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第1話:悪役令嬢は最初の朝に誓う

瞼を開けると、視界に飛び込んできたのは、煌びやかな天蓋付きのベッドの天井だった。シルクのシーツは肌に滑らかすぎ、身体を包む寝間着は、ただ眠るためだけのものにしてはあまりに装飾過多である。


「……セシリア・アストリア」


自分の口から漏れた声は、昨夜、神に「行け」と告げられて以来、三度目の発声だった。透き通るような高い声。違和感に満ちた、俺の(今は私だが)声。


佐藤誠として三十五年を生きた、あの重厚で渋い自分の声ではない。


セシリア(誠)は、そっと両手を顔の前にかざした。華奢で、驚くほどきめ細かな白い肌。関節一つ一つが、非現実的なほどに完璧な造形をしている。特に、男性だった頃の自分のゴツゴツとした指先を知っているだけに、この変化は精神に重くのしかかる。


(TS転生。そして悪役令嬢……。せめて、体が女になっても、心まで女になってしまうなよ、俺)


彼は、己の心を深く深く探り、前世のサラリーマンとしての冷静さと、男性としての矜持を再確認した。体の変化は受け入れざるを得ないが、魂まで乗っ取られるわけにはいかない。この世界を救うためには、あの時のように冷静で、感情に流されない「俺」である必要があった。


ノックの音と共に、部屋の扉が開いた。


「セシリア様。朝のご準備をさせていただきます」


入室したのは、公爵邸に仕える筆頭侍女のマルティナ。四十代ほどのベテランで、常に完璧な礼儀作法を崩さない、鉄のような女性だ。セシリアの記憶によると、彼女はセシリアに対して、表向きは忠実だが、内心では冷血な主と見下している。


「マルティナ。少し、頭が痛むわ。朝食は自室で静かに済ませたい。準備が整い次第、報告をなさい」


セシリアは、あえて高圧的で無愛想な声色を選んだ。マルティナは一瞬、眉をひそめたが、すぐに鉄仮面に戻した。


「かしこまりました。王宮からの伝書も届いております。朝食の後にお持ちしましょうか」


「構わないわ。今すぐ持ってきなさい」


セシリアの言葉には、まるで優雅な命令の響きがあった。マルティナは無言で一礼し、踵を返した。


(よし。完璧な悪役だ。昨日、階段を修繕したことで、使用人の信頼はわずかに稼げたかもしれない。だが、そんなものは脆い砂の城だ。俺が目指すのは、恐れられる悪役だ。無駄に優しさを見せて、心を許す者を作ってはならない)


【隠密の聖痕】は、彼が裏で人を救うための最強のツールだ。だが、その力の特性上、彼が表舞台でどれだけ冷酷に振る舞っても、裏の功績が表に出ることはない。セシリアは、その孤独な構造を受け入れた。


マルティナが持ってきた伝書は、王宮の紋章が押された、非常に格式張ったものだった。


「セシリア様。こちら、ディラン殿下からの書状でございます」


「わかったわ」


セシリアは、宝石のような爪先で封蝋を軽く砕いた。


手紙の内容は簡潔だった。


「セシリア。来たる王立舞踏会において、私とイリス嬢との交流を妨げることのないよう、厳に慎んでもらいたい。もし、貴殿の傲慢な振る舞いがイリス嬢の心を傷つけるようなことがあれば、私は婚約者としての務めを果たすことを躊躇わないだろう。ディラン」


冷徹、高圧的、そして非難の感情に満ちた文章。


(ディラン王子。このゲームのヒーローであり、俺の断罪者。彼はこの時点で、すでにヒロインである聖女イリスに心酔しきっている。セシリアの生前の行動が、彼との溝を完全に深めてしまったようだ)


セシリアは、椅子に深く腰掛け、そっとため息をついた。


「婚約者としての務めを果たさない」というのは、つまり「セシリアを罰する」という意味だ。彼にとってセシリアは、すでに処刑すべき悪役でしかない。


(この舞踏会こそが、ゲームの重要分岐点の一つ。この場でセシリアがイリスに手を出さなくても、些細な言動が「嫌がらせ」として歪曲され、断罪の材料にされる。王子の心は、もう俺には振り向かない)


セシリアは、前世のサラリーマン時代を思い出した。かつて、不当なパワハラを受けていた部下を救うため、彼の上司に冷静かつ論理的な資料を提出し、問題の解決に尽力したことがあった。あの時の誠は、「誰かを救う」という一点において、揺るぎない自信を持っていた。


しかし、今はどうか。自分が救いたいのは、この国。この世界だ。だが、そのためには、まず自分自身が「救いのない悪役」として、徹底的に孤独にならなければならない。


彼は、その手紙を丁寧に二つに折り、燃え盛る暖炉へと静かに放り込んだ。手紙が炎に包まれ、灰となるのを、澄み切った青い瞳はただ見つめていた。


「マルティナ。ディラン殿下への返事は、不要よ。傲慢な我が儘と取られても構わない。返事をする価値もないと、王宮に思わせておきなさい」


「……かしこまりました」


マルティナの瞳の奥に、「やはり冷血な姫だ」という軽蔑の色が揺らぐのを、セシリアは見逃さなかった。それでいい。それが、俺の望む役回りだ。


朝食を済ませ、セシリアは執務室へと向かった。


セシリアの記憶には、公爵家が所有する領地の管理について、現在進行形で「食糧問題」が起きていることが残っていた。夏の長雨の影響で収穫量が激減し、このままでは冬までに餓死者が出る。ゲームの物語では、これは悪役令嬢セシリアの「領地管理の怠慢」として、断罪理由の一つになっていた。


