第07話 彼女が名前を覚えている限り
「う……ネフライト、君?」
ルクリアの心に浮かんだ謎の美少年の映像は、隕石を墜とした哀しき男のメッセージによって、すぐにかき消されてしまった。だが、ルクリアは意識を失う直前に、無意識のうちに謎の美少年の名前を口にしていた。
まさか、既にその美少年と自分が本来の時間軸では婚姻関係にあるとは夢にも思わずに、ルクリアは不思議な物置部屋で倒れてしまう。
カチコチと響く時計の針は、進んでいるようで実は遅れている。ここはまだ現実の世界とは呼べない、夢の世界だ。
けれど、古代地下都市アトランティスの住民一人ひとりが、地下都市における自我の確立を完了させた場合に限り、新たなパラレルワールドとして世界軸が成り立つようになる。夢から独立して現実として認定されるのだ。
まさに、このパラレルワールドを作り上げたギベオン王太子も、未来人レンカも、その時を願って時間稼ぎをしているのだった。
* * *
ギベオン王太子とオニキス生徒会長を見送ったあと、レンカもまた自分の部屋で休息を取っていた。柔らかなベッドにぽすんと座って、疲労の正体と向き合うとやはり原因は神経だということが良くわかる。
「はぁ今日はいつも以上に、ヒヤヒヤしたな。私、カルミア伯母様みたいに歌なんか上手く歌えないし、オニキス生徒会長に勘付かれる前にどうにかしないと。喉でも痛めた設定にしておこうかしら?」
本来はこの時代の人間ではないレンカだが、母であるルクリアが予定より早くネフライトと纏まり妊娠したため、レンカの産まれてくる可能性は急激に下がった。ついに身体が半透明になり、最終手段でギベオン王太子に隕石衝突による滅亡からのタイムリープを頼んだのだ。
一か八かの賭けは成功し、古代地下都市アトランティスに早期移住した世界線を生み出して、レンカはカルミアのポジションに成り代わった。しかし、演奏会の歌唱者が誰であるかなどの記憶違いがいくつか生じて、その度にレンカは心臓が苦しい想いをしている。
『あの別れの曲がとても美しく、僕の心にいつまでも響いているんです』
とても嬉しそうに、照れたように微笑むオニキスの優しい表情は、本来はカルミアへの恋心が生み出したものだろう。
レンカが心を込めて編んだマフラーのプレゼントだって、カルミアの美しい歌唱という思い出補正をプラスして、編み物が評価されたに過ぎない。
『えっこれを僕に? ありがとう、レンカ。意外と女性らしい一面があるんだね。けど、演奏会でも見事な歌声だったし、キミはいろいろと器用だ』
本当はレンカはそれほど、器用な女の子ではない。氷河期が訪れた後に生まれた世代であるため、自分で防寒具を作ることが当たり前となっていて、マフラーなどの編み物が得意なだけだった。カルミアだって得意不得意はあったはずだが、音楽好きの父親レグラス伯爵の影響で、歌唱が上手なのだろう。
いや、カルミアに限らず、レグラス伯爵はチェロ、ルクリアはピアノ、後妻のローザはバイオリンとそれぞれ音楽に長けていた。それが音楽大好き人間で、演奏会を生きがいとするレグラス伯爵が束ねる本来のレグラス家の在り方だ。
以前カルミアに何故、歌唱がそんなにうまいのか聞いた時の答えがふと脳裏に蘇った。
『お父様の趣味に付き合っているうちに自然と演奏や歌唱が上達した娘二人と、レグラス伯爵と親しくなりたい一心で、昔習っていたバイオリンを猛練習したモブメイドのローザって感じね。レンカは音楽とかやらないの?』
『えぇと、編み物とか……マフラーも手袋も自分で編んだのを使って。それくらいかな』
『ふぅん。なかなか便利な趣味じゃない、冬になったら作ってよね』
せっかく、自分を可愛がってくれたカルミアを裏切る形で、成り代わったレンカの良心がチクリと痛む。だが所詮、レンカはレンカでしかなく、カルミアには成れなかった。
無理矢理レグラス家の輪に入ったレンカは、演奏も歌唱も特別趣味としていない。母ルクリアはピアノが得意だったが、失った家族の思い出を振り返るのが嫌で殆ど音楽に触れない人になってしまった。だから、レンカも音楽とは遠い生活だったし、これが育った環境の差と言うものなのだと思う。
「オニキス生徒会長はまだ、カルミア伯母様のことが好きなのかな。タイムリープ前は、私のことをカルミア伯母様本人だと思いこんで恋人になったオニキス会長だけど。今回の時間軸では、カルミア伯母様は最初から存在していなくて、私が生徒会の広報係レンカなのに。まだ、彼の心には消えたカルミア伯母様が住んでいるの?」
いなくなったはずのカルミアの存在がチラつく場面は、何も演奏会の記憶だけではない。まるで女の子が本当に住んでいたかのような不思議な物置の正体は、おそらく地上にいた頃のカルミア・レグラスの寝室だ。
たまたま屋敷の片付けをした際に、物置部屋で入手困難な乙女ゲームの攻略本を発見し、レンカはそこがカルミアの部屋であると確信した。
カルミアは今回のタイムリープの設定上は排除されているが、この世界の隠しデータとして潜むようにまだ存在してしまっている。少なくとも、カルミアが生きていたという証拠がレンカを無言で問い詰めるように目の前に現れるのだ。
* * *
その頃、本来の時間軸で過ごすネフライト・ジェダイトは妻ルクリアの手を握りしめて、奇跡的に目覚めるのを願って妻の唇に口付けをしていた。まるで、死を現しているかのように彼女の唇は氷のように冷たく、【本当の氷の令嬢】になってしまったとネフライトの瞳から涙が溢れる。
「ルクリアさん、起きてよ……」
大切な祖国が滅んだことがショックなのは、ネフライトだって理解しているつもりだ。夢見の薬で、衝動的に妻ルクリアが眠りについてから、数日が経過していた。毎日、お見舞いに行き呼びかけても返事がなかったルクリアだが、ある時ふとネフライトの名前を呼んだ。
「う……ネフライト、君……?」
夢見の薬は自分が最も未練のある時間軸に意識のみタイムワープする薬とされており、医療の枠ではなく魔術のアイテムとして危険視されていた。
その危険な薬を持ってしてでも、魂を過去へと飛ばしたルクリアが、無意識とはいえ現在の夫である自分の名を呼んでくれたことは喜ばしいことだった。
(嗚呼、まだルクリアさんは僕のことを忘れていない。例えタイムリープした夢の中で僕の存在がもみ消されていたとしても。彼女の心には、まだ僕が住んでいる……!)
ルクリアが自分の名前を覚えている限り、心に自分が無意識の中でも生きている限り。ルクリアがここに帰ってくる僅かな可能性を見出した気がして、ネフライトの瞳からは再び大粒の涙が溢れた。




