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12年

作者: 雨水月

 12年、あれから長い月日がたった。でも、私の人生にとって一体それがどれだけの意味を持つのか、私には分からない。私はあの時逃げた。だから、私はいつまでもあの場所にとらわれている気がする。


 夏は秋に変わろうとしている。開かれた窓から入る風が教室を涼しくしてそれが教室にセンチを運んでくる。もう少しでこのクラスともお別れか。


 教室では目立ちたがり屋の岸君がいつもみたいにはしゃいでいる。教室の後ろの黒板に変なことを書いて、女子生徒は意味が分からなさそうにそれを見てるけど男子たちはそれを見てゲラゲラ笑っている。

 英語、いやあれは英語の文章ではなさそうだ。スペイン語、いやフランス語かな。でもフランス語なんて今までの人生で触れてきたことなんか一度もないからわからない。


「ねえ、メル。あれ、なんなんだろうね。」

 隣の席の祐実が話しかけてくる。今日も三つ編みのツインテールだ。セーラー服によく似あっている。

「さあね、フランス語かなんかじゃない。」

 私はもう一度文章を見てみるがやはり意味が理解できない。

「メルだったら分かるでしょ。メル、帰国子女だから。」

 祐実がそう言うのを聞いて私は少しイラっとした。そして、同時にまた私は悲しくてやりきれなくなった。


「うん、そうだね。でも、私は英語だから。」

 そう答えて私は黒板の方をじっと見つめるふりをして祐実から目をそらした。文章を解読するフリをする。祐実はいい人だ。だから、いつもこんなときはどうしようもなくなってしまう。そうして私がある種、欠陥な人間であるということを分からせられる。私はみんなみたいに当事者になりたい。


 本当は私はメル、というこの名前も嫌いなのだ。母を捨てて出て行ってしまったアメリカ人の父がつけた名前。ハーフだからといってカタカナにされた名前。私はそれを見るたびに疎外感を感じる。なぜ、他のみんなみたいに意味を持つ漢字の名前ではないのか。

 そのとき、教室の前のほうがにぎやかになり始めた。男子たちがまた何か例のことで盛り上がっているらしい。心なしか私を見て笑っているような気がした。


 帰りはいつも行き先が一緒の玲子と帰る。隣のクラスの生徒で私の唯一を言ってもいい友達だった。

 すでに日が沈んでいた。人気のない道をボロボロの街灯が精一杯照らしている。

「ねえ、これメルは見た?」

 そう言って玲子は携帯の画面をメルに見せた。そこには今日、教室で見た例の文章の写真があった。

「これね、どうやらラブレターらしいのよ。」

 ラブレター。ちょっと意味がよくわからない。

「フランス語で、あなたが存在しなければ私も存在しません、ていう意味らしいよ。」

 それを聞いて男子は馬鹿馬鹿しくていいな、と思った。意味を知ったとたんその文字たちがとても愛らしいものに見えた。


「ほら、メルモテるじゃない。だから、もしかしたらね。」

「もしかしたら?」

 そう言ってる途中に私はいやな予感を感じた。よくあることだった。

「あなたに言ってるかもしれないってことよ。」

 ああ、やっぱりと思った。それで、今日の教室でも周りからの視線を感じたのだ。私の血のせいだ。ハーフというのが珍しい世界なのだ。だから、それだけで他の人間から注目を浴びてしまう。


「でもフランス語じゃあ意味がないよ。」

「さあ、日本語だとみんなにばれちゃうから隠そうとしたんでしょ。あなただけに伝わればいいって。」

 まったく、自己中心的だ。だったら、私に直接言いに来たらいい。あんな風にして黒板に書き出すなんて他の人に見てくださいと言っているのと同義だ。


「それよりさ、玲子は最近彼氏とどうなの。」

 私は話をそらした。別の話がしたかった。

 玲子には他校の彼氏がいる。玲子の幼なじみの草掛君だ。頭がよくて隣の市の進学校に通っているらしい。最近は受験勉強で塾に缶詰めらしい。


「さあ、彼頑張ってるらしいから。私はどうすることもできないね。」 

 玲子の口調は寂しげだった。手はバッグのペンギンのマスコットをいじっている。ピンク色のやつ。この前草掛君が水色のやつをつけていたのを見たことがある。

「彼、何としても国立狙いって言ってる。だから、私の存在は今は邪魔なのよ。」

 玲子はどこを見るでもなく空を見た。真っ暗な空に灰色の雲が見える。


 私は昔、玲子から草掛君の家族についての話を聞いたことがある。草掛君は母親と二人暮らしらしい。母子家庭となると家計のやりくりは大変である。それは私も実際によく知っていることだ。

