第2話:悪役令嬢の秘密の夜
公爵令嬢セシリア・アストリアの寝室は、公爵邸の中でも最も豪華で、最も孤独な場所だった。厚い防音の壁と、真冬の寒さを寄せ付けない魔法の暖炉が、外界の喧騒と、セシリアの真の苦悩を遮断していた。
前夜、影で領民の食糧危機を回避するという行動を終えたセシリア(誠)は、侍女たちが去った後、ようやく一人きりになった。彼は、分厚いカーテンの隙間から差し込む月の光の下、ゆっくりとシルクの寝間着を脱いだ。
鏡台の前に立ち、自身の身体を冷徹な分析者の目で観察する。
金髪碧眼の絶世の美少女、セシリア・アストリア。その肉体は、神が選んだ「聖なる器」だ。
(……非現実的だ、何度見ても)
鏡に映るのは、豊満と呼ぶにはまだ幼いが、驚くほど滑らかな曲線を描く女性の体だった。白い肌は光を浴びて青白く輝き、華奢な手首や足首とは対照的に、腰から太ももにかけては女性的な丸みが強く主張している。
セシリアは、そっと胸元に触れた。三十五年間にわたり、シャツとネクタイの下に隠されていた、固い胸板とは全く異なる感触。柔らかく、弾力がある。その感触は、物理的な刺激としてよりも、精神的な違和感として強く彼を襲った。前世で、女性の身体に対して抱いていた「性的な興味」や「美しさへの憧れ」とは全く異質な、「自己の身体ではないもの」としての、強烈な異物感だ。
彼は、己の腰に手を回し、そのしなやかなラインを辿る。男性だった頃の自分の体との違いは、あまりにも明白で、あまりにも根本的だった。
(俺は男だ。男だったんだ。なのに、この体は、俺の意志とは関係なく「女性」という存在を主張している)
この違和感から逃れるために、彼は日中、徹底して「冷血」な悪役令嬢として振る舞う必要があった。この身体が持つ官能的な魅力、その無意識の訴えかけが、彼の「影の献身」の邪魔になることを本能的に恐れていたのだ。誰にも愛されないように、誰にも近寄らせないように。そうしなければ、TS転生者としての自己が崩壊してしまう気がした。
セシリアは、冷水で顔を洗い、その冷たさで己の魂を繋ぎ止めようとした。水滴を拭き取るタオルの感触に意識を集中させ、冷静さを取り戻す。
(だめだ。今は、個人的な苦悩に浸っている暇はない。この身体は、聖なる力を行使するための器。それ以上の意味はない)
彼は、再び寝間着に袖を通した。そして、その袖の下に隠された華奢な手首に、そっと触れた。
(……孤独だ)
誰にも言えない苦悩。前世では、誰かに優しくすることで満たされていた心が、今は、「悪役」という孤独な使命と、「女性の体」という根本的な違和感によって、深く深く削られていくのを感じた。
彼は、冷たいシーツに身を横たえ、夜が明けるのを待った。今、この国で、この身体の苦悩を理解してくれる者は、どこにもいない。
翌朝、セシリアは、公爵令嬢としての完璧な仮面を被り、朝の業務をこなしていた。
(昨夜は、精神的な消耗が激しかった。だが、感傷に浸っている暇はない)
セシリアの【状況把握の極】は、常に王都の政治的、社会的な情報にアンテナを張っている。そして、今日、一つ重要な危機を察知した。それは、王都の商業地区で流行り始めている、「偽造通貨」の流通問題だ。
「ジェラルド。王都の商業ギルドに関する報告書を、今すぐ」
セシリアの冷たい声に、執事のジェラルドは驚きつつも、素早く報告書を差し出した。
「恐れながらセシリア様。こちらの偽造通貨に関する情報は、まだ表沙汰にはなっておりません。なぜご存知で?」
「嗅覚よ。悪意の匂いは、嗅がずともわかるものだわ」
セシリアは報告書を一瞥し、すぐに本題に入った。
(ゲームの記録にはない、小さな事件だ。だが、この偽造通貨が商業ギルドの信用を失墜させれば、王国の経済は大混乱に陥る。最悪、内乱の引き金になる)
セシリアの冷静な分析は、この問題の裏に、王宮内部の特定派閥が関わっていることを示していた。この派閥は、聖女イリスが篤く支援する商業ギルドの力を削ぐために、この偽造工作を行っているのだ。王子の婚約者という立場を利用して公に動けば、セシリアは王宮の敵を増やし、断罪までのカウントダウンを早めてしまう。しかし、放置すれば、国が傾く。
(やることは一つだ。誰にも気づかれずに、この偽造通貨の流通網を、根本から破壊する)
セシリアは、傍らに控える侍女マルティナに、冷たい視線を向けた。
「マルティナ。今日、わたくしは体調が優れないわ。午後の刺繍教室と、夕方の王宮主催の茶会は欠席するわ」
「かしこまりました。王宮への連絡は私が」
「ええ。ただし、わたくしの代わりに、城下町にある孤児院へ、宝石商を訪れさせなさい。そして、『最も高価な装飾品を買い付けよ』と命令しなさい」
マルティナは驚愕し、声のトーンを落とした。
「セシリア様!?孤児院の近くに、そのような店はございません。それに、その行動は、また『聖女様への嫌がらせ』だと取られかねません……」
「わかっているわ。だから、命令するのよ。『孤児院の聖女を嫌がらせるために、無意味な買い物を命じた』と、周囲に思わせなさい。全ては、わたくしの退屈しのぎよ」
