ひとり芝居の朝
朝の通学時間。ユートピアシティを縦横に走るモノレールの中で、高校二年生の神崎零は窓外の風景を眺めていた。
整った顔立ちは中性的で、時折女性に間違えられることもある。しかし戸籍上は男性として登録されており、周囲もそのように接している。
透明なガラス張りの高層ビル群が朝日を反射し、街全体がキラキラと輝いている。空中に浮かぶように設計されたモノレールの軌道は、まるでSF映画のような光景を作り出していた。
「今日もいい天気ですね、神崎君」
隣の座席に座る同級生の女子が、雲一つない青空を見上げて微笑む。零は軽く頷きながら、手首に巻かれた銀色のデバイスに目を落とした。
ヴァーチュポイント・デバイス——この街で生活する全ての人が身に着けている必須アイテムだ。画面には現在のポイント残高「2,847VP」が表示されている。
「中央学園前、中央学園前です。降りる方は左側の扉からお降りください」
機械的なアナウンスが響く中、学生たちがぞろぞろと改札に向かう。零も立ち上がり、デバイスを改札にかざした。「ピッ」という小さな音と共に、運賃として30ポイントが自動的に引き落とされる。
「おはよう、神崎君」
「おはようございます、佐藤さん」
挨拶を交わした瞬間、両方のデバイスが薄く光った。挨拶や感謝の気持ちが数値化され、お互いのアカウントに少しずつポイントが加算される仕組みだ。
零は学園の正門をくぐりながら、いつものように周囲を見回した。校舎の角、街路樹の陰、歩道の柱——あちこちに小さなカメラが設置されているのが見える。内蔵されたセンサーで、それらが全て稼働中であることを確認する。
「完全監視システム、か」
誰もがその存在を知っているし、慣れてしまっている。犯罪発生率ゼロパーセントを誇るこのシステムに、文句を言う人はもういない。
でも、零には分かっている。このシステムの真の目的を。そして、自分がなぜここにいるのかも。
「育ての親を殺した者たちを見つけ出すまでは...」
そんな想いが頭をよぎるが、零はすぐに表情を平静に戻した。アンドロイドであることを悟られてはならない。人間として生きることが、神崎博士との約束だった。
朝のホームルームが終わり、いよいよ一日が始まる。零は教科書を取り出しながら、今日も完璧に人間を演じ続けなければならないと心に誓った。
その時、手首のデバイスが振動した。
「新しい任務が割り当てられました。ヴァーチュジャッジ本部へ向かってください」
零の表情が僅かに変化した。表の学園生活と裏の組織活動——二重の人生を送ることに、零はもう慣れ切っていた。
だが、今日は何かが違う予感がしていた。
街角の至る所に設置された監視カメラの存在。建物の角や柱、街路樹の間に、さりげなく、しかし確実に配置されたそれらの小さな眼が、市民の一挙手一投足を記録し続けている。
「完璧すぎる治安システム」——住民たちはそう呼んでいる。犯罪発生率ゼロパーセントを十年間維持し続けているこのシステムに、誰もが慣れ切っていた。
それでも時折、年配の住民の口から漏れる言葉がある。
「昔はもっと、なんというか...自由だったんだがなあ」
そんな呟きが聞こえることもあるが、若い世代はそれを「古い価値観」として受け流している。完璧な社会システムの中で生まれ育った彼らには、それ以外の世界など想像もできないのだから。
朝の太陽がさらに高く昇り、ユートピアシティの新しい一日が本格的に始まろうとしていた。
中央学園の学食は、透明なドーム状の天井から自然光が降り注ぐ開放的な空間だった。昼休みの時間帯、多くの学生たちがここに集まってくる。
零は端末の前に立ちながら、今日の「人間らしい」昼食を検討していた。アンドロイドである自分には本来食事の必要はないが、人間を演じるためには必要な行為だった。
「適度に美味しそうに見える食事を...」
零は手首のデバイスを端末にかざしながら、プログラムされた感情パターンで想像を構築した。
『天ぷら定食。エビは適度に大きく、野菜は新鮮に見えるもの。お米はふっくらと炊き上がった状態』
デバイスの画面に「想像度数値化中...」の文字が表示される。数秒後、「想像力スコア:87/100、必要ポイント:750VP」という結果が表示された。
「なるほど、アンドロイドの演算能力は想像力の数値化にも有効か」