「メルも勉強してるって言ってたでしょ。いいなあ、みんなは。私もさっさとこの町を出たいんだけどね。」

 それを聞いて私は急に寂しくなった。そうだ、私はもう少ししたらこの町を出ていくことになる。玲子との時間も残り僅かなのだ。部外者はどこにいてもつらい。


 朝、教室に行くと昨日のフランス語のメッセージは消えていた。黒板消しの跡が残っていた。

 今日の天気は秋晴れという言葉そのままというくらい雲一つないきれいな青空だった。私は、今の自分の気持ちがこれくらい晴れてくれたらいいなと切に思った。


 今日の公民は珍しくグループワークをすることになった。担任の真田先生は授業参観のために張り切っているらしい。クラスメイト達はがっかりしていた。この時期になるとほとんどの生徒が受験勉強や今後の進路に向けて舵を切っていた。公民の授業中でも多くの生徒は内職をしていたのである。


「じゃあ、4人ずつ席をくっつけて。」

 私たちは言われたとおりに席をくっつけた。向かいには祐実、隣には岸君が、はす向かいには拓真君が来た。みんな授業について文句を言っていた。だが真田先生は聞いていない感じだった。彼としても授業参観は一つの重労働なのだろう。

「こんな時期に何だよ。」

 岸君が不満そうに言う。部活をしていたから顔が日に焼けている。

「そうだよね、本当。」

 祐実がそれに呼応した。クラスはざわざわしている。私も早く終わらないかなと思っていた。


「えー、それでは。」

 真田先生はクラスを黙らせるでもなく話し始めた。話し始めれば生徒たちも静かになると思っていたのだろう。生徒のしゃべり声の中に先生の低い声が響く。

「今日は、グループワークですが。これは来週の授業参観での発表のための準備です。今回はあるテーマについて話し合ってもらいます。」

 思った通りみんなの声が静まり始める。先生も生徒たちの行動を知っている。

「今回のテーマは、12年前の震災の復興に関する政府の予算案について話し合ってもらいます。政府は、この復興について予算を現在までに○○兆円投じてきていますがいまだに帰宅困難者が○○人…。

 私はそれを聞いて心臓がバクバクし始めた。遠い記憶だと思っていたものがそこにはあった。乗り越えたはずのトラウマ。私の心は乱れている。それが自分でもよくわかる。時間が長く感じる。授業時間の五十分が永遠のように思える。

「今から、資料を配布します。政府の復興に関する予算案についての改善点、復興に向けてどうするべきかについて話し合ってください。まとめたものを配ったプリントに記入してください。授業終わりに回収します。」


 私はしばらく呆然としていた。それがどれだけの時間であったのかはわからない。ただ、祐実が私に話しかけてきてようやく自分は正気に戻った。

「ねえ、メル。大丈夫?寝不足じゃない。」

 祐実は笑っていた。プリントが私の机の上に置かれている。そこにはよく見たことのある文字列がつづられている。早くここから逃げ出したい。


 拓真が話し始めた。

「やっぱり、12年もたてば復興すると思うんだけどな。どうしてそんなに時間がかかるのか俺には分からないな。政府も使えねえな。」

 話す拓真の顔は純粋そのものだ。だから私にはそれが恐怖に映った。

「確かにね。どうせだったら新しい建物とかをたくさん建ててきれいな街を作れば最高だよね。そしたら、田舎でも人がもっと集まるかもしれないし。復興も早く進むよ。ほら、個々の予算なんて…。」

 私はプリントの資料を読み込むふりをしている。だがその目線は文字をとらえるでもなくその上空を飛行機みたいに漂っている。胸が痛い。開きたくないドアが開かれてしまう。そんなような感覚を覚える。

