エピローグ
佐藤誠、三十五歳。彼が所属する課は、周囲から「魔法がかかっている」と密かに囁かれていた。
彼がいる部署だけは、誰もが疲弊している激務の月末でも、重大なトラブルに見舞われることがなかった。なぜなら、彼――佐藤誠が、その全てのトラブルの芽を、誰も気づかぬうちに摘み取っていたからだ。
「佐藤さん、これ、今月の報告書。どうしても数字が合わなくて……」
同僚の女性が憔悴した顔で尋ねてきたのは、締め切り数時間前のことだった。誠は何も言わず、差し出された資料に一瞥をくれる。膨大なデータの海から、彼女が数日かけても見つけられなかった「数字の僅かなズレ」と、それが生じた「システム上のバグ」を瞬時に特定した。
「ああ、これはシステムの問題ですね。原因は昨日のアップデートだと思います。修正プログラムを用意しますので、少しお待ちください。報告書は、この数値で出しても問題ありませんよ」
彼はそう言って自席に戻ると、即座に修正コードを書き上げ、サーバーに適用する。全ては五分で終わった。同僚の女性は「ありがとうございます!さすが佐藤さん、天才!」と感嘆するが、彼女は自分の報告書が「なぜ」修正不要になったのか、その具体的な理由すら理解しないまま、安堵の表情を浮かべていた。
誠は、それが良かった。目立たずに、影で誰かの役に立つこと。それが彼の生き方だった。
学生時代からずっとそうだった。運動会の綱引きで、密かに一番後ろで一人だけ全身全霊をかけているが、誰もその頑張りには気づかない。クラスメイトの喧嘩も、影から両者を冷静に分析し、適切な情報を第三者に流して平和的に収束させた。彼は決してヒーローではなかったが、間違いなく影の聖人だった。
目立つことで生じる軋轢や、過度な期待、そして何より感謝の言葉で照れてしまう自分を、彼はよく知っていた。だから、彼は常に裏方に徹した。誰かの笑顔が見られるなら、それで満足だった。
だが、そんな彼の人生は、あまりにも唐突に、そして理不尽に幕を閉じた。
深夜。残業を終え、誰もいない裏通りを歩いていた誠の頭上に、突如、雷が落ちた。それは天候によるものではなく、神が調整を誤った「エネルギー体の誤爆」だった。一瞬の閃光と熱。意識が途切れる直前、誠は「ああ、俺の人生、人助けはたくさんしたけど、誰にも気づかれなかったなあ」と、少しだけ寂しく、そして後悔のようなものを抱いた。
意識が回復したとき、誠は純白で無限の空間に立っていた。目の前には、人間離れした威厳と、同時に疲労困憊した表情を浮かべた、巨大な白髭の男がいた。
「すまぬ、誠よ。まさか、ワシの試作型エネルギー体が、お前の頭上に落ちるとは……。ワシの完全な手違いだ。言い訳はせぬ。お前の尊い命を奪ってしまった」
その男――神は、深く頭を下げた。
「……えっと。神様、ですか?」
誠は混乱しつつも、目の前の壮大な存在を前に、まずは状況を理解しようと冷静な思考を働かせた。
「そうだ。そして、お前は本当に稀有な魂だった。誰にも見返りを求めず、己の身を削ってまで、常に他者を救おうとした。お前こそ、あるべき『聖人』の姿だった。しかし、報われなかった」
神は悲しそうに目を閉じた。
「せめてもの償いだ。お前を、別の世界に転生させよう。そして、お前の『誰にも気づかれない献身』が報われるように、特別な力を与えよう」
「報われる、ですか……。別に、報いを求めていたわけじゃ……」
誠は反射的にそう言いかけたが、神はそれを遮った。
「知っている。だが、ワシがお前に与えたいのだ。……ただし、転生先には、一つ問題がある」
神は空間に映像を映し出した。それは、豪華絢爛なドレスを纏った、一人の美しい少女の姿だった。太陽の光を宿した金髪と、澄み切った空のような青い瞳。
「この者は、お前が知る世界の物語で『破滅エンド確定の悪役令嬢、セシリア・アストリア』だ。婚約者である王子への暴言、聖女への苛烈な嫌がらせ、そして、最終的には断罪、処刑される運命にある」
誠は目を見開いた。――悪役令嬢?乙女ゲームの主人公ではないのか。しかも、処刑エンド?