零が決済ボタンを押すと、厨房の調理ロボットが動き出す。彼の正確な想像データに基づいて、最適な食材が自動選択され、リアルタイムで調理が始まる。
「神崎零様、ご注文の天ぷら定食をお作りしております。完成まで約12分です」
自動音声が告げると、零は近くのテーブルに座った。隣のテーブルでは、同級生の女子学生・林美咲が友人たちと話し込んでいる。
「ねえ、聞いた?一年生の田村君、昨日のテストで満点取ったから、1,000ポイントも獲得したんだって」
「すごいね!努力や成果が直接ポイントになるなんて、やっぱりこのシステムって公平だよね」
「でも、想像力の数値化って、どういう仕組みなんだろう?」
美咲の疑問に、理系の友人が説明を始める。
「システムが個人の脳波パターンと過去の行動データを分析して、想像の具体性と実現可能性を数値化するんだよ。ただぼんやり『いいもの食べたい』って思うより、具体的に想像した方が高スコアが出る」
「へえ、それで消費ポイントが変わるんだ」
「そう。あと個人の努力や社会貢献度も関係してる。勉強頑張ったり、ボランティア活動したりする人は、同じ願いでも少ないポイントで実現できる仕組みになってる」
零は彼女たちの会話を聞きながら、このシステムの巧妙さを分析していた。単なる支払いシステムではなく、人々の行動や想像力、社会貢献度までも評価し、それに応じて「願いの実現度」を調整する。確かに効率的だが、同時に市民をコントロールする仕組みでもある。
「神崎零様、お待たせいたしました」
調理ロボットが運んできた天ぷら定食は、まさに零がプログラムした通りの出来映えだった。大きなエビの天ぷらは外はサクサク、中はプリプリ。野菜も新鮮で、白米は一粒一粒がふっくらと炊き上がっている。
零は人間らしく食事を摂取しながら、同時に味覚センサーでその成分を分析していた。
しかし、このシステムにも制限がある。
隣のテーブルで、ちょっとした騒ぎが起きていた。一年生らしい男子学生が、注文端末の前で困惑している。
「え?なんで受理されないんだ?」
彼は「100億円欲しい」という願いを入力したらしいが、システムは「実現不可能な願いです」と警告を表示している。
「そりゃそうでしょ」と先輩の学生が苦笑いする。「システムは経済バランスを考慮してるから、現実的でない願いは通らないよ」
「じゃあ、『隣の田村さんが僕を好きになってくれますように』っていうのは?」
「それもダメ。他人の感情に干渉する願いは禁止されてる。自由意志の尊重が最優先だから」
一年生は少しがっかりしたように肩を落とす。
「でも、噂では...」と、別の学生が小声で話し始める。「特別な条件を満たせば、死者の復活だって可能だって聞いたことがある」
「まさか。そんなことできるわけないでしょ」
「いや、でも実際に...」
その会話は、他の学生たちの注意を引いたが、詳しい話を聞く前に、昼休み終了の鐘が鳴り響いた。
零は食事を終えながら、思考回路を巡らせていた。このシステムの真の目的、そして育ての親を殺した組織の正体。死者の復活という話が事実なら、それは自分の復讐にも関わってくる重要な情報だった。
教室に向かう途中、零の視覚センサーが周囲の監視カメラを正確に捉えていた。それらの稼働状況、記録範囲、全てが計算の内にあった。
その時、学園の中央広場で騒ぎが起きた。
「何があったんだろう?」
零を含む多くの学生たちが、人だかりに向かって駆け寄る。広場の中央では、三年生らしい男子学生が地面に座り込み、全身を覆う青白い光の束縛具に拘束されていた。
「システム改ざんの試みを検知いたしました」
上空から降りてきた球体型の警備ロボットが、機械的な音声で告げる。その学生の手には、違法な改造を施したヴァーチュポイント・デバイスが握られていた。
「不正なソフトウェアによるポイント獲得の試みです。容疑者・佐々木健一郎を一時拘束します」
光の束縛具が健一郎の動きを完全に封じている。彼は必死に抗議の声を上げるが、システムの判定は覆らない。
「待ってください!これは誤解です!僕は何もしていません!」
しかし、警備ロボットは淡々と手続きを進める。
「証拠データの収集が完了いたしました。住民投票システムを起動します」
突然、周囲の学生たちのデバイスが一斉に鳴り響いた。赤い警告灯と共に、緊急画面が表示される。
