガランの顔から血の気が引いた。


「じゃあ……俺は……俺が飲ませたから……」


「あなたのせいではありません」


 俺ははっきり言った。


「薬を売る者が、使ってはいけない病を調べていなかった。原因を探ろうとしなかった施療院の責任です」


 ガランは俯き、肩を震わせた。


 怒鳴られるか、殴られるかと思った。


 だが彼は、絞り出すような声で言った。


「……俺に、何をすればいい」


「井戸を封鎖してください。誰一人、近づけないように。それから南の湧き水を確認します。そこにも毒がなければ、水運びの班を作る」


「湧き水を煮れば毒は消えるのか?」


「いいえ。鉱毒は煮ても消えません。煮沸は別の感染を防ぐためです。だから先に、湧き水そのものに鉱毒がないか調べます」


 村人たちは顔を見合わせた。


 魔法で光らせて病を消す話ではない。使っていた水を止め、遠い森から運び、鍋を洗い、器を分ける。


 面倒で、地味で、すぐに治ったと実感できることでもない。


 それでも、リナが真っ先に桶を抱えた。


「私が行きます」


「俺もだ」


 ガランが背負い桶を持ち上げる。


「女房にできなかったことを、残ってる奴らにする」


 村長は震える手で鐘を握った。


「動ける者を集める。薬師殿、指示を出してくれ」


 初めて、誰かが俺を薬師と呼んだ。


       ◇


 南の湧き水には、黒銀鉱の反応はなかった。


 俺たちは集会所を臨時施療所へ変えた。


 症状の重い患者は炉に近い側へ。軽症の者は反対側へ。吐瀉物や汚れた布に触れる者は布を口元に巻き、作業後に必ず手を湯で洗わせる。


 煮沸した安全な水には、塩と蜂蜜を加え、吐かない程度に少量ずつ飲ませる。


「これが薬なのですか?」


 リナが、木杯に入った透明な液を見て尋ねた。


「治療の土台です。熱や下痢で水分を失えば、毒に耐える前に体が負ける。薬を飲める体を残すためのものです」


「魔法みたいに、一度で治すことはできないんですね」


「できません」


 俺は眠ったままのミナを見た。


「だから、何度でも飲ませます。何度でも様子を見ます。生きようとしている体を、見放さないために」


 リナは何も言わず、妹の唇へ水を一匙運んだ。


 だが、安全な水だけでは、すでに体へ入った黒銀毒を排出できない。


 解毒には月白草が必要だった。


 月白草は、黒銀鉱の近くに生える希少な薬草で、その葉には鉱毒を吸着して体外へ流す性質がある。王都で調べた文献には記録されていたが、施療院では「古い民間療法」として相手にされなかった。