(怠慢ではない。当時のセシリアは、領地の問題解決のために王国の援助を求めたが、王子の心はすでに聖女にあり、援助要請は握りつぶされた。そして、セシリアは領地の問題を外部に知られたくないために、高圧的に問題を隠蔽しようとした)


執務室には、使用人頭の老執事、ジェラルドが控えていた。彼はセシリアの数少ない理解者(になるはずだったが、セシリアの生前の不器用さにより、彼もまた心底失望している)の一人だ。


「ジェラルド。領地の食糧備蓄に関する件ですが……」


セシリアは一呼吸置き、冷淡な声で言った。


「全て、破棄なさい」


ジェラルドは耳を疑ったように目を見開いた。


「……セシリア様!?何を仰っているのですか!長雨で収穫は絶望的です。備蓄を破棄すれば、冬を越せぬ領民が多数出ます!」


「うるさいわね。わたくしに逆らう気?貴方が備蓄を破棄しなかったせいで、不当に湿気を吸った食糧が腐敗し、それが病気の原因となり、領民が大量死した……という未来が見えているのよ」


もちろん、セシリアは未来を予知しているわけではない。だが、前世の誠が持つ【状況把握の極】は、数日前に彼が領地の備蓄倉庫の湿度とカビの増殖速度を計測した情報と照らし合わせ、このままでは病原菌によるパンデミックが起きることを予測していた。腐敗した食物を隠して食べさせれば、餓死よりも悲惨な疫病が領地を襲う。


セシリアは、さらに冷酷な表情を作った。


「破棄しなさい。ただし、備蓄倉庫の解体、そして、その跡地への新しい井戸の掘削も同時に命じるわ。水は豊かだが、井戸が古すぎる。その費用は、わたくしの私財から出す。ただし、全て極秘よ。王宮はおろか、領民にも知られてはならない」


ジェラルドは、その冷酷な命令と、その後に続いた「井戸の掘削」というあまりにも矛盾した指示に、混乱しきっていた。


「破棄するのに、井戸を……?セシリア様、どういうご冗談で……」


「冗談ではないわ。食糧は破棄して、井戸を掘る。これがわたくしの命令よ。そして、破棄されたという事実を最大限に広めなさい。領民に『冷血なセシリアが、飢える領民を前に食糧を捨てた』と噂を立てさせなさい。そうすれば、誰もわたくしを信用しない。それでいい」


セシリアは、あえて「井戸を掘る」理由を説明しなかった。 (病気対策と新たな作物のための水源確保だ。だが、これを公にすれば、王宮に「セシリアがまだ領地を掌握している」と勘付かれ、王子の怒りを買い、断罪を早めるだけだ。病気による領民の大量死という最悪の未来は、俺の秘密の献身で回避する)


ジェラルドは、セシリアの金髪碧眼の顔を見つめ、全身を震わせた。命令に込められた冷徹さ、そして理解不能な行動に、彼の瞳はついに「失望」の色を浮かべた。


「……かしこまりました。セシリア様のご命令通りに、破棄の事実を広め、そして……井戸を掘らせます」


「ご苦労様」


セシリアは、ジェラルドが部屋を出るまで、微動だにしなかった。扉が閉まると、彼は静かに、深いため息をついた。


(これで、ジェラルドは俺を完全に冷血な悪女だと誤解しただろう。だが、これでいい。領民は病死から救われ、井戸という未来への希望を得る。俺は悪役令嬢として、王宮からの目を逸らす)


彼の心は満たされると同時に、誰にも理解されない孤独に鋭く苛まれた。この先、幾度となく、この孤独と献身を繰り返していくのだ。


その夜。


セシリアは、再び【隠密の聖痕】を発動させ、公爵邸を抜け出し、王都の街中を、透明な存在となって歩いていた。


チート能力を持つとはいえ、長編の物語を成立させるためには、世界観と敵を知る必要がある。


街の酒場からは、今日も王宮の話題が漏れ聞こえてくる。


「聖女イリス様は、本当に優しくてお美しい。今日も孤児院に足を運ばれたそうだ」


「それに比べて、あの公爵令嬢セシリアときたら……。自分の領地の食糧を、飢えた民をよそに、なんと全て破棄したと聞くぞ!」


「冷血にも程がある。早く、王子殿下が婚約を破棄してくださればいいものを」


セシリアは、酒場の軒先で立ち止まった。


(俺の思惑通りだ。これで領民は俺を徹底的に軽蔑する。しかし、この噂が王宮に届くことで、ディラン王子は「セシリアは断罪に値する」と確信を深め、俺への監視は緩くなる)


監視が緩くなれば、影でより大きな救済活動を行うことができる。


セシリアは、街の中心にある大神殿を見上げた。そこには、金色の光が灯っている。


(聖女イリス。貴女は清らかで、善良な女性だ。俺が影で世界を救うことで、全ての功績は最終的に貴女のものとなる。貴女は、この世界の光の象徴として、その役割を全うすればいい)


セシリアの心に、前世で皆を助けた時の、満たされた温かさが再び蘇る。しかし、それはすぐに、「悪役」として生きる切ない孤独によって冷やされた。


(誰にも知られず、誰にも理解されずに世界を救う。俺の献身が、誰かの涙ではなく、俺自身の涙で終わろうとも……)


金髪の美貌を持つ悪役令嬢は、その愛らしい顔のまま、冷たい夜風に吹かれ、決意を固めた。


――今日から、俺は「セシリア・アストリア」という名の、世界の敵だ。

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