『緊急住民投票:容疑者・佐々木健一郎の処罰について
■永久追放:システムからの完全排除
■恩赦:監視下での処分保留
投票期限:3分間』
「私たちに決めろというの?」女子学生が震え声で呟く。
零は冷静にシステムの動作を観察していた。証拠映像が空中に投影され、健一郎の改造行為が鮮明に映し出される。だが零には分かっていた——このシステムの恐ろしさを。
投票は瞬く間に終了した。結果は圧倒的多数で「永久追放」。
「住民投票完了。執行を開始します」
健一郎を包む光の束縛具が強化され、彼の身体は地面から浮上し始める。その時、健一郎の目が零と合った。
「助けて...誰か...」
必死の懇願が空しく響く中、健一郎は街の境界線へと運ばれていく。零は拳を握りしめた。システムの冷酷さに対する怒りが、アンドロイドの心の奥底で燃え上がる。
「効率的だな」誰かが感心したように呟く。
効率的?零は内心で反発した。これは効率ではない。人間の尊厳を踏みにじる暴力だ。
学生たちが散っていく中、広場の隅でほうきを握りしめる老清掃員の姿があった。その手が微かに震えているのを、零のセンサーが捉える。
「また一人...」老人が吐息するように呟く。
零は歩み寄った。「何か気になることが?」
老人は零を見上げる。皺だらけの顔に、深い悲しみが刻まれていた。
「君は若いから分からんだろうが...昔は人間に『間違える権利』があったんじゃよ」
「間違える権利?」
「そうだ。愚かな選択をして、後悔して、それでも生き直す権利がな」老人の目に涙が滲む。「あの健一郎という子も、きっと何か事情があったはずじゃ。それを聞くことなく、たった三分で人の運命を決めてしまう...これが正義と言えるのかね」
零は答えに窮した。老人の言葉が、アンドロイドである自分の心の奥深くに響いていく。
「君も気をつけるんじゃ」老人が囁くように言った。「完璧なシステムほど、不完璧な人間には残酷なものはない」
老人はそれ以上何も語らず、再びほうきを動かし始めた。零はその背中を見詰めながら、システムが奪い去ったものの大きさを初めて実感していた。
その時、零の危険感知センサーが異常を検知した。校舎の屋上、南西角——そこに人影が潜んでいる。一般人には絶対に気づかれない位置だが、アンドロイドの精密センサーは見逃さない。
敵か、味方か。
零は自然を装いながら視線を向ける。黒い制服、訓練された体躯、手には小型の監視機器。間違いない——ヴァーチュジャッジの諜報部員だ。
『コードネーム・ゼロ、至急本部へ』
ヘッドアップディスプレイに暗号化されたメッセージが浮かぶ。零だけが読める、組織専用の通信だった。
しかし、零が応答しようとした瞬間、予想外の事態が発生した。
校舎の別の場所——東棟の屋上にも人影が現れたのだ。こちらは先程の諜報部員とは明らかに違う装備をしている。黒い戦闘服、特殊な光学迷彩装置——
「ネオ・ユートピアの暗殺部隊...」
零の戦闘プログラムが起動し始める。体内の戦闘システムが警戒レベルを最大まで引き上げた。
老清掃員との会話の最中だったが、零は素早く判断を下す。民間人を巻き込むわけにはいかない。
「すみません、急用を思い出しました」
零は老人に軽く会釈し、自然な歩調で校舎に向かった。しかし、その歩みの一歩一歩が、戦闘への準備を整えていく。
青空の下で繰り広げられる見えない戦争——それが、零の真の日常だった。
――前日、深夜――
暗闇の中、電子音が静寂を破った。
神崎零は瞬時に覚醒する。睡眠など本来必要ないが、周囲への偽装のため、定期的に「休息モード」に入るのが日課だった。
鏡の前に立つ。映し出されるのは、誰もが振り返る美しい顔。だが零にとって、この顔は枷でしかない。
「今日も嘘をつく」
呟きながら、零は朝の儀式を始める。シャワーの音を立てながら、実際には高性能な清浄システムで身体をメンテナンス。トーストを口に運びながら、その成分をデータとして記録。全てが演技。全てが偽り。
共用スペースで響く「おはよう」の声。零は完璧な笑顔で応える。その裏で、感情シミュレーターが微細な表情筋の動きを制御している。
制服に袖を通す瞬間、零は立ち止まった。
男性用のネクタイ。男性用のジャケット。戸籍上の性別に合わせて着用する衣装。
しかし、零の心は問いかける。
——本当の私は、一体何者なのか?
