我が家のガイジン「G子ちゃん」
クロゴキブリという昆虫を知っているだろうか。
言わずと知れた皆さんご存知、家の台所や浴室に現れる事が多い、黒くてカサカサ音を立てて動く素早い害虫である。どんな場所でも生きていける驚異的な生存性と、一匹いたら二十匹以上いると言われている繁殖力に加え、長い触角をぴこぴこ動かすその見た目の気持ち悪さから、不快生物ランキング年間上位の筆頭である。
「見つけ次第殺せ!」と、人間の本能が訴える瞬間には、もう既にスリッパか棒状にした新聞片手に襲い掛かり、確実に息の根を止めたか確認するまで、血眼になって殲滅戦を展開する。勿論、奴ら用に開発されたスプレー等を使う事もある。それが我々と奴らによる、人類誕生から始まる長き戦いの歴史なのだ。
では、そんな人類の目の前に、人間並みのデカさになった黒光りのやばい奴が現れたとしたら⋯⋯⋯⋯?
「カサカサカサ⋯⋯⋯。あっ、お帰りなさーい!」
「⋯⋯⋯」
俺の名前は退害虫治。何処にでもいる一人暮らしの平凡なサラリーマンである。
梅雨真っ盛りの蒸し蒸しする仕事帰りの夜、我が家であるアパートの二階に帰って来た俺が部屋の玄関を開けると、そこにいたのは黒光りする体に手足が生えた、うつ伏せ状態の謎の女の子だった。
いやもう、これが全てにおいてやばい。何がやばいって、まず完全に不法侵入なのは間違いないのだが、この黒髪の女の子、あろうことか無駄にリアルなゴキブリの頭部を被り、無駄によくできたゴキブリの体の着ぐるみっぽい何かから手足を出して、カサカサ言いながら床を這って現れたかと思えば、その状態で顔を上げて満面の笑みで俺を出迎えたのだ。
余りにも頭の整理が追い付かない状況のせいで、俺の思考は完全に停止した。言葉を失って立ち尽くしている俺をこの女、何がそんなに面白いのか楽しそうに見つめていやがる。
「私はクロゴキブリのG子! G子ちゃんって呼んで下さいね♡」
「誰も自己紹介なんか求めてねぇよ!!」
思わずツッコミは出た。
結論から話すと、どうやらこの女はガチでゴキブリの擬人化らしい。
実は、疲労困憊だった昨日の仕事帰り、「大丈夫、大丈夫!」と言って俺に元気が出るドリンクを渡してきた謎の博士と出会った。この貰ったドリンクだが、毒々しい色をしたどう見ても危険な液体であったから、絶対飲むものかと台所の流しで捨てたのだ。
捨てられた液体は、偶然にも水道管を通って我が家への侵入を試みていたゴキブリに接触。そのゴキブリが突然変異した結果が、どうもこのG子という奴の正体らしかった。
「虫治さーん、私お腹空きましたー」
「うるさいわ! 飯を食うよりも大問題だらけでそれどころじゃないだろ!」
一先ず部屋の居間にて状況整理して約一時間。
テーブル挟んで目の前にいるこのゴキブリ女は、自分の置かれている状況に全く興味関心がなく、部屋を見回しては食べ物を探している。
相手はゴキブリなのだが、一応見た目は人の形をした女の子でもある。寂しい一人暮らしの男の部屋なんてものが綺麗に片付いているはずもなく、我が家は物やゴミが散乱してそこそこ汚い。こんなゴミ部屋を女の子に見せるというのは、ゴキブリと分かっていても流石に恥ずかしいものがある。
「それにしても、虫治さんってほんと良い部屋住んでますね~」
「はあ!? こんな汚部屋のどこがいいんだよ」
「どこがって、それはもう全部ですよ全部。こんな住み心地のいい部屋は意外と最近少なくて⋯⋯⋯、あっ髪の毛見っけ」
こんな部屋が住み心地いいわけないだろって、お前その髪の毛どうする気だあああああああっ!? 俺の毛を拾って口に運ぶんじゃねぇっ!! そいつは酒のつまみの揚げパスタじゃねぇんだぞ!!!