「なぜ、よりにもよって破滅確定の者へ……?」
「その体は、お前の魂が持つ『聖なる力』を受け止める器として最適だった。そして何より、破滅確定の者こそ、お前の献身の力で救うに値するとワシは考えたのだ」
神は力強い眼差しで誠を見た。
「お前には、ワシが開発した究極の力――【隠密の聖痕】を授ける。その力は、お前の聖なる魔力を増幅させ、行使した力の痕跡を完全に消し去る。誰にも気づかれず、誰にも疑われることなく、世界を救うことができるだろう」
その瞬間、誠の魂に、熱い聖なる力が流れ込んだ。
「さあ、誠。誰も報われなかった影の聖人から、皆を救う隠密の聖人へ。だが、お前がその体で何をしても、周囲は*『悪役令嬢の行動』としてしか見ないだろう。それでも、お前は皆を救うか?」
誠は、一瞬考えた。処刑エンド。孤独な戦い。
だが、彼の根底にある善良さが、迷いを消し去った。
「……はい。それが俺の生き方でしたから」
「では、行け、セシリア・アストリアよ」
空間が歪み、意識が再び遠のいていった。最後に聞こえたのは、神の、心からの謝罪の声だった。
猛烈な頭痛と共に、誠は意識を取り戻した。周囲の豪華絢爛な装飾と、シルクの感触が、自分がもう日本のサラリーマンではないことを明確に告げていた。
彼は鏡を見た。そこに映っていたのは、十五歳ほどの絶世の美少女だった。長く緩やかにウェーブのかかった金髪、そして澄み切った空のような青い瞳。公爵令嬢セシリア・アストリアは、まるで太陽の光を宿した天使のように可愛らしい顔立ちをしていた。しかし、その愛らしい顔からは想像もできないほど、鏡の中の少女は常に冷たい表情を浮かべていた。
「……セシリア・アストリア」
自分の喉から出た声は、透き通るような高い女性の声だった。彼はまず、このTS(性転換)という事実に、激しく動揺した。前世で培った冷静さをもってしても、この肉体の変化は受け入れがたいものだった。だが、それ以上に深刻な問題が山積している。
彼は、前世で妹がプレイしていた乙女ゲーム『光の聖女と愛の王子』の知識を持っていた。そして、自分が転生したのは、そのゲームの「断罪ルート」にいる最悪の悪役令嬢であることも理解していた。
セシリア・アストリア。公爵令嬢。王子の婚約者。
断罪までの期間: 約一年。
破滅エンド: 聖女を執拗にいびり、魔物襲来時に聖女の危機を招き、最終的に王子によって婚約破棄、処刑。
彼は自分の置かれた状況を、前世のシステムトラブルの解析のように、冷静に整理した。
(まずい。処刑までの期間が短すぎる。しかも、このセシリアの行動には、ゲーム設定外の不自然な悪意が多い。彼女自身、何かに操られていたか、あるいは……)
彼は、周囲を見渡した。この部屋一つをとっても、日本のサラリーマンだった頃の自分の年収を遥かに超える価値があるだろう。だが、その豪華さが、セシリアの「傲慢さ」を象徴しているようで、誠には息苦しかった。
脳裏に、セシリアの生前の記憶がフラッシュバックした。それは、単なる「我が儘」では片付けられない、深い孤独と、周囲の期待に応えようともがいた末の歪みだった。彼女は、王国の象徴として完璧であることを求められ、その重圧から逃れるために、悪意ではない、単なる「不器用な反抗」を繰り返していたのだ。しかし、それは全て「悪役令嬢の所業」として記録され、破滅へと繋がっていた。
(この体は、最初から悪役として生きることを強いられていた。俺が、ここでただ「良い人」を演じても、誰も信じないだろう)
彼は、鏡の中の冷たい瞳を見つめ返した。
(この世界を救うには、まず破滅エンドを回避しなければならない。そのためには、セシリア・アストリアは、セシリア・アストリアでなければならない)
