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第8話:辺境の監獄と水の洗礼

辺境への護送は、心身を極限まで蝕む旅路だった。セシリア(誠)は、一週間、粗末な馬車と冷たい騎士たちの監視のもと、埃と揺れに耐え続けた。その間、彼は意識的に「悪役令嬢セシリア」という仮面を貼り付け、一切の感情の揺れを外部に見せなかった。


到着した辺境の監獄は、王国の最外郭、人里離れた荒涼とした地に位置していた。要塞を転用した石造りの建物は、湿気と冷気に満ち、その重厚な構造は、セシリアを外界から完全に隔離するという、ディラン王子の冷酷な意志を体現していた。


(ここが、俺の「悪役の役割」の終わりであり、「影の聖人」の始まりの地か)


案内役の辺境騎士は、セシリアを「国を乱した大罪人」として扱い、一室へと案内した。


「元セシリア様。こちらの部屋を、貴女様の永住の地とします。二度と王都の地を踏むことは叶いません。監視は厳重です。不審な行動があれば、即座に処分します」


騎士は、冷酷な言葉を投げつけ、重々しい鉄の扉を地の底から響くような音を立てて閉ざした。


セシリアは、部屋の中央で立ち尽くした。部屋には、硬い寝台、木製の机、そして壁際に、湯を沸かすための小さな炉と、古い木桶があるだけだ。周囲には、マルティナのような献身的な侍女も、ジェラルドのような忠実な執事もいない。


彼は、その場で小さく、そして長く息を吐き出した。その吐息には、王都の愛憎劇からの解放感と、究極の孤独が混ざり合っていた。


「よし。ここからが、影の聖人の、最も危険な戦場だ。そのためにも、まずはこの『器』を整えなければ」


セシリアは、自ら薪をくべ、炉に火を熾し、湯を沸かし始めた。その一連の動作は、公爵令嬢としての彼にはあり得ない、前世の「佐藤誠」の無骨な生活の記憶を呼び覚ますものだった。


粗末な木桶を満たす湯の量は少ないが、この湯は、セシリアにとって一週間ぶりの安息であり、「女性の身体」と深く対峙する、魂の儀式となる。


湯気が立ち上り、冷たい石造りの部屋に、温かい湿気が満ち始める。セシリアは、ゆっくりと支給された粗末な服を脱ぎ捨てた。


そして、誰にも邪魔されない、この閉ざされた空間で、彼はTS転生後の身体と、否応なく向き合うことになる。


セシリアは、木桶に足を入れ、ゆっくりと湯の中に身体を沈ませた。肌を包む熱い湯の感触は、前世の「佐藤誠」が知っていた、固い筋肉と骨格を癒す湯とは、全く異質なものだった。


彼は、湯の中で、自分の白い肌を掌で撫でた。女性特有の滑らかさ、そして、触れれば壊れそうな、繊細な肌の感触。それは、彼の男性としての自我が、最も強く「他者のもの」と感じる部分だった。


セシリアは、そっと自身の胸元に手を触れた。豊満とは言えないが、丸みを帯び、女性の身体としての柔らかな主張を放つその形。それは、彼の魂にとっては異物であり、「セシリア・アストリア」という女性の肉体を最も強く象徴する部分だった。


彼は、その胸の形を、まるで「他者の所有物」であるかのように、客観的に触れ、観察した。


(この肉体は、完全に女性のそれだ。そして、この胸こそが、聖痕の力を宿す器の中心。俺の魂とは、全く別の法則で構築されている)


彼は、目を閉じ、身体の奥底から込み上げてくるような、性的な違和感と、自己否定感を、湯の中で受け止めようとした。それは、誰にも見せられない、TS転生者としての、最も根源的で、深い個人的な苦悩だった。


彼は、続けて、湯の中で自身の華奢な腰のくびれから太ももにかけての曲線美を撫でた。前世の自分が、「女性の美しさ」として憧憬した、その造形。今、その美しさが、「自分自身」の身体として存在しているという事実は、彼の魂の性別と肉体の性別の間の、深い乖離を際立たせた。


(俺は、この体を「道具」として割り切ったはずだ。だが、この湯の中で、この身体の「美しさ」、「曲線」、そして「性的な訴えかけ」を感じるたびに、「佐藤誠」としての自我が、肉体に引きずり込まれそうになる)


セシリアは、強く唇を噛み締め、自己の魂を肉体から切り離すことを試みた。彼は、この身体の美しさを、感情を交えずに、ただの「兵器」として認識することを、自らに強いた。