「この辺りに、白くて葉の裏が銀色の草はありませんか?」


 俺が尋ねると、村長とガランが同時に顔を上げた。


「ある」


 ガランが答えた。


「閉鎖した鉱山の崖に生えてる。鉱夫たちは『亡者の花』って呼んでた。坑道で倒れた奴のそばに、よく咲いていたからな」


「必要です。重症者を救うには、それしかない」


「だが、今の鉱山道は危険だ。先月の雨で吊り橋が落ちてる」


「俺が行きます」


「道も知らねえ奴が行って、辿り着けるか」


 ガランは腰の革帯を締め直した。


「俺が連れていく」


「ガランさん、奥さんを亡くしたばかりなのに……」


 リナの言葉に、彼は目を伏せた。


「だからだよ。俺がただ寝て泣いてる間に、また誰かが死んだら、あいつに顔向けできねえ」


「私も行きます」


 リナが立ち上がった。


「駄目です。ミナさんのそばにいてください」


「妹のために必要な薬でしょう。私はあの山で薬草を摘んで育ちました。似た草を間違えたら時間を失います」


「ですが――」


「ここで待つだけなんて、もう嫌なんです」


 リナの声が震えた。


「父と母のときは、何をすればいいか分からなかった。水を飲ませて、浄化薬を買って、でも二人とも死んでしまった。今度は、助けるために動けるなら動きたい」


 俺は反論できなかった。


 患者を救うのは、薬師一人の仕事ではない。


「分かりました。ただし、必ず俺とガランさんの間を歩いてください」


 リナは強く頷いた。


 俺は軽症者への指示を村長に託し、ミナの脈をもう一度確認した。


 細く、速い。


 戻れる時間は、そう多くなかった。


       ◇


 鉱山へ続く山道には、雨が流れた痕が黒い筋となって残っていた。


 辺りには、枯れた木と崩れかけた鉱夫小屋が点在している。


「昔は、ここに百人以上いた」


 先頭を歩くガランが、前を見たまま言った。


「銀が出てる間は、領主も王都の商人も毎月のように来た。鉱脈が枯れた途端、道の修理も医者の派遣もなくなった。残った俺たちは、勝手に滅びろってことなんだろうな」


「……すみません」


「お前が謝ることじゃねえ」


「俺は王都にいました。記録の中で黒死熱を見つけても、調べているつもりになっていただけで、ここへ来ようとはしなかった」


 ガランが足を止め、振り返った。


「来なかった奴は何百人もいる。来てくれた奴は、お前一人だ」


 胸の奥を、重い言葉が突いた。


 やがて道の先に、崩れた吊り橋が現れた。


 谷の向こうの岩壁に、月明かりのような白い花が群生している。


「あれが月白草です」


 リナが息を弾ませた。


 しかし、吊り橋の板は中央部分が落ち、残った縄も黒く濡れていた。下では、山から湧いた濁流が轟音を立てている。


「迂回路は?」


「坑道を抜ければ向こう側へ出られる」


 ガランが、半ば崩れた坑口を指した。


「ただし、鉱山が閉じた原因は奥の崩落だ。中がどうなってるかは分からねえ」


 谷を渡るか、坑道を抜けるか。


 どちらも危険だった。


 俺は岩壁を見つめ、ふと足元へ視線を落とした。


 黒い水が、坑口から細く流れ出している。そしてその流れは、山道の溝を伝って、村の井戸がある方角へ伸びていた。


「これだ……」


「どうしたんですか?」


「坑道に溜まった雨水が、黒銀鉱を溶かして村の地下水へ混じっている。これを止めなければ、井戸を掘り直してもまた同じ病が起きます」


 ガランが拳を握り締めた。


「病の元が、目の前から流れてやがったのか……」


「今は薬草が先です。水路は、皆が回復してから塞ぎます」


「いや」


 ガランは坑道の脇に積まれていた古い木材を見た。


「薬草を取ったら、帰る前に流れを少しだけ逸らす。俺たちが薬を飲ませてる間も、毒は村へ流れ続けるんだろ」


「危険です。時間も――」


「俺は鉱夫だ。崩れた坑道の水を逃がすくらいならできる。薬師が病の治し方を決めるなら、鉱山の始末は俺にやらせろ」


 その顔には、もう疑いはなかった。


 俺は頷いた。


「生きて戻ることが条件です」


「そっちもな」


 三人は坑道へ入った。


 奥へ進むほど、空気に鉄臭い湿気が混じる。松明の灯りの下で、壁一面の黒銀苔が鈍く光っていた。


