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蛭子

作者: 詩上紗鳥

 野乃は公園のブランコに座り、ただゆらゆらと揺れていた。既に日が落ちた公園に人気はなく、ただ急ぎ足で家路を急ぐ少年たちや、友達と笑い合いながら繁華街へと向かう青年たちが時たま傍の道を通るばかりで、野乃の存在に気付くこともない。電灯の陰に座る野乃は、周りから切り離されたように静かだった。

 野乃はぼんやりと空を眺めた。まだ空は僅かに明かりが残っている。これもまたすぐに消えていってしまうだろう。そう思い、野乃は一人涙を流した。

 雫が目から溢れ、頬を伝い、ぽつんと彼女の膝の上に落ちた時、

「そこにいるのは、もしかして野乃さんではありませんか」

 声をかける男がいた。

「やっぱり。久しぶりですね。こんなところでどうしたのです」

「……先生」

 男は優しげににっこりと微笑むと、野乃の隣のブランコに腰をかけた。スーツ姿ではあったがどこか疲れた様子で、ブランコの鎖がぎしりと鳴った。

「先生こそ、どうしてこんなところに。学校が終わるには、まだ早いのではないですか。あ、今は何処の学校に?」

「いやあ、それは……」

 曖昧に笑うばかりの男、正午に、野乃の顔が怪訝な表情を浮かべた。

「……何かあったのですか?」

「何かあったと言えば、ありましたね。色々なことが……一つ先に答えておきましょう。私は今は学校に勤めていないんですよ。教師は、首になりました」

「首に? そんな、どうして」

「首になるというのはちょっと変な言い方ですね。ええ、辞めたんです。辞めなければならなくなったんです」

「どうして……と聞いてもいいですか」

「そうですね、では、私が話したら、野乃さんもこんなところにいた訳を話してくれると約束して下さい」

 正午が野乃の先生であったのは野乃が小学校六年の頃。その頃から正午はよく野乃の話を聞き、相談に乗ってくれた。四年経った今、それを思い出した野乃は、しかし一瞬言葉を詰まらせた。

「私も……」

「きっと、ただ話して欲しいと言っても話してはくれないでしょう。ですから、そういう風にすれば、話してくれるかと思いまして」

「そんな、私は」

「駄目ですか?」

 野乃は首を横に振った。正午はありがとうございますと静かに礼を言い、夜の公園を眺めながら語り出す。

「あなたが卒業してから、私は別の小学校へ異動になりました。よくあることです。ですが、そこの校長先生と折り合いが合わなくて……。ある問題のある一人の子を巡って、意見が分かれて、結局私は、児童への体罰をしたという噂が立ち、学校を辞めることになりました」

「それって、校長先生が?」

「いい子ですね、野乃さんは」

 久しぶりに正午に褒められたと思った野乃は、頬を染めて顔を伏せた。

「本当のところは分かりません。もちろん私は体罰はしたことはありませんし、ましてや……。最初は児童の親が言い出したようですが、それから後は止める間も、弁解する機会もありませんでした。とんとん拍子に、私は学校を辞めざるを得なくなったのです」

「そんな……。それで、今は?」

「家庭教師をしています。といっても、大学生がアルバイトにやるような仕事です。教員免許を持っている必要もない……そんな無様な毎日を送っていて、ふらふらと立ち寄ったこの公園に野乃さん、あなたがいたので懐かしくなって声をかけた、というわけです」

 正午は再び野乃を見て微笑んだ。それは酷く自虐的に歪んでいて、野乃は酷く悲しい気持ちになった。

「さあ、あなたの番ですよ。どうしてこんな時間に、こんなところに一人でいるのですか」

「私は……何から話したらいいのか」

「そうですね、今、高校生ですよね、学校は何処に?」

「高丘女子です」

「高女と言えば、ここら辺では有名な進学校ではありませんか。勉強も大変だろうとは思いますが……。学校で、何かあったのですか?」

「学校でというか……」

「話してご覧なさい。私はもう教師ではありませんが、しかしかつてあなたを教えた身です。何か助けになれるかも知れない」

「そんな……先生は今も先生です」

「ありがとう」

 そうして野乃は夜の公園に迷い込むまでの日々を語った。

 野乃は小学校を卒業するまではほとんど問題なく日々を送ってきた。しかし、正午ですら気付かなかったその異常は中学になると徐々に目に付くようになる。野乃は突然ぼんやりとして意識が無くなり、授業中に教師に声をかけられても気付かないようなことがたびたび起こるようになった。それは座学だけでなく、体育や行事の時にも起きた。特に集中が必要な、重要な場面が多かったため一度起こると騒ぎはかなり大きくなった。元々頭の良い生徒であったから、それほど周りからも疎んじられず、受験も苦学して成功した。しかし、高校に入ってそのハンデが必要以上に大きな物となった。

「授業が、頭に入らないんです。話を聞いている間は大丈夫なんですが、ふっと意識が無くなった後、気がつくとそれまでの内容が何も頭に残っていないんです」

 些細な遅れが決定的な差となるのが進学校の恐怖である。それを感じた野乃は学校へも行かなくなり、かといって塾や家庭教師を利用することもできず、そうしてこの公園へとやってきてブランコを揺らしていたのである。

