第9話:影の聖人の脱獄計画と、王子の秘密視察
辺境の監獄に追放されてから三日。セシリア(誠)は、自室の硬い寝台の上で、王国の運命を背負った孤独な思考を巡らせていた。周囲の冷たい石壁は、彼女の「影の聖人」としての新たな決意を、物理的に際立たせていた。
(国境付近の魔力の異常は、もはや「魔物の出現」というレベルではない。これは、「国境を突破させるための、大規模な人工的な術式」だ。王都の連中が、腐敗派閥の残党処理で満足している間に、この国は外側から崩壊する)
セシリアは、自らの「永久追放」という状況を、「影の聖人」が自由に活動するための「最高の隠れ蓑」へと変えることを決意した。
まず、物理的な脱出手段の確保。セシリアは、炉の火を熾すための薪から得た削り屑と、自らの魔力を利用していた。
「【隠密の聖痕】――魔力凝固。凝固、そして、精錬」
セシリアは、聖痕の力で削り屑を分子レベルで凝固させ、さらに時間をかけて魔力で精錬した。完成したのは、光沢のない、濃い灰色をした、手のひらサイズの薄い板状の「魔力鍵」だ。この鍵は、彼女の魔力にのみ反応し、痕跡を残すことはない。
次に、『流浪の魔術師』としての装い。セシリアは、追放時に持たされた粗末な服を、【隠密の聖痕】の力で染色し、濃い灰色のフード付きローブに仕立て直した。
「華やかな金髪」と「威圧的な美貌」は、敢えてそのまま晒す。これは、セシリアの最も危険な選択だった。
(この美しさと公爵令嬢の威圧感は、潜入者としては最大の弱点だ。だが、この矛盾こそが、敵の目を欺くための最大の「囮」になる。辺境にいるはずのない、あまりに目立つ存在は、逆に「警戒すべき人物」ではなく「利用すべき美しい道具」として見られやすい)
セシリアは、この美貌を晒す屈辱をも、使命のために受け入れる。彼の孤独な決意は、もはや「佐藤誠」としての個人的な感情を遥かに超越し、「影の聖人」という非人間的な役割を自らに課すものだった。
その日の午後。セシリアは、日課となった広域探査を、念入りに王都方面へと広げていた。
「【隠密の聖痕】――広域探査」
セシリアの意識が王都方面へと伸びる街道に到達した瞬間、極めて洗練された光の魔力波動を察知した。それは、王族にしか許されない最高級の護衛魔導具が放つもの。そして、その中心には、ディラン王子自身の、深い後悔と焦燥に満ちた魔力が渦巻いていた。
(王子が、この辺境に?王都から、極秘裏に……。目的は、俺の「生存確認」と、「償い」か)
セシリアは、王子の魔力波動に混ざる、複雑な心理を読み取った。それは、「傲慢さによる判断ミスへの後悔」、「セシリアの献身への罪悪感」、そして「最後の侮辱的な言葉への屈辱」という、三つの感情が激しくせめぎ合っている状態だった。
(愚かなことだ。王国の内政の安定が最優先だろうに。しかし、王子の「償いをしたい」という心は、セシリア・アストリアの献身を信じている証拠でもある)
セシリアは、王子のこの「償いの心」こそが、最大の障害になると悟った。このまま王子に接触され、「罪悪感による助け」を受け入れれば、セシリアの「悪役の破滅」という設定は崩壊し、外側の脅威を調査する機会を失う。
(王子の償いの心を、完全に打ち砕かなければならない。彼は、「私を憎み、復讐のために生きる、救いようのない悪」だと、心底から信じ込ませる必要がある)
セシリアは、ディラン王子の「愛憎」を「憎悪」のみへと固定させ、二度と彼の心が辺境へ向かないようにするための、最も冷酷な悪役の芝居を練り始めた。
翌朝、夜明け前。ディラン王子は、少数の信頼できる騎士、そしてライオネル騎士団長のみを連れ、辺境の監獄の門前に到着した。王子は、粗末な黒いマントで顔を隠し、その視察は極秘だった。
王子は、辺境の寒さと、監獄の冷たい石壁を見上げ、胸を締め付けられるような罪悪感に苛まれた。
「ライオネル。私は、本当に、己の王族としての傲慢さと短慮によって、国を救った恩人を、こんな地の果てに追いやった。私は、王として、彼女に謝罪する資格すら持たない」
ライオネル騎士団長は、心の中でセシリアに「どうか、殿下の心を折ってください」と呟きながら、表情を硬く保った。