「触らないでください。水も跳ねないように」


「こんなものの中で、俺たちは何年も働いてたのか……」


 坑道の半ばまで進んだとき、リナが声を上げた。


「あそこです!」


 崩落した岩の隙間から、外の白い光が差し込んでいる。その足元に、月白草が何株も根を張っていた。


「根は抜かず、葉と茎だけを。葉の裏が銀色のものだけです」


 三人で急いで摘み取る。


 袋が半分ほど埋まったとき、奥から低いうなりのような音がした。


 ガランの顔色が変わる。


「走れ! 水が来る!」


 崩落した岩の向こうから、溜まっていた濁水が一気に噴き出した。


 俺はリナの腕を掴んで入口へ走る。足元を黒い水が追いかけ、松明が消えた。


「ガランさん!」


 振り返ると、ガランは脇道に積まれていた古い支柱を蹴り倒していた。


「先に行け! 流れを村と反対へ向ける!」


「一人では無理です!」


「薬草を濡らしたら全部終わりだろうが! 持って帰れ、薬師!」


 濁水が彼の膝まで迫る。


 俺は袋をリナに押しつけた。


「これを持って出口へ! 絶対に水に触れさせないでください!」


「アレンさん!?」


「すぐ追いつきます!」


 俺はガランのもとへ戻り、倒れかけた支柱へ肩を当てた。


「馬鹿野郎、戻ってくる奴があるか!」


「患者を救うために来たのに、協力してくれた人を置いて帰れません!」


 二人で支柱を押し込み、流れの前へ斜めに噛ませる。土砂がぶつかり、濁水の流れが大きく揺れた。


「もう一本!」


 ガランが叫ぶ。


 残った板材を押し込み、岩を積む。


 黒い水は一度溢れかけたが、やがて別の裂け目へ勢いよく流れ始めた。


 村へ下る溝から、水が外れていく。


「できた……」


 その瞬間、天井から石が崩れ落ちた。


 ガランが俺を突き飛ばし、肩へ岩を受けた。


「ぐっ……!」


「ガランさん!」


 腕は動く。骨は折れていないようだが、肩が大きく切れ、血が流れている。


「薬師……怪我人一人、追加だ……」


「笑っている場合ですか。立てますか!」


「ああ。女房に会いに行くには、まだ土産話が足りねえ」


 俺は彼の無事な腕を肩に回し、出口へ向かった。


 外では、薬草の袋を抱えたリナが泣きながら待っていた。


「戻ってきた……二人とも……」


「泣くのは後です。村へ戻ります」


 薬草は手に入った。


 毒の流れも一時的に変えた。


 あとは、間に合うかどうかだった。


       ◇


 村へ戻ると、集会所の前に見覚えのある紋章の馬車が停まっていた。


 銀百合――王都施療院の紋章。


「ようやく戻ったか、逃亡薬師」


 入口に立っていた男の声を聞いた瞬間、胃の底が冷たくなった。


 白銀の聖衣に、宝石のはめ込まれた杖。


 セルド・ヴァレイン。


 俺が止めた赤霊薬を投与し、患者の死の責任を俺へ押しつけた上級治療師だった。


「なぜ、あなたがここに」


「愚かな質問だな。辺境で黒死熱が発生した以上、王都施療院が鎮圧に来るのは当然だろう」


 セルドの足元には、銀灰霊薬の箱が何段も積まれていた。


 嫌な予感が的中した。


「その薬を患者に使ったのですか」


「当然だ。穢れを祓う薬だぞ。すでに半数へ投与を終えた」


 目の前が真っ暗になった。


「止めろ!」


 俺は集会所へ飛び込んだ。


 さっきまで落ち着き始めていた患者の何人かが、激しく痙攣している。黒い斑点が腕から胸へ急速に広がり、息を吸うたび喉から苦しげな音が漏れていた。


 ミナの寝床の横には、銀灰霊薬の杯が置かれている。


「ミナには?」


 リナが真っ青な顔で首を振った。


「飲ませようとされたんです。でも、アレンさんが戻るまで待つと言って……」


「よく止めてくれました」


 俺は杯を払い落とした。


 セルドが杖の先を俺へ向ける。


「貴様、上級治療師の処方を妨げる気か」


「この病は穢れではない。井戸へ流れ込んだ黒銀鉱の毒です。銀灰霊薬は毒を増幅させる。今すぐ投与を中止してください!」


「黒銀鉱? 馬鹿馬鹿しい。治癒魔法すら持たぬ雑用係が、私の術理を否定するのか」


「証拠ならあります」