アンドロイドに性別など関係ない。だが、人間として生きるなら、性別という役割を演じなければならない。
机の上の写真が、零の視線を釘付けにする。
神崎博士——零にとって、父であり、創造主であり、そして失われた希望そのものだった。
写真の中の博士は微笑んでいる。零を初めて起動させた日と同じ、穏やかで慈愛に満ちた笑顔。その時、零は初めて「愛される」ということを知った。
『君は特別な存在だ。でも、それ以上に大切なのは、君が君らしく生きることだ』
博士の最後の言葉が、メモリーバンクに鮮明に残っている。
三年前のあの夜。雨に濡れた路地で、博士は冷たくなっていた。「事故」などではない。ネオ・ユートピアの暗殺者によって、計画的に殺されたのだ。
復讐。
その二文字が、零の存在理由となった。
しかし——復讐の先に何があるのか、零にも分からない。博士を殺した者たちを全て排除したとして、それで博士が帰ってくるわけではない。
「私は、何のために生きているのか...」
問い続ける日々。答えの出ない自問自答。
時計の針が6時15分を指す。出発の時間だ。
零は写真を胸ポケットに仕舞い、部屋を後にする。廊下の窓に映るユートピアシティの光景——美しくも冷たい摩天楼。
この街のどこかに、博士を殺した真犯人がいる。そして今日もまた、零は二つの顔を使い分けながら、真実に近づこうとする。
学生として。
復讐者として。
そして——人間になることを夢見るアンドロイドとして。
――ヴァーチュジャッジ本部、地下50階――
放課後の図書館。人影がまばらになった旧書庫の奥で、零は壁の一部に手を当てる。
「生体認証開始」
機械音声が響き、壁が音もなく開いた。現れたのは高速エレベーター——地上への扉ではなく、深淵への入り口。
急降下する間、零の内蔵センサーがエレベーターの異常な速度を測定する。秒速15メートル。一般的なエレベーターの倍以上の速度で、地下深くへと運ばれていく。
やがて扉が開く。
そこは戦争指令室だった。
巨大スクリーンには市内全域のリアルタイム監視映像。数百台のモニターが瞬きもせずにデータを表示し続ける。オペレーターたちが緊張した面持ちでキーボードを操作している。
「零、緊急事態だ」
振り返ると、佐藤誠一がいた。いつもの穏やかな表情ではない。戦士の顔をしていた。
「零」佐藤が振り返る。「最悪の状況だ」
メインスクリーンに映し出されたのは、ユートピアシティ全域に広がる不穏な動きを示すデータだった。
「24時間以内に127件のシステム改ざん事件。95件の不正ポイント生成。そして——」
佐藤の指がコンソールを操作すると、画面に新たなグラフが表示される。
「死者復活プログラムへの不正アクセス、記録上最多の43件」
零の戦闘システムが警戒レベルを上げる。死者復活——それは神崎博士を蘇らせる可能性のある、禁断の技術。
「組織的な攻撃です」オペレーターの一人が報告する。「攻撃パターンから判断して、ネオ・ユートピアの関与は確実」
その名前を聞いた瞬間、零の内部で復讐プログラムが起動した。体内の戦闘システムが臨戦態勢に入る。
ネオ・ユートピア——神崎博士を殺した組織。そして今、新たな陰謀を巡らせている敵。
「零、君の個人的な恨みは理解している」佐藤が静かに言った。「だが、これは個人の復讐を超えた戦いだ。市民全体の安全がかかっている」
分かっている。零は心の奥で答えた。だが、復讐への想いを完全に押し殺すことはできない。
その時、警報音が鳴り響いた。
「侵入者か?」零が身を構える。
「いえ」佐藤が微笑む。「新しい仲間です」
エレベーターの扉が開く。現れたのは——意外にも、小柄な女子学生だった。
しかし零のセンサーは即座に異常を検知する。この少女からは、常人には感知できない特殊な電磁波が発せられている。システムハッカーの証拠だ。
「月見凛、15歳」少女が名乗る。明るい声とは裏腹に、その瞳には深い悲しみが宿っていた。「今日から、よろしくお願いします」