「この体は、俺の器だ。聖痕の力を宿し、この世界を救うための、道具だ。それ以上の意味は、持たせない。俺の魂は、この器の、冷徹な管理者でなければならない」


彼は、湯の中で、この女性の肉体に対する「個人的な感情」を、全て流し去ることを決意した。そして、湯から上がり、冷たい外気に触れた身体を、粗末な布で拭った。彼の瞳には、「セシリア・アストリア」という女性の身体を、「影の聖人」という非人間的な使命のためだけに使うという、冷酷な自己決定の光が宿っていた。


湯浴みを終え、セシリアはすぐに【隠密の聖痕】を発動させた。辺境の監獄は、王都の監視から最も遠く、聖痕の力を、最大限に、そして自由に使うことができる最高の舞台だった。


「【隠密の聖痕】――広域探査ディープ・スキャン


セシリアの魔力は、石造りの監獄の壁を抜け出し、辺境の広大な大地、そして王国の国境を越えて、遙か遠くまで探査を開始した。彼が探すのは、内側の腐敗ではなく、王国を真に滅亡に導く、「外側の脅威」だ。


彼の意識が、辺境の森の奥深く、そして国境の山脈へと潜り込んだ、その瞬間。


(……これは、尋常ではない魔力濃度の異常だ。そして、その波動は、一つではない)


セシリアの意識に流れ込んできたのは、極めて高い密度を持つ魔力と、それが複数の異なる場所から、組織的に、そして段階的に放出されているという、異質な事実だった。それは、自然発生的な魔物の脅威ではなく、複数の勢力が、共通の目的を持って、王国を包囲しようとしていることを示唆していた。


(ゲームの記憶を遥かに超えている。魔物そのものの脅威ではない。これは、「人為的に強化された魔物の群れ」と、「それを制御し、国境へ向かわせる異国の魔術師団」の存在を示唆している……!)


セシリアは、自身の「悪役の破滅」が、皮肉にも、「影の聖人」として真の危機に気づくという、最良の展開に繋がったことを悟った。この真実に気づいている者は、今、この国に彼以外に誰もいない。


セシリアの瞳に、新たな孤独な使命の炎が宿った。


「ここからが、俺の本当の戦場だ。辺境の『極悪令嬢』として、誰にも知られずに、この国を外側の危機から守り抜く」


彼は、「辺境の監獄」というこの舞台を、「影の聖人の秘密基地」へと変えることを決意した。彼の孤独な戦いは、「外側の脅威」という、極めて危険な新たなステージへと向かう。


一方、王都では。


ディラン王子は、セシリアを追放したにも関わらず、その心は深い後悔と、自己否定に苛まれていた。彼は、セシリアに与えた追放という罰が、自らの罪への処罰であったかのように感じていた。


「私は、彼女に救われたにもかかわらず、最も屈辱的な言葉を浴びせ、最も辺境へと追いやった。王族として、これ以上の失態はない」


王子は、セシリアの最後の侮辱の言葉、「貴方のような、愚かで未熟な王族」という言葉が、呪いのように頭から離れなかった。彼は、セシリアが追放された場所への秘密裏の視察を決意する。その行動は、「悪役令嬢への復讐」ではなく、「自分の過ちを清算したい」という、王子自身の魂の救済のためだった。


イリスは、ライオネルと共に、セシリアの汚名を晴らすための秘密の調査を水面下で開始していた。彼女は、大神殿の禁書で得た「影の聖痕」の伝説を深く探求していた。その伝説には、「聖痕の力は、持つ者の魂の性別に関係なく、最も深い自己犠牲の瞬間に発現する」という一文が記されていた。


(セシリア様が、なぜ女性の肉体で、男性の魂を持つかのような、孤独な使命を選んだのか……。その個人的な真実に、必ず辿り着く)


イリスは、セシリアの真の救済という、新たな使命を自分自身に課していた。


辺境の監獄で、孤独な湯浴みを通じて女性の身体を受け入れ、外側の脅威を察知したセシリア。 王都の玉座で、己の過ちに苛まれるディラン王子。 王都の光の中で、影の聖人の個人的な真実を探求し始める聖女イリス。


三者の運命は、「影の聖人」がもたらした衝撃的な真実によって、複雑に絡み合い始めていた。セシリアの孤独な戦いは、「外側の脅威」という、極めて危険な新たなステージへと向かう。

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