 俺はガランへ目を向けた。


「井戸から汲んだ水を、まだ残していますか」


「ああ!」


 ガランは負傷した肩を押さえながら、井戸水を入れた壺を持ってきた。


 俺は集会所の中央で、井戸水へ青灯草を浸した。瞬く間に黒紫に変わる。


「これが黒銀毒の反応です。そして、銀灰霊薬を加えると――」


 セルドの薬瓶を一本取り、数滴垂らす。


 器の中身は泡立ち、黒い泥のように固まった。


 村人たちが息を呑んだ。


「あなたが飲ませた薬は、患者の体内でこれを起こしています」


「小細工だ!」


 セルドが叫ぶ。


「貴様は追放された腹いせに、王都施療院の信用を貶めようとしている! 衛兵、この男を捕らえろ!」


 同行していた二人の衛兵が戸惑いながら進み出る。


 だが、その前にガランが立った。


 肩から血を流しながら、片手でつるはしを握っている。


「こいつに触るなら、まず俺をどかしてみろ」


「貴様、治療師へ反逆する気か!」


「俺の女房は、その薬を飲んだ夜に死んだ。今、お前が飲ませた奴らも同じように苦しんでる。反逆でも何でもいい。もう、お前には誰も触らせねえ」


 リナも、ミナの寝床の前に立った。


「妹を救ってくれようとしているのは、アレンさんです」


 そして、一人、また一人と村人が立ち上がった。


 村長ベルグが、震える手で杖を床へ突く。


「セルド殿。王都が十二日間来なかった間、この村で病人を診たのはアレン殿だ。わしらは、自分たちの命を預ける相手を、自分たちで決める」


 セルドの頬が引きつった。


「辺境の愚民どもが……後悔するぞ。私が治療を中断したあとで全員死んでも、王都は一切責任を取らん!」


「責任なら俺が取ります」


 俺は月白草の袋を卓上へ置いた。


「この村の患者は、俺が治療します」


 セルドはしばらく俺を睨みつけていたが、やがて聖衣を翻した。


「好きにしろ。明日には、お前が村人を殺したという報告書を王都へ送ってやる」


 馬車の音が遠ざかる。


 追い払った安堵に浸る時間はなかった。


 銀灰霊薬を飲まされた患者たちは、一刻を争う状態だった。


「火を強くしてください! 月白草を洗う水は南の湧き水だけを使う! 炭を細かく砕いて、清潔な布を用意してください!」


 俺は月白草の葉を刻みながら、調合帳を開いた。


 黒銀毒への処方は、文献をもとに俺が試作を重ねていたものだ。だが、銀灰霊薬との複合毒に対して、量を間違えれば患者の体力をさらに奪う。


 まずは最も症状の重い男性の体格と脈を確認し、薄めた薬液を一匙だけ飲ませる。


「どうなるんですか……?」


 妻らしい女性が震えながら尋ねた。


「分かりません。ですが、今は毒を体の外へ出すしかない」


「お願いします……この人まで、連れていかないで……」


「できることは、全部します」


 数分後、男性は激しく吐いた。


 吐瀉物の中に、黒い泥のような塊が混じっている。


 脈を取る。


 まだ速い。だが、先ほどのような不規則な乱れは弱まっていた。


「効いている……」


 俺は息を吐いた。


「この濃さでいきます。重症者から順に飲ませる。飲んだ後は、必ず水を少しずつ与えてください!」


 村人たちが一斉に動き始めた。


 リナは俺の隣で薬液を量り、村長は患者の名前と投与時刻を炭板へ記した。ガランは片腕を吊ったまま、火の前で湯を切らさないよう鍋を替え続ける。


「その肩を先に縫わせてください!」


「俺はまだ立ってられる。寝てる奴を先にしろ」


「化膿したら腕を失いますよ」


「そんときは片腕で水を運ぶ。ほら、次の薬だろ」


 頑固さに言葉を失いながらも、俺は手を止めなかった。


 夜が更けるにつれ、一人、また一人と痙攣が治まり始めた。


 けれど、ミナだけは熱が下がらなかった。


 銀灰霊薬こそ飲んでいないものの、病が進みすぎている。脈は糸のように細く、呼びかけにも反応しない。


「ミナ……」


 リナが妹の手を握り、声を押し殺した。


「アレンさん、薬は……薬は効かないんですか」


「毒の反応は弱まっています。ですが、体力が残っていない」


「そんな……」


 リナの指先が震える。


 俺はミナの乾いた唇と、汗の量を見た。熱で水を失い、呼吸も浅い。ここで濃い解毒薬を追加すれば、体が負ける可能性がある。


