第一話
僕達はかつて、五日間の恋人だった。
夜の砂浜に広がる、栗色の長い髪。
闇の中でも発光するような、白い肌。
僕は未だに、あの夜の日々を昨日のことのように思い出せる。
***
「海斗、水筒忘れるなよ」
リビングで朝からゲームに夢中の海斗に声をかける。
「ん」
海斗は、返事にならないような声を返す。
「出かける前に、小波起こせよ」
「えー! 面倒くせー! 航がやってよー」
生意気にも、六歳も年上の兄である僕のことを航と呼ぶ。本名は航太なのだが。
八月十日。夏休み真っ只中。来年の夏休みは、僕は受験勉強に追われているだろう。
小学五年生の海斗は、今日から三日間のサマーキャンプに行く。地域が主催している小学生向けのキャンプだ。参加は自由だが、僕と妹も参加したことがある。ちがう学校の子と友達になれるし、キャンプファイヤーやアスレチックをしたり、毎日が楽しかった。
妹の小波は、中三の受験生。中学に入って色気づいたのか、ネイルをしたりバレない程度に化粧をしたり……と頑張っていたのに、どういう訳か中二の三学期から猛勉強を始めた。
時計を見ると八時十五分。もう出ないと遅刻する。慌ててパンの残りを口に押し込み、牛乳を飲む。今日は模試があるのだ。夏休み期間中も、特別講習やら模試やらでちょくちょく登校している。
僕が通う鳩葉高校は、この辺りでトップの進学校だ。取り立てて、取り柄のない僕だが、勉強はできる方だった。唯一自分の自慢できるところ。
玄関を出て自転車に跨る。家から学校までは自転車を飛ばせば約十分。
両親はseasideという飲食店を経営していて、朝早くから夜遅くまで働いている。だから、海斗や小波を起こして、何かしら朝食を食べさせ、登校するのを見届ける、というのが僕の役割になっている。
海斗は寝起きがいいが、小波はなかなかやっかいだ。「低血圧なんだもん」と本人は主張するが、ただ自分に甘いだけだと思う。そのやっかいな仕事を、今日は海斗に押しつけた。
自転車のペダルに体重をかけて漕ぐ。海沿いの道に出ると、海の香りがより深くなる。それを嗅ぐと落ち着いた気持ちになるのだ。小さい頃から慣れ親しんだ香り。
僕は立ち漕ぎで、ぐんぐんスピードを上げた。
この街は、深い青色の海に面している。
***
教室に入ると、すでに全員そろっていた。やはりみんな真面目だ。熱心に単語帳や参考書を広げている。
「航太おはよ」
斜め前の席にいた、白石文香が声をかけてくる。「おはよ」と返し席に着く。文香と知り合ったのは、一年前だ。
文香のお姉さんの円香が、seasideでアルバイトをしている。鳩葉高はアルバイト禁止だが、僕はこっそり去年の夏休みの間、seasideでアルバイトをしたのだった。
他にもアルバイトが二人いるが、休憩時間に話しているうちに、僕は円香と一番仲良くなった。円香は大学一年生。僕より三つ年上だ。ショートカットに、ほぼ化粧をしていないからか年上という感じがせず、僕は最初からタメ口で話した。
そして、妹が鳩葉高に通っていると教えてくれたのだった。
「白石文香っていうんだけど。知らない?」
一年の時は文香とクラスが違ったので、その名前を聞いても、ピンとこなかった。そして「神社の夏祭り、三人で行こうよ」と誘われた。
八月のお盆の時期、地元の神社で夏祭りが開かれる。露店がたくさん出て賑やかになるのだ。この街には、こんなに人が住んでいるのかと思うほど。
夏祭りで初めて文香に会った。文香はボブヘアで、円香の顔の作りを、少し深くしたような感じの子だった。初めは緊張したけれど、文香も円香に似て飾るようなところがなく、すぐに仲良くなった。
三人で露店を端から端まで見て歩き、たこ焼きやアイスクリームを食べた。
そして、二年になり、僕達は同じクラスになった。
出会ってからもうすぐ一年。文香は気の合う友達だ。
***
家に帰ると午後四時前だった。海斗はきちんと出かけたらしく、玄関に置いていたリュックサックも、ダイニングテーブルに置いていた水筒も無くなっていた。
小波は塾に行っているのだろう。家には誰もいなかった。冷蔵庫から麦茶を出し、コップに注ぐ。一気にそれを飲み干すと、一瞬体が冷えたように感じ、大量の汗が吹き出す。
今年の夏も、僕はこっそりseasideでアルバイトをしている。今日は五時からだった。汗だくになったカッターシャツを洗濯機に放り込み、シャワーを浴びる。デニムとTシャツに着替えると、再び自転車に跨りseasideへ向かった。
「航太、今日、コースを予約してくれているお客さん担当でお願いね」
店に入るなり母がそう言った。「了解」と返事する。
両親のこだわりで、seasideでは、コース料理を頼んでくれた客には、同じスタッフが料理を運ぶことになっている。
客の様子を見ながら、タイミングよく料理を配膳し、ドリンクのお代わりを訊くためだ。
予約客の人数と名前を確認するために、レジカウンターの横にあるパソコンを覗く。
【17時半 コース予約 横原様 4名】
と入力されていた。
「横原様、ね」
確認するように呟く。その名前が、これから先、僕の中で、かけがいのないものになるなんて、この時は思ってもみなかった。