「ねえ、岸君はどう思う。」

 祐実が岸君に話しかけた。岸君はさっきからプリントを真剣に見ていた。いつもはお調子者の岸君にしては静かだった。


「ごめん、わからない。」

 岸君はそう言った。いつもの岸君とは思えないくらい冷静な口調だった。拓真君をそれを奇妙がっているようだった。

「まったく、らしくねえな。今日のお前は真面目そのものだな。」

 拓真君が岸君をからかうが岸君はそれに反応しなかった。岸君の目は真剣そのものだった。


「あのさ、俺思うんだけど。」

 岸君が話し始めた。心なしか教室全体までもその気迫に圧されて静かになったような気がした。

「俺たちにこんなのが、分かるわけねえよ。」

 思わず私は資料から目を離して顔を岸君に向けた。とても、神妙な面持ちをしていた。

「復興ってなんなのか、俺にはわからないね。だって、俺たちはそこに住んでいたわけでも行ったこともないし。大体、建物を建てて町が元通りみたいになっても元の暮らしが戻ってくるかっていったらそうでもないと思うね。元の暮らしなんてのは一生戻らないものなんだよ、きっと。だから、復興とか俺たちが言っても全くよくわからない。金をつかうだけが復興だなんて意味が分からん。」

 私は呆然とした。そして、なぜだか知らないが眼の奥から涙が込み上げてきた。必死にそれを我慢している。だが、私の体はそれをやめようとしていない。私は今何を感じているのだろう。うれしい、それとも悲しい?自分でもよくわからない。だが、岸君の声はよく響いた。それだけが私の知りうることだった。

「まあ、資料読むのがめんどくさいことのいいわけなんだけどな。」

 そう言って岸君は笑った。


「なんだよ冗談かよ。」

 拓真君も祐実も笑った。結局、いつもの冗談だったのだと思ったのだろう。それにしてはまじめすぎるフリだったと思って。でも、私の感情の堰はそれ以上こらえることはできなかった。私の心のどこかで感情の堰が壊れたような感覚を覚えた。気が付くと私は声を上げて泣いていた。止めようとする努力すらもやめてしまった。もう、どうでもよかった。

 私は両手で必死に目を抑えている。だが、それでもクラス中のみんなが私のことを見ているのだろうなと思った。不思議と私を見つめるみんなの怪訝そうな表情が鮮明に想像できた。


「ねえ、どうしたの。」 

 と、祐実がまず話しかけてきた。だが、私は返事をすることはできなかった。そして、岸君も私のことを心配がって声をかけてくれた。だが、私は何も言えなかった。

 結局、先生が私を保健室まで連れて行ってくれた。その際も私は手を目から話すことができなかった。みんなを見ることが怖かった。教室の扉を開けて外に出る時、あの教室にはもう戻れないと思った。


 真田先生は私に何も聞かなかった。その代わりに私の母に電話をして迎えに来るように頼んだ。母は仕事をしていたけれど私のことを聞いてその日は仕事を中断して学校まで迎えに来てくれることになった。

 保健室のベッドに寝たことはなかったがとてもいい気分だった。窓際の花瓶に花が一つだけ活けられている。名前は知らないがそれがとても愛おしかった。

 なぜ、あんな行動をとったのだろうと思って私は不思議になった。今となっては理解することができない。私はさっきまでの自分とは全く違う人間になっていた。

 考えているとだんだんめんどくさくなってきた。だから、何もかもやめてしまった。ただぼんやりと窓の外を見ていることが今は一番幸せだった。

 

 夕方になって母が保健室の扉から入ってきた。何だか、慌てている感じだった。髪も服も乱れている。私はそれを見て申し訳なくなった。寝返りを打つようにしてそっぽを向いた。

 真田先生は母を迎え入れるといったん保健室の外に出て母と話し始めた。私はその内容を聞こうと懸命に耳を澄ませてみたが何を話しているかはわからなかった。母はしきりに先生に謝罪しているようだった。


 プリウスに乗り込む。いつもの車のにおい。安心した。

 でも、私は母と顔を合せなかった。右手で髪の毛を触っているふりをしてただ左の窓から見える外の景色を眺めている。今日は遠くの山まで見渡すことができた。私はそれがとても新鮮で不思議だった。

「ねえ、今日はどうしたの?」

 ちょうど車は田んぼ沿いの交差点を曲がった。遠くに電車の音が聞こえた。

 私は答えない。


 きっと、母はさっき真田先生と話して事情を聴いたのだろう。だから、何が起きたのかは知っているはずだった。でも、母はそれを私の口から聞きたかったのだ。それが私に必要であると知っていたから。