 野乃の話を真剣な顔で聞いていた正午は、話が終わるとすぐに言った。

「私を、あなたの家庭教師にしてくれませんか。もしかしたら、あなたを教育できるかも知れない」

 正午の表情に、野乃は気が付けば頷いていた。それがどんな意味を持つのかは、この時はお互い知らなかったのである。ただ、お互いがお互いの痛みを知り、そして助けてあげたいと思ったからこそ二人はこうして出会ったのである。

 野乃の家に招かれた正午はここへ来てようやく事の重大さに気がついたが、しかし野乃の両親は意外なほどすんなり正午を受け入れ、しかも謝礼も相応の額を払うことを約束した。その目はとても冷ややかだった。

「いいんです。もう」

 野乃はそう呟いたばかりであった。

 正午と野乃だけの勉強が始まった。

「野乃さん、あなたは多分、普通の教育を受け入れられない体質なんです」

「体質、ですか。私がただ馬鹿なだけではなくて?」

「もちろん。それはあなたでは多分どうしようもない。高女に入るだけの努力と勉強ができるあなたです。馬鹿だなんてそんなことがあるはずがない」

「でも、教えられたことが頭に残らないのでは、どうにもなりません」

「いいえ、そんなことはありません。現に、小学校までのあなたは何の問題もなく授業を受けていた。それはある種の環境と関係があるのです」

「環境ですか? 私は教室でも校庭でも、場合によっては自分の部屋にいても、意識が無くなることがあります」

「しかし、今あなたは普通に話をしている。あなたは、友達と話している時にそういうことになったことがありますか?」

「そういえば、それは一度も……」

「そう、つまりこういうことです」

 正午の考えに寄れば、野乃は長く緊張した状態が続くと、自身の意志に関係なく意識を遮断してしまう体質であった。それが先天的なものか、あるいは成長によって発現したものかは分からないが、治療や野乃の努力で治していくことは困難だろうと思われた。

 そこで正午は、一度の勉強を短く区切り、数十分単位で行うよう指示した。その時間は正午が野乃を注意深く見守り、疲れが見えた時点ですぐに止めさせた。意識が飛ぶことさえなければ、野乃は正午が驚くほど優秀であった。本来学校で数ヶ月かけて教える内容を、数週間のうちに頭に入れてしまうほどの恐るべき集中力であった。

「その異常な能力を、あなた自身扱い切れていなかったのかも知れない」

 正午は野乃が休憩している時に呟いた。

「じゃあ、扱えるようになれば、普通に学校に行って生活できるようになりますか?」

「分かりません。ですが、焦らないことです。その真面目さがまた、あなたの体を苦しめるかも知れない」

 正午と野乃の勉強は、年度が終わる頃まで続いた。本来なら高校二年であるはずの野乃は、既に大学受験レベルの内容を習得していた。今すぐに受験しても大抵の大学は受かるだろうと、正午は笑っていた。

 二月末、月も日も暮れようかという時に、野乃の父親がやってきて言った。もう茶番は止めるようにと。出来の悪い娘に付き合うことはないのだと。その日限りで家庭教師の契約が終わることを告げて、父親は部屋を出て行った。

「なんという父親だ! あれが、人の親だというのか!」

 やりきれぬ思いを溢れさせる正午だったが、野乃は冷静なままであった。

「しょうがないんです。私も先生のおかげで勉強が出来るようになりましたけど、学校に行っていないことは変わりません。先生がいないと勉強できないなんて、この家の子どもでは私だけです。妹も弟も、みんな元気にやっています。上の妹なんて、今年高女を受けたんですよ。ほぼ間違いなく受かっているって言っていました」

「だからって、あなたを捨てるようなことを言っていいわけがない」

「お父さんもお母さんも、立派な人です。私の自慢の両親です。妹たちも、弟たちも、みんな元気で明るくて、頭も良くて優しくて……。姉さん、って言ってくれるんですよ。私は確かに、今もあの人たちの子どもで、あの子たちのお姉ちゃんなんです。あの公園で終わるはずだった私の人生は、まだここまで続いている。だから、私は幸せなんです」

「しかし、あなたは優秀です。こんな私が教えられることなどないほど」

「いいえ先生、先生だって、今までどんな先生も教えられなかった私を、ここまで教育してくれました。きっと先生も、先生の才能を発揮できる場所があります。それを、探して下さい。私は、もう大丈夫ですから」

「そんな、しかし、あなたはまだ……」

「いいんです。ねえ、先生? 私手紙を書きます。先生に手紙を書きます。だから、先生の家を教えて下さい。きっと書きます。それを、卒業試験にして下さい」

「野乃さん……」

 正午は顔を逸らすと、野乃から手渡された紙に走り書き、そのまま部屋を出て行ってしまった。

 野乃は手紙を書いた。感謝と、思い出と、夢と、想いと……様々なことが入り交じった、長い長い手紙であった。長い長い時間が掛かった。しかし、野乃はそれを最初から最後まで途切れることなく、芸術的なまでに完成された形で書き上げたのである。

 端に結ばれたリボンのような絵を描いて、野乃は手紙を出した。

 数日後、野乃の元に一枚の葉書が届いた。野乃はそれを写真立てに入れて机の上に飾った。それきり、正午の行方は分からなくなってしまった。

 野乃はそれから三年後、無事大学に入学したという話である。

 特に意味のない話。蛭子を知って、それを使って何か話が書けないかと思っただけのもの。

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