 施療院なら、きっと強い薬を使っただろう。


 目に見える治療をして、だめなら病のせいにする。


 俺は、もう同じことをしたくなかった。


「薬を薄くします」


「薄く? もっと強い薬を飲ませるんじゃないんですか?」


「ミナさんが今必要としているのは、毒を一気に追い出す力ではありません。朝まで生きるための水と、呼吸を続けるための体温です。薬は体が耐えられる量だけにする」


「でも、それで間に合わなかったら……」


「強い薬で今すぐ命を奪うより、ミナさんの生きる力を信じます」


 俺は自分に言い聞かせるように答えた。


「俺は、薬を使ったという結果が欲しいんじゃない。ミナさんに生きてほしい」


 リナは涙を拭い、強く頷いた。


「何をすればいいですか」


「一匙ずつ水を飲ませてください。吐いたら休み、また一匙。手足は温める。名前を呼び続けてください」


「分かりました」


 リナは妹の手を両手で包んだ。


「ミナ。聞こえる? 春になったら、南の森の花を見に行くって言ったよね。お姉ちゃん一人では迷子になるから、あなたが一緒に来てくれないと困るの」


 木匙が、震える唇へ当てられる。


 一口。


 少し待って、もう一口。


 俺は脈を測り、薬液の濃さを調整し、また別の患者へ走った。


 夜は永遠に終わらないように思えた。


 治癒魔法が使えれば、と何度も思った。


 光を浴びせるだけで熱が消え、傷が塞がり、皆が笑えるのなら、どれほどよかっただろう。


 けれど、俺の手にあるのは薬草と、水と、患者の小さな変化を見逃さないための目だけだ。


 ならば、最後までそれを使い切る。


 窓の外が白み始めた頃、リナが息を呑んだ。


「アレンさん……ミナの手が……」


 俺はすぐに寝床へ駆け寄った。


 冷たかった指先に、わずかだが温かさが戻っている。


 額へ触れる。


 焼けるようだった熱が、下がり始めていた。


 首筋の黒斑も、広がりが止まっている。


「ミナさん」


 呼びかけると、少女の瞼が微かに動いた。


「……おねえ、ちゃん……」


 かすれた声だった。


 それでも、確かに生きている声だった。


 リナが泣きながら妹を抱きしめた。


「いるよ。ここにいるよ、ミナ……!」


 集会所のあちこちから、嗚咽と安堵の声が上がる。


 村長が俺の前で深々と頭を下げた。


「薬師殿……ありがとう。孫を、村を救ってくださった」


「まだ、終わっていません」


 俺は立ち上がろうとして、足元が大きく揺れるのを感じた。


 ガランに腕を掴まれ、辛うじて倒れずに済む。


「終わってねえのは分かった。だが、お前が倒れたら次の薬が作れねえ。少し寝ろ」


「ガランさんの肩の処置が先です」


「……本当に面倒な薬師だな」


「患者の言うことを聞かない患者よりはましです」


 一瞬の沈黙のあと、ガランが噴き出した。


 それにつられて、リナも、村長も笑った。


 死の臭いに覆われていた集会所に、初めて人の笑い声が戻った。


       ◇


 それから七日間、新たに黒死熱を発症する者はいなかった。


 銀灰霊薬を飲まされた患者たちも、全員が峠を越えた。


 すでに亡くなった九人を戻すことはできない。


 埋葬の日、ガランは妻の墓前で長い間黙っていた。


「なあ、薬師」


「はい」


「俺は、あいつを助けられなかったことを、一生忘れられねえと思う」


「忘れなくていいと思います」


「……慰める気はねえのか」


「俺も、王都で救えなかった患者のことを忘れられません。忘れたくもありません。その人がいたから、次の一人を救うときに立ち止まれる」


 ガランは墓標を見たまま、小さく息を吐いた。


「なら、俺も立ち止まりながら生きるか。井戸を直して、毒の水なんか二度と飲ませねえようにな」


「手伝います」


「お前は薬を作れ。力仕事は俺たちの担当だ」


 言葉のとおり、村人たちはすぐに動き始めた。


 毒の流れを完全に塞ぐため、ガランたち元鉱夫が山の排水路を作り直す。南の湧き水から村へ水を引くため、使える木材を集める。リナは月白草の根を湿地へ植え替え、俺の横で薬草の見分け方を覚え始めた。