 車が踏切で止まる。空は相変わらず澄み渡っている。踏切のベルの音があたりに響く。

「この町、いい町だよね。ほら、今日は西舘山が見えるよ。」

 西舘山、それがあの山の名前か。確かにそんな名前な気がする。あの山にだって名前があるのだ。それがなんだかとてもいいことのように思える。

「ねえメル。母さんはあなたのこと、本当に大事に思っているのよ。」

 車内は静かだ。いつもだったらかかっているはずのラジオも今日はない。バックミラーにかかった消臭剤が車の振動で揺れる。


「ねえ、お母さん。」

 私は話し始める。母は前を見ている。お母さんは優しい。

「私、あの震災のことどこかで後悔してる。私、あのときお母さんと違ってあそこにいなかったから。もちろん、それが今の私によかったことだってあると思う。でも、なんだか私って偽物みたいだなって思うの。みんながあのとき苦痛に向き合って乗り越えたのに。私だけ、今でも逃げ続けてる気がする。」

 私はそれを言えてほっとした。ずっと胸に抱え込んでいたことだ。

 私は12年前の震災が起きた時アメリカにいた。母と父はその時すでに離婚していたが私は父に会うために小学校を休んでアメリカに行っていた。私はまだ幼くて震災のことなんて何も知らなかった。日本のニュースを見て狼狽する父親を見た記憶があるが定かではない。すぐに日本に帰国して別の場所で暮らし始めた。私は何が何だかわからなかった。

 結局、私は幸運だった。通っていた小学校でもたくさんの人が亡くなった。母と住んでいた家も跡形もなく壊れてしまった。


「ねえ、メル。」

 近所の子供たちが道端で遊んでいる。お互いにふざけあって笑っている。

「私はね、あの時本当にあなたが日本にいないことを神様に感謝したのよ。地震で建物が崩れる時も、避難所で寒い中おなかをすかせているときも、いつだって私はあなたがこっちにいてくれなくてよかったと思ったわ。」

 母もあの時のことを思い出しているらしい。穏やかそうな表情の裏に悲しみが見えた。お互いに年を取った。年月の進みは本当に早い。


「あなたに詳しく話したことがなかったけど。あの時は本当にひどいありさまだった。避難所で、ちょうどあなたと同じくらいの女の子が弟を連れて両親を探している様子を見たことだってある。ひどく泣いていた。私はそれがとてもいたたまれなくなった。でも、私はそれを見てそれがあなたじゃなくて本当に良かったと思った。あの時ほど神様に感謝したことはないわ。」

 母の静かな声が社内に響く。車は静寂の中、母の言葉を待っている。

「あなたの痛みが本物でなくて私はそれがとても幸運だと思う。」

 母はそう言って黙った。私も母も何も言わなかった。窓から見える秋晴れの空がとても気持ちよく感じられた。日が沈もうとしている。いつか、あの山に、西舘山に登りに行こうと思った。


「あれ、誰だろう。うちのクラスの子かしら。」

 学校の制服を着た男の子が家の前に立っていた。なんだか、恥ずかしそうにもじもじしながら行き場のない手で頭をかいている。

「あ、岸君だ。」

 いったいここで何をしているんだろう。

「メルのボーイフレンド?」

 母はにっこりと私に笑いかけて家に入った。私は違うよと言いながらも何だかそれがうれしかった。私は母と繋がっているような気がした。


「あのさ、俺お前が心配になって。様子を見に行こうとしたんだけど。」

 岸君の顔が赤い。照れているのだろうか。

「私大丈夫だから。安心して。」

 私は自分の発する声に強さを感じる。これからも私は成長していく。それが私にははっきりとわかる。

「俺、お前のこと結構好きだから。ほら、黒板のフランス語あっただろ。あれ、メルだからメルシーってフランス語で。変だと思うけど。」

 私は大声で笑った。なんだ、そんなことか。全く岸君は馬鹿だなあと思った。

「ありがとう。」

 秋の風が吹いた。もう夏は終わりらしい。季節は変わりゆく。夕暮れの中に町は沈んでいく。

「じゃあ、俺帰るから。」

 手を振る彼に合わせて私も手を振る。

「じゃあね。また明日学校で。」

 自転車に乗って走っていく岸君の背中を見て私は自分が本当に幸運だと思った。通り過ぎる風は私の背中を押す。

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