「殿下。セシリア令嬢は、自らその道を選んだのです。殿下が自らを責める必要はありません。殿下の正義は、腐敗派閥の逮捕によって証明されました」
ライオネルは必死に諫めたが、王子の後悔は限界に達していた。
「否、ライオネル。正義など、どうでもよい。私は、彼女の献身に、人間として報いたいのだ。彼女が生きていることだけでも確認し、そして、せめて私の罪の重さを彼女に伝えることができれば……」
王子は、監獄の責任者に身分を明かし、セシリアとの「面会」を強行した。その顔には、王族の威厳ではなく、一人の人間としての、切実な後悔が滲み出ていた。
監獄の鉄格子越しに、ディラン王子は、追放されたはずのセシリアと再会した。
セシリアは、王子の訪問を予期し、あらかじめ最も悪役らしい、冷酷な態度で椅子に傲慢にふんぞり返っていた。彼女の華やかな金髪は、辺境の薄暗い光の中でも眩く輝き、威圧的な美貌は、粗末な衣服の下でも「公爵令嬢」としての強烈な存在感を放っていた。
王子は、鉄格子に手をかけ、苦渋と後悔に満ちた表情で語りかけた。
「セシリア……。私は……謝罪に来た。私の傲慢が、貴様を誤解させ、そしてあのような過酷な罰を与えたことを、深く後悔している。貴様の献身は、国を救った……」
セシリアは、王子の言葉を、氷のように冷たい、軽蔑に満ちた笑みで遮った。彼女は、一切の感情を王子の後悔の波動に晒し、その波動に完全に反発するように、冷酷な言葉を選んだ。
「謝罪?ふふふ……面白い冗談ですわ、ディラン殿下。今更、敗者に頭を下げたところで、わたくしの屈辱が晴れるわけでもないでしょう。貴方様の謝罪など、無価値な戯言ですわ」
セシリアは、あえて「敗者」という言葉を使い、王子の罪悪感を刺激するのではなく、王族としてのプライドを深く傷つけた。
王子は、それでもセシリアへの償いの心を捨てなかった。
「私は、貴様の追放を解くことは、今すぐには叶わない。だが、貴様に十分な金銭と、快適な生活を保証する。辺境の監獄で、貴様がこれ以上苦しむ必要はない。それが、私の償いだ。どうか、受け取ってくれ……これ以上、貴様を苦しめたくない」
セシリアは、立ち上がり、鉄格子に近づいた。彼女は、公爵令嬢時代の、最も傲慢で高圧的な姿勢を意図的に取り、王子を見下ろした。その金色の瞳は、一点の光も宿さず、冷たく澄んでいた。
「金銭?快適な生活?ふざけないでいただきたいわ。ディラン殿下。わたくしが望むのは、貴方様の醜い後悔と、惨めな謝罪だけですわ」
セシリアは、声を低く、そして王子の魂を最も深く抉るトーンに変えた。
「わたくしは、この辺境の地で、貴方様が犯した過ちを、毎日、毎日、笑いながら思い出すことに、最高の喜びを感じていますのよ。わたくしは、貴方様への復讐のために、ここにいるのです。貴方様がわたくしを追いやったこの屈辱こそが、わたくしの力の源なのです。貴方様の善意など、何の価値もない。二度と、このわたくしの復讐の舞台に土足で踏み込まないでいただきたい!」
セシリアは、「私は貴方を憎み、復讐のために生きている悪役令嬢だ」という、完璧に計算された、そして誰にも真実を知られることのない嘘を言い放ち、王子に背を向けた。
ディラン王子は、セシリアの冷酷な瞳と、「復讐」という言葉に、償いの心を完全に打ち砕かれた。彼の後悔は、「この女は、私が救うべき相手ではない」という強い憎悪と、「償いを拒否された」という二重の屈辱へと変質した。
「……セシリア。貴様は……本当に、根っからの悪だ。私を助けたのも、貴様の傲慢な自己満足だったというのか……」
王子は、絶望的な表情で、セシリアの元を去った。その足取りには、辺境への再訪は二度とないという、決定的な諦めが滲んでいた。
セシリアは、王子の足音が完全に遠ざかるのを確認し、静かに深く息を吐いた。
(よし。これで、王子は二度とここには来ない。俺が悪役令嬢として幽閉されているという認識は、完全に固定された。俺の孤独な戦いは、愛憎を超越し、ついに「外側の脅威」へと向かう)
彼は、再び「流浪の魔術師」としての準備を始めた。
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