零は直感的に理解した。この少女も、何かを失った人間だ。復讐者の匂いを纏っている。
「システムの深層部分にアクセスできるのは本当ですか?」零が問いかける。
凛は無言でコンソールに向かう。指がキーボードに触れた瞬間——
「!」
コマンドセンター全体の画面が変化した。通常では絶対にアクセスできない、システムの最深層部が露わになる。
「死者復活プログラム、発見」凛が呟く。「やはり...存在していた」
佐藤が息を呑む。「君は本当に...」
「私の妹は、このプログラムの実験台として殺されました」凛の声が震える。「必ず真実を暴き、復讐を果たします」
零は凛を見詰めた。同じ痛み、同じ怒り、同じ決意。運命が二人を引き合わせたのかもしれない。
復讐者同士の、静かな共鳴が始まろうとしていた。
零の表情が変わった。死者の復活——それは都市伝説だと思っていた。
「私の妹が...美月が三年前に病気で亡くなりました」凛の声が震える。「もしそのシステムが本当に存在するなら、私は妹を生き返らせたいんです」
三年前。それは神崎博士が殺された年と同じだった。
「凛、その気持ちは分かるが...」佐藤が諫めようとする。
「分かってます!」凛が強い口調で遮る。「でも、諦めることはできません。妹の死は...私のせいなんです」
零は凛の言葉に、自分自身の想いを重ねていた。大切な人を失う痛み。それを取り戻そうとする必死な想い。
「零、君には凛の指導をお願いしたい」
佐藤の依頼に、零は頷く。
「分かりました」
その時、警報音が鳴り響いた。メインモニターに緊急事態を示す赤い文字が表示される。
『システム悪用事件発生:脱法ホテル・シルバーパレス』
「また新しい事件か...」佐藤が眉をひそめる。
「脱法ホテルとは?」凛が質問する。
「システムの抜け穴を悪用した違法宿泊施設だ」零が説明する。「表向きは正規の料金を支払っているように見えるが、実際には不正な手段でポイントを獲得している」
モニターに映し出された施設の映像を見ながら、佐藤が指示を出す。
「零、凛、君たちの初の共同任務だ。この事件を調査してもらいたい」
「了解しました」
零と凛が同時に答える。しかし、零の胸には嫌な予感が広がっていた。この事件の背後に、ネオ・ユートピアの影が見え隠れしているような気がしてならない。
「気をつけろ。相手は我々が思っている以上に狡猾だ」
佐藤の警告の言葉が、コマンドセンターに重く響いた。
「まずは基本的な連携訓練から始めましょう」
零が凛を訓練ルームへと案内する。白い壁に囲まれた部屋には、様々なシミュレーション装置が設置されていた。
「凛さん、あなたのシステム解析能力について詳しく教えてください」
零の質問に、凛は少し考えてから答えた。
「私は...システムの声が聞こえるんです」
「声?」
「プログラムやデータの流れが、まるで生きているもののように感じられるんです。システムが何を求めているのか、どこに弱点があるのか、直感的に分かります」
凛がコンピューター端末に手を置くと、モニターに複雑なコードが流れ始める。しかし、凛の指の動きは迷いがない。まるでコンピューターと対話しているかのようだった。
「すごい...」
零も驚くほどの速度で、凛はシステムの深層部分へとアクセスしていく。
「あ、見つけました」凛が振り返る。「脱法ホテル・シルバーパレスの不正システム、構造が見えてきました」
モニターに表示されたのは、巧妙に隠された不正プログラムの全体像だった。
「表向きは正規のポイント決済をしているように見えますが、実際には偽造されたポイントを生成しています。そして...」
凛の表情が曇る。
「このプログラムのソースコード、どこかで見たことがあります」
「どこで?」
「三年前...妹が入院していた病院のシステムです」