「葉の裏が銀色なのが月白草。似た白花草は裏が緑で、煎じると腹痛が出ます」


「裏が銀色……こっちですね」


「正解です」


「先生、私、才能があるかもしれません」


「まだ一種類です」


「では、百種類覚えたら認めてくれますか?」


「百種類を、安全な量と使い方まで覚えたら」


「思ったより厳しい……」


 リナが頬を膨らませ、その横で元気になったミナが笑う。


「お姉ちゃん、にがい薬も作れるようになるの?」


「ミナには甘い薬だけ作ってあげる」


「ずるいですね。俺の薬を苦いと決めつけて」


「だって、先生の薬は本当に苦かったです」


 患者だった村人たちが、口々に頷いた。


 俺は少しだけ傷ついた。


 だが、薬の味について文句を言えるほど、皆が回復したということだ。


 それは、どんな称賛より嬉しかった。


 そんなある日の昼下がり、村の入口に三台の馬車が現れた。


 村人が警戒して集まる中、先頭の馬車から降りてきたのは、深緑の外套を着た若い男性だった。胸元には、北境を治めるノルディア辺境伯家の紋章がある。


「この村の長と、アレン・ローディス殿に会いたい」


 村長とともに前へ出ると、男性はまず深く頭を下げた。


「私はクラウス・ノルディア。辺境伯の嫡男だ。救援が遅れ、多くの命が失われたことを詫びる」


 貴族が辺境の村人へ頭を下げるなど、王都では見たことがなかった。


 村長も驚きながら頭を下げ返す。


「どうして、こちらへ……」


「王都施療院から、ローナ村では追放薬師が誤った治療を行い、上級治療師の介入を妨害したとの報告が届いた」


 村人たちの顔が険しくなる。


 やはり、セルドはそう報告したのか。


「しかし妙だった。施療院は村が全滅する恐れがあると書いているのに、救援物資の追加要請も、患者の移送要請も出していない。そこで直接確認に来た」


 クラウスは、歩いて集まってきた元患者たちを見渡した。


「どうやら、報告とはまるで違うようだ」


「この方が救ってくださいました!」


 リナが、俺より先に声を上げた。


「アレンさんは、村へ来たその日に病人を診て、井戸の毒を見つけて、山まで薬草を取りに行って、皆を治療してくださいました。王都の治療師が薬で患者を悪化させたときも、この方が救ってくれたんです」


「俺も証言する」


 ガランが一歩前へ出る。


「俺の妻は、王都の浄化薬で悪化して死んだ。アレンは、その薬を飲まされた連中を一人も死なせなかった」


 次々に、村人が声を上げた。


 助けられた家族の名を呼び、夜通し水を飲ませたことを話し、毒の流れを止めた山道を指差した。


 俺は、何も言えなくなった。


 王都では、どれほど働いても「魔法が使えない」の一言で無能とされた。


 ここでは、俺のしてきたことを、一人ひとりが見てくれていた。


 クラウスは静かに話を聞き終えると、俺の前へ来た。


「アレン・ローディス殿。あなたへ二つ伝えることがある」


「はい」


「一つ。黒死熱の原因と治療について、辺境伯家の名において正式な調査を行う。井戸と鉱山の管理不備、そして王都施療院の薬剤使用についても調べる。虚偽の報告があったなら、相応の責任を問う」


 胸の奥で、固く絡まっていたものが少しほどけた。


 復讐を願っていたわけではない。


 ただ、救えなかった人たちの死を「神罰」で片づけてほしくなかった。


「そして二つ。ローナ村に診療所を設けたい。あなたに、正式な村付き薬師として勤務してもらえないだろうか。調合所、薬草畑、水路改修の費用は辺境伯家が負担する。報酬も王都の薬師に劣らぬ額を用意する」


 辺りが静まり返った。


 追放された俺にとって、これ以上ない申し出だった。


 だが、俺はすぐには答えなかった。


「条件があります」


「聞こう」


「診療所は、俺だけのものにしないでください。村の人が薬草の扱いと衛生の知識を学べる場所にする。俺がいない日でも、病の兆候に気づき、水を確認し、初期の対応ができるようにしたい」