「う~ん、汗が染み込んだこの塩加減がクセになりますー!」
「自分で言うのもアレだがそんな汚いもの美味そうに食うんじゃねぇよ!! いくら腹が減ってるって言ったって腹壊すぞ!?」
「大丈夫ですって♪ 私達の体は例え髪の毛や埃なんかのゴミを食べても腸内バクテリアの力で栄養に変えられちゃうんです! えっへん!」
「何がえっへんだ! 汚ねぇからやめろって言ってんだろ! いやちょっと待て、それってつまり⋯⋯⋯⋯」
「つ・ま・り、部屋が汚いイコール私達にとっては食べ放題のレストランなわけです。不衛生こそ私達の好物件なので、虫治さんの部屋はゴキブリ界隈のマイベストホームなのです!」
「なん、だと⋯⋯⋯!?」
俺は余りにもゴキブリという奴に無知だったのだ。通りで部屋が汚くなってからというもの、部屋の隅で何匹もコソコソしているわけだ。この前なんか、ふと天井を見上げたら二匹もいたぞ。
言われてみれば、昔お袋に「掃除しないと虫が湧くわよ」と怒られた事があったな⋯⋯⋯。あれって迷信の類じゃなかったんだ⋯⋯⋯。
「だったら部屋をこれでもかってくらい綺麗にするしかないな。だがその前に⋯⋯⋯」
「?」
「やっぱりゴキブリだって分かった以上は生かしておけねぇ! ここで死んでもらう!」
「ちょっ、待って待って虫治さん! 頼みますからゴ〇ジェット向けないで!」
「言っておくが、俺の家は代々害虫駆除専門業者でな。害虫退治を生業にした虫の殺し屋なのさ」
「いや意味わかんないです! あれ、でも虫治さん業者じゃないし私達の事も全然詳しくないですよね?」
「⋯⋯⋯お前に分かるか。実家が害虫駆除の業者だからって女子に引かれて全くモテない学生生活を過ごし、それで家業を継ぐものかと家を飛び出して上京した俺の気持ちが、お前なんかに分かってたまるかああああああっ!!!」
「なんか逆上してる!?」
「駆除の仕事をやったことはないが、親父の血が受け継がれてるお陰で家に出た害虫は一匹も逃したことがない。俺に出会ったのが運の尽きと諦めるがいい!!」
ちなみに俺の母親は、うちの家業とは関係ない一般人だったんだが、気が付いたら親父と結婚しちまって俺が生まれたらしい。
虫嫌いなのに親父と結婚した俺の母親曰く、「酒の力って恐い⋯⋯⋯」だそうだ。
「ふっふっふっ⋯⋯⋯。虫治さん、一つ忘れてやしませんか?」
「なに?」
「私、羽があるんですよ?」
「!!」
そっ、そうか! ゴキブリは暑くてじめじめする時期は空を飛べるって、子供の時に親父が教えてくれた。今は梅雨だから湿度が高いし、今日はやたらと暑いときてる。このゴキブリ女、まさか飛ぶ気か!?
「湿度良好、気温高し! 私にとっては最高のコンディションです。ゴ〇ジェットなんて、私の華麗なアクロバット軌道で躱して見せますとも」
「こっ、こいつ! 飛ぶのか!?」
「後悔しても遅いですよ! G子、いっきまーす!!」
羽を広げてフライトモードへと移行し、羽を振動させて羽搏かせる。蝉が飛ぶのと似たような音が部屋鳴り響き、ゴキブリ女が今、無限の彼方へさあ行くぞと―――――。
「う~~~~んっ!!」
「⋯⋯⋯⋯」
羽はばたついているが、床から体が一ミリも浮く事はなかった。
いや、そうなのだ。落ち着いて考えれば直ぐに分かる事なのだ。こんなデカく成長したゴキブリが、そう簡単に浮くはずがないと⋯⋯⋯⋯。
「う~~~~~~~~~んっ!!! 飛~べ~な~い~⋯⋯⋯⋯⋯!!」
「⋯⋯⋯⋯えーと、後悔がなんだって?」
「あっ⋯⋯⋯、あはははっ⋯⋯⋯⋯。さっきのはほんの冗談――――」
「死ね」
「ぎゃあああああああああああっ!!! くっ、苦じいいいいいいいいよおおおおおおおっ!!!」
俺は容赦なく、必殺の武器ゴ〇ジェットのトリガーを引き絞り、一缶が空になるまで吹き付けるのだった。
戦闘の結果、やはりデカくなっただけあってゴ〇ジェットでは死ななかった。そうは言っても一缶丸々食らわせてやったから、今はこいつも白目を剥いてぴくぴくと痙攣している。一先ず、大人しくはさせたと言ったところだろう。