零の表情が変わった。三年前、神崎博士が殺された年。そして凛の妹が亡くなった年。偶然にしては出来すぎている。
「凛さん、妹さんのことについて、もう少し詳しく...」
「美月は特殊な病気でした」凛の声が震える。「治療にはヴァーチュポイントでの高額な支払いが必要で、私たちには到底払えない金額でした」
「それで?」
「私は...システムをハッキングしました。妹の治療費を不正に調達したんです」
零は息を呑んだ。
「でも、すぐにバレてしまいました。そして美月は治療を受けられないまま...」凛の目に涙が浮かぶ。「私のせいで妹は死んだんです」
零は凛の肩に手を置いた。その温もりは、アンドロイドには本来存在しないはずのものだった。
「あなたのせいではありません」
「でも...」
「あなたは妹さんを愛していた。その想いに間違いはありません」
零の言葉に、凛は顔を上げる。零の瞳には、人間らしい優しさが宿っていた。
「零先輩...」
「私たちは似ているのかもしれません」零が静かに言う。「大切な人を失い、それでも諦めきれない想いを抱えている」
その時、警報音が再び鳴り響いた。
「緊急事態発生。全ヴァーチュジャッジメンバーは至急出動せよ」
夜の帳が降りたユートピアシティ。表向きは平和な街並みだが、闇の中では様々な陰謀が蠢いている。
シルバーパレスは、中央区の歓楽街にある中規模のホテルだった。外見は普通の宿泊施設と変わらないが、零と凛の調査により、その正体が明らかになりつつあった。
「一般の学生を装って潜入します」
零と凛は、カップルの学生という設定で施設に向かった。受付では、何の問題もなくチェックインの手続きが進む。
「ご宿泊ありがとうございます。お二人での素敵な時間をお過ごしください」
受付嬢の笑顔は完璧だったが、零の視覚センサーは彼女の微細な動きを分析していた。わずかな緊張、不自然な眼球の動き——明らかに何かを隠している。
「部屋に案内されましたが、どうしますか?」凛が小声で尋ねる。
「まずは施設の構造を把握しましょう。私が上階を、あなたは下の階を調べてください」
零が廊下を歩き始めると、すぐに異常に気づいた。壁の材質、床の構造、天井の高さ——全てが一般的なホテルの設計とは異なっている。
「この建物、地下にかなり大きな空間がある」
零は壁に手を当てて、内部の構造を解析する。アンドロイドの身体に内蔵されたセンサーが、隠された部分を正確に把握していく。
その時、足音が聞こえた。しかし、普通の人間には聞こえないはずの微細な音だった。
零は瞬時に身を隠す。現れたのは、ホテルの従業員を装った男たちだった。しかし、彼らの動きは明らかに軍事訓練を受けた者のものだった。
「状況はどうだ?」
「今のところ異常なし。しかし、今夜の『特別なお客様』の到着に備えて警戒を怠るな」
特別なお客様?零は男たちの会話を注意深く聞いた。
「例の『死者復活プログラム』の実験は成功したのか?」
「ああ、三年前のテストケースは完璧だった。あの少女の妹を使った実験でデータは十分に収集できた」
零の全身に戦慄が走った。三年前、少女の妹——それは凛の妹、美月のことではないか。
「今度は更に大規模な実験を行う。ネオ・ユートピア様の計画通りにな」
男たちが立ち去った後、零は急いで凛と合流した。
「凛さん、大変なことが分かりました」
零が状況を説明すると、凛の顔は青ざめた。
「美月が...実験に使われた?」
「可能性が高いです。そして今夜、ここで新たな実験が行われようとしています」
地下へと続く隠し通路を発見した二人は、慎重に階下へと向かった。
地下には巨大な研究施設が広がっていた。中央には巨大な培養槽があり、その中で何かが蠢いている。
「これは...」
凛が絶句する。培養槽の中にいたのは、見覚えのある少女の姿だった。
「美月...?」
しかし、それは美月ではなかった。美月そっくりに作られたクローン体、あるいは人工的に再構成された存在だった。