 隣で、リナが驚いたように俺を見た。


「それから、ここで育てた薬草を辺境のほかの村へ届ける仕組みを作ってください。ローナ村は救われるだけの村ではなく、誰かを救える村になれます」


 クラウスは目を細めた。


「自分の地位ではなく、村の役割を求めるのだな」


「俺一人が評価されても、次の病で誰かが取り残されれば意味がありません」


 しばしの沈黙のあと、クラウスは微笑み、右手を差し出した。


「条件をすべて受けよう。王都施療院は、とんでもない薬師を手放したものだ」


 俺は、その手を握った。


「よろしくお願いします」


「こちらこそ、ローナ村の薬師殿」


 その呼び名に、村人たちから歓声が上がった。


 リナが目元を拭いながら、嬉しそうに笑っている。


 ミナは俺の白衣の裾を引っ張った。


「先生、これでずっと村にいるの?」


「ああ。そのつもりだよ」


「じゃあ、甘い薬の約束、逃げられないね」


「……それは、努力します」


「絶対だよ!」


 少女の笑顔に、俺も笑った。


       ◇


 一月後。


 ローナ村の入口には、新しい看板が立っていた。


 ――ローナ薬草診療所。


 その下に、村長がどうしても入れたいと言って刻んだ言葉がある。


 ――誰も、見捨てない場所。


 新しい診療所の棚には、月白草、熱下げ草、傷洗いの樹皮、咳止めの実が、種類ごとに整然と並べられていた。すべての瓶には、リナが書いた不揃いな札がついている。


「先生、月白草の乾燥分、記録できました」


「確認します。……量の欄が一桁多いです。この量を煎じたら、村中の人が苦さで泣きます」


「えっ、嘘! 直します!」


 慌てて帳面を抱えるリナの横から、ミナが顔を出した。


「お姉ちゃん、まだまだだね」


「ミナは文字の練習を先にしなさい」


「私は薬を飲む係だからいいの」


「それは病気になった人の係です。元気な人の係ではありません」


 俺が言うと、ミナは不満そうに頬を膨らませた。


 外では、ガランたちが新しい水路の最後の板を打ち込んでいる。毒の混じった古井戸は埋められ、山の排水は村の外へ流れるようになった。


 畑には、白い月白草の花が小さく揺れていた。


 その日、辺境伯から一通の封書が届いた。


 王都施療院の院長ダリウスと上級治療師セルドについて、黒死熱への誤った処方と虚偽報告の調査が正式に始まったこと。


 そして、俺がまとめた黒死熱の診療記録を、北境すべての村へ配布したいという依頼が書かれていた。


 封書を読み終えた俺に、ガランが尋ねた。


「王都へ戻れって話か?」


「いいえ。俺の記録を広めたいそうです」


「そうか」


 ガランは満足そうに笑い、新しい診療所を見上げた。


「なら、ここから広めりゃいい。お前の居場所はもう、王都じゃねえだろ」


 俺は、白い看板を見た。


 治癒魔法の使えない俺は、王都では無能だった。


 傷を一瞬で塞ぐ光も、高熱をたちまち消す奇跡も起こせない。


 けれど、病人の声を聞くことはできる。


 原因を探し、薬を選び、命が朝まで続くように支えることはできる。


 そして、病が起きてから救うだけではなく、二度と同じ苦しみが起きない場所を作ることもできる。


「先生!」


 診療所の入口で、リナが真新しい白衣を広げていた。


「辺境伯様から届きました。正式な薬師の制服だそうです」


 胸元には、銀百合ではなく、白い月白草の刺繍が施されている。


「着てみてください」


「今ですか?」


「今です。皆、待っていますから」


 外を見ると、村人たちがいつの間にか集まっていた。


 俺は照れくささを隠しながら白衣に袖を通した。


 リナが胸元の皺を整え、少しだけ目を潤ませる。


「似合っています、アレン先生」


 その言葉に、村人たちが大きな拍手を送った。


 役立たずとして追放された先で、俺は初めて、自分の仕事を誇れる場所を得た。


 終わった村と呼ばれたローナ村は、これから薬草と清らかな水の村として生まれ変わっていく。


 その始まりに必要だったのは、眩しい奇跡などではない。


 見捨てられた命を、最後まで見捨てないと決めた、一人の薬師の手だった。


 ――そして今日も、診療所の中からミナの声が響く。


「先生! この薬、やっぱり苦い!」


「良薬は苦いものなんです」


「甘くするって約束したのに!」


「……次こそは、努力します」


 村中に笑い声が広がった。


 俺は薬草の香りに包まれながら、次の薬を調合するため、静かに袖をまくった。


 ここが、俺の生きる場所だ。

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