彼は、心の中で、「元サラリーマンの佐藤誠」という存在を、深く、心の奥底に封印した。
その夜。セシリア(誠)は、自室の窓から抜け出した。
公爵邸の庭園。満月の光が、豪華な花々を照らしている。彼は、体中にみなぎる新たな力、【隠密の聖痕】を発動させた。全身が、ごく微かな、しかし神聖な光に包まれる。
(この魔力の大きさ……これが、聖女の器か。桁違いだ)
彼の脳裏には、明日、使用人の一人が階段の修繕不良によって重傷を負い、その治療費が払えず、一家が離散するという未来の断片が浮かんでいた。ゲームの断片情報にもなかった、セシリアの行動とは無関係な「小さな悲劇」だ。
彼は、その事故が起こる階段へと向かった。
(修繕不良の原因は、この二階の階段の手すりを支える魔石のヒビだ。セシリアがわざとやったと記録されていたが、実際は古い魔石の劣化。だが、このままでは悲劇は避けられない)
彼は誰にも気づかれないよう、魔石に手をかざした。
「【隠密の聖痕】――聖修復」
強力な魔力が魔石に流れ込み、ヒビは瞬時に完全に修復された。魔石は新品よりも強固になり、十数年は劣化しないだろう。
作業は一分もかからなかった。そして、彼はすぐにその場を離れた。
次の瞬間、彼は魔力の痕跡を辿ろうとするが、何も残っていない。まるで、誰もそこにいなかったかのように、魔力も熱も、かすかな光の記憶すらも消えていた。
(すごい。これが【隠密の聖痕】……。俺がどれだけ世界を救っても、誰も俺の功績には気づかない。誰かが魔石の頑丈さに気づいたとしても、それはたまたま「良い素材だった」で片付けられるだろう)
これで、使用人の一家は救われた。小さな命が、小さな生活が守られた。誠は、心の中で静かに安堵の息をついた。
だが、その安堵は一瞬で消え去る。
彼が、階段から離れて庭園の影を歩いていると、遠くから使用人たちが話す声が聞こえてきた。
「そういえば、セシリア様が、また昨日、孤児院への寄付を拒否したそうですよ。本当に冷酷なお方だ……」 「聖女様が、毎日孤児院を訪れていらっしゃるというのに。対照的だわ」 「早く婚約破棄されて、聖女様が王妃になってくだされば良いのに」
その会話を聞いた瞬間、誠の胸は鋭く軋んだ。
(孤児院への寄付の拒否……あれは、セシリアが生前、孤児院の裏で不正を働く神官がいることを察知し、あえて表向きは拒否することで、その神官を炙り出そうとした行動だった)
彼女の行動には、常に合理的な理由があった。しかし、彼女はその理由を説明せず、誰にも理解されないまま、ただ「悪役」として断罪されていく運命だった。
そして今、彼はその体を継いだ。自分がどれだけ影で人を救おうとも、その功績は誰にも知られず、表向きは「悪役令嬢セシリア」の汚名だけが積み重なっていく。
「誰にも気づかれない献身」。前世で彼の生き方だったそれは、今や「誰にも理解されない孤独」という、最大の呪いとなって、セシリア(誠)の心にのしかかっていた。
彼は、美しい夜空を見上げた。
(いいさ。俺はもともと影で生きることを望んでいた。これが俺の運命だとしても、この世界は俺が守る。処刑エンドは回避する。そして、この世界の皆を救う。俺は、皆を救うためだけに、この孤独な『悪役令嬢』として、生きる)
セシリア・アストリア。その金髪と青い瞳は、満月の光を浴びて、誰にも見えない誓いの炎を宿していた。
彼の長い、長すぎる、孤独な救済の物語が、今、始まった。
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