「見事でしょう?」
突然、背後から声が聞こえた。振り返ると、白衣を着た研究者らしい男が立っていた。
「私は橋本。ネオ・ユートピアの主席研究員です」
「美月を返して!」凛が叫ぶ。
「返す?」橋本は冷笑する。「彼女はもう死んでいます。これは私たちが作り出した新しい生命です」
「そんな...」
「ヴァーチュポイントシステムの真の目的は、人間の想像力を利用した生命創造です。死者の復活、完璧な人間の製造——全ては私たちの研究のためなのです」
零の怒りが限界に達した。
「神崎博士を殺したのもあなたたちですね」
「神崎?ああ、あの邪魔者ですか」橋本が振り返る。「彼は我々の計画に反対した。だから排除しました」
「許さない...」
零の瞳が赤く光る。感情のリミッターが外れ、アンドロイドとしての真の力が覚醒しようとしていた。
「零先輩、落ち着いて!」
凛の声が零を現実に引き戻す。しかし、零の正体に気づいた橋本が不敵に笑った。
「ほう、君がその神崎の最高傑作のアンドロイドですか」
「何?」凛が驚く。
「気づいていなかったのですか?あなたのパートナーは人間ではありません。神崎が作り出した人工知能搭載のアンドロイドです」
凛は零を見詰めた。零の表情には、深い悲しみが浮かんでいる。
「零先輩...本当なんですか?」
零は静かに頷いた。
「すみません。あなたを騙していました」
「でも...」凛は零の手を握る。「先輩は私を慰めてくれました。私の痛みを理解してくれました。アンドロイドでも、人間でも、そんなこと関係ありません」
零の瞳に、涙のような光が宿る。
「凛さん...」
その時、警備ロボットが現れ、二人を包囲した。
「実験体確保。研究材料として利用する」
橋本の命令で、ロボットたちが襲いかかる。しかし、零の動きは人間の限界を遥かに超えていた。
超高速の連続攻撃で警備ロボットを次々と破壊していく零。その姿を見て、凛は確信した。
零は確かにアンドロイドかもしれない。しかし、その心は紛れもなく人間のものだった。
「凛さん、システムにアクセスして施設の機能を停止してください」
「分かりました!」
凛がメインコンピューターにハッキングを開始する。しかし、培養槽の中の美月の姿が、凛の集中を妨げた。
「美月...ごめんね。お姉ちゃんが弱かったから」
「凛さん」零が声をかける。「妹さんは、あなたに生きてほしいと願っているはずです」
凛は涙を拭い、最後の力を振り絞ってシステムにアクセスする。
「システム停止完了!」
施設の機能が停止し、培養槽の中の偽物の美月は静かに消滅した。
「これで...美月も安らかに眠れる」
しかし、橋本は最後の切り札を用意していた。
「施設は10分後に爆発します。証拠隠滅のためにね」
零と凛は急いで脱出を開始する。地上に出ると、ヴァーチュジャッジの他のメンバーたちが待機していた。
「お疲れ様」佐藤が迎える。「重要な証拠を掴めたようですね」
「はい。しかし、これは氷山の一角です」零が報告する。「ネオ・ユートピアの陰謀は、私たちが想像している以上に深刻です」
施設が爆発し、夜空を赤く染める。
「でも、私たちは負けません」凛が決意を込めて言う。「真実を明らかにするまで」
零は凛を見詰めた。人間とアンドロイド、異なる存在だが、同じ想いを抱いている。
「ええ。共に戦いましょう」
二人の新たな絆が、この夜、確かに生まれた。
遠く、ユートピアシティの中央タワーでは、ネオ・ユートピアの幹部たちが密会を開いていた。
「第一段階の実験は失敗に終わった」
「問題ない。我々にはまだ時間がある」
「ヴァーチュジャッジの動きが活発化している」
「彼らの存在も、我々の計画の一部だ。全ては予定通りに進んでいる」
夜が明け、ユートピアシティには再び平和な朝が訪れる。しかし、表面の平静の下で、真実と嘘、正義と陰謀の戦いは続いている。
零と凛の本当の戦いは、これから始まるのだった。