セシリアの計画はこうだ。 孤児院の近くにある小さな古道具屋こそ、偽造通貨の最終的な取引場所。宝石商の買い付けという派手で無意味な行動は、裏の取引現場から王宮の派閥の目を逸らす最高の囮になる。宝石商の派手な行動は、「セシリア様はまた聖女様を苛めている」という噂となり、王宮側の偽造犯たちの警戒心を解くだろう。
「マルティナ。そして、その買い付けの費用は、わたくしの私財から出す。ただし、宝石商には『現金』ではなく、『金貨』で支払うよう命じなさい。そして、その金貨の「重さ」と「純度」を、入念に確認させる。『セシリア様が、王宮の財政難を憂慮し、自ら金貨の純度をチェックしている』などと、間違っても言わせてはならないわ」
セシリアは、【隠密の聖痕】を発動させることなく、偽造通貨の流通路(金貨の偽造)を間接的に調査させるという、あまりにも緻密な裏工作を命じていた。金貨の純度を調べさせることで、偽造犯は自分たちの偽造が発覚したと警戒し、一斉に活動を停止するはずだ。
「さあ、マルティナ。早く行きなさい。わたくしは、一人で静かに過ごしたいのよ」
マルティナは、セシリアの美しくも冷たい顔を凝視した。理解できない。この悪役令嬢は、なぜこんな回りくどい、矛盾した行動を取るのか?彼女の瞳には、冷血への恐怖と、一抹の不可解な疑念が混ざり合っていた。
(これでいい。恐怖と誤解こそが、俺の盾だ)
セシリアの孤独な影の戦いが、再び始まった。その体は美しく、その力は聖なるものだったが、その心は、誰にも理解されない鋼の孤独に包まれていた。
午後の公爵邸は静まり返っていた。セシリアはマルティナが王宮と孤児院へ向かったことを確認すると、すぐに身支度を整えた。
黒い簡易なドレスに、フード付きのマント。顔には、魔術師が使うような簡易な幻影の魔法をかけ、金髪碧眼の容姿を、地味な茶髪の平民女性へと変えた。この幻影は【隠密の聖痕】の力ほど完璧ではないが、王宮の監視の目を欺くには十分だ。
セシリアは、王都の商業地区、裏通りにある古道具屋へと向かった。
(偽造通貨の取引を止めるだけでは不十分だ。その背後にいる王宮の派閥、その証拠を押さえなければ、この国を蝕む根本的な腐敗は取り除けない)
裏通りは、表の華やかさとは打って変わって、暗く湿っていた。セシリアは、平民の体の高さから見る世界の汚さに、思わず鼻を覆いたくなった。前世でサラリーマンだった頃の誠は、こんな場所の存在を知ってはいたが、実際に足を踏み入れたことはない。
彼は、古道具屋の裏手に回った。そこは、ゴミと廃材が山積みになり、不潔な臭いが立ち込めている。しかし、セシリアの【状況把握の極】は、この臭いの奥に、微かな魔法の残留物を嗅ぎ取っていた。
「【隠密の聖痕】――痕跡探査」
誰にも見えない光が、セシリアの瞳から漏れ出し、空間に散った魔法の微粒子を追う。それは、この場所で最近、高位の魔術師が「変装」と「記録消去」の魔法を使ったことを示していた。
セシリアは、誰もいないことを確認すると、聖痕の力を全開にした。
「【隠密の聖痕】――真実視」
彼の青い瞳が、一瞬、虹色の光を放つ。その力は、過去の事象の残滓を読み取る。
セシリアの視界に、古道具屋の裏で繰り広げられた、一連の取引の映像が、亡霊のように浮かび上がった。
一人の男。そして、その男から金貨を受け取る、王宮の高官らしき人物の姿。男は、商業ギルドの幹部であり、金貨の偽造に関わっていた。そして、高官の背後には、ディラン王子の側近が立っていた。
(やはり、王宮内部の派閥だ。彼らは、ディラン王子に悪役令嬢セシリアの断罪を急がせるため、わざとセシリアの領地の問題や、その他の問題を大きく見せている。そして、最終的に聖女イリスを女王に擁立したいのだ)
セシリアは、その映像を【隠密の聖痕】で記録した。この証拠があれば、一発で彼らを失脚させることができる。
だが、その瞬間、セシリアの意識は、別の映像に捉えられた。
それは、取引現場から少し離れた路地の影。そこに、フードを深く被った聖女イリスの姿があった。そして、彼女は、ディラン王子ではなく、別の男と密会していた。
その男は、王宮の若き近衛騎士団長、ライオネル。彼は、イリスの肩を抱き寄せ、優しく囁いている。二人の姿は、恋人同士のように親密だった。
セシリアは、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
(聖女イリスは、王子と婚約している。それなのに、別の男と……?まさか、この聖女イリスも、悪意を持ってディラン王子を利用しているというのか?)
セシリアの【状況把握の極】は、この「聖女イリス」の裏切りが、ゲーム本編にはなかった新たな闇であることを告げていた。
彼は、自分の孤独な戦いが、想像以上に深く、そして複雑な陰謀に満ちていることを悟った。
(俺は、悪役令嬢として、王宮内部の腐敗と、偽りの聖女の両方を相手に戦わなければならないのか)
セシリアは、唇を強く噛み締めた。その孤独な決意を、誰も知る由はない。彼は、影に潜み、世界の闇を一人で背負う「影の聖人」として、再び夜の王都へと消えていった。
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