しかし、害虫の擬人化とはいえ、見た目は一応人間ではある。本気で殺して外に死骸を捨てようものなら、殺人と死体遺棄の容疑をかけれてもおかしくはない。
結局、俺に残された選択肢は二つ。何とかして生きたままこいつを家から追い出すか、諦めて共同生活をするか。この二択しかない。
「腹減ったな⋯⋯⋯」
帰ってきて早々こんな感じで、ついさっきまでゴ〇ジェット片手に死闘を繰り広げていたおかげで、夕飯がまだだった。通りでお腹が空くわけだ。
「ちゅ、虫治さん⋯⋯⋯⋯。わっ、私にもお恵みを⋯⋯⋯⋯」
「お前、そんな状態でも腹は空くのかよ」
流石ゴキブリの生命力と言ったところか、瀕死状態でも尚食べ物を求めるその姿に、こうなると感心すら覚える。
こんな奴、俺の食べ残しかその辺のゴミでも食わせとけば大丈夫だろうと思ったが、汚い部屋でゴミを食う女の図を想像してしまうと、俺の良心が揺れ動いてしまった。
仕方なく俺は、冷凍庫から冷凍チャーハンを一袋分取り出して、皿を二つ用意する。皿に凍ったチャーハンを半々に盛って、順番に電子レンジで解凍した。
そうして俺が出来上がったチャーハンを奴のもとまで持ってくると、いつの間にか瀕死状態から回復していた奴が、黒いキャップを手にして何やら口をもごもごさせている。
「おっ、お前まさか⋯⋯⋯⋯!」
「これ中々イケますね~。プラの容器に入ってたから取り出すの不便でしたけど」
よく見ると、手に持った黒キャップの上を無理矢理剥がして、中の餌だけを取り出した後がある。というよりこいつ、ゴ〇ジェットは知ってるくせにブ〇ックキャップは知らないのか?
「それ、俺が昨日仕掛けたブ〇ックキャップだぞ」
「?」
「ゴキブリ駆除用の餌。食うと死ぬ」
「!?」
いやそんな、この世の終わりみたいな絶望的表情をされても困る。お前が勝手に拾い食いなんかするからだろ。
「で、でも私には薬物耐性と無敵の腸内バクテリアが――――」
「その餌がどうやってゴキブリを殺すか知ってるか?」
「しっ、知らないです⋯⋯⋯⋯」
「そいつは遅延性の猛毒でな、食ったゴキブリが巣に戻ったが最後、苦しみのた打ち回ってお陀仏だ。お前ら害虫の薬物への抵抗もバクテリアもこいつには敵わない。ついでに、食った奴が残した糞や死骸を仲間のゴキブリが食うと、連鎖式で皆殺しにする」
「ぶっ、文明の利器って凄い!!」
ゴキブリを殺す事に特化した設置式駆除兵器の恐ろしさを知って、恐怖で驚き飛び上がって涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしているのには、流石の俺も同情を覚えはした。恨むなら、俺の部屋に無断侵入しまくったお前の同胞を恨め。
「こうしちゃいられないです!! 虫治さんお手洗い借りまーーーーーす!!!」
「あっ、おい! ってかなんでお前うちのトイレの場所知ってんだ!?」
ゴキブリ女が最速で最短で真っ直ぐに一直線にトイレに駆け込んでいった。遅れて様子を見に行くと、便器に顔を突っ込んで必死に嘔吐中な奴を見つけた。
「おろろろろろろろろろーー⋯⋯⋯!! ぎぼちわるいよおおおおー⋯⋯⋯⋯」
「おっ、おい大丈夫か? もう毒が効いてきたのか?」
「ちっ、違いますー⋯⋯⋯⋯。口に手を突っ込んで無理矢理吐き出してるんですーー⋯⋯⋯⋯⋯」
「そこまですんのか。まったく、しょうがない奴だな」
「だっでえええー⋯⋯⋯、吐かないと仲間も死んじゃいますー⋯⋯⋯⋯」
「これに懲りたらもう拾い食いすんなよ。ほら、背中さすってやるから全部吐け」
「ありがどうございまずー⋯⋯⋯⋯。おろろろろろろろっ!!」
自分より仲間の心配か。害虫ってところは正直アレだが、そんなに悪い奴じゃないらしい。
仕方ない。こうなっちまったら、暫くはうちに置いてやる事にしよう。こんな馬鹿、外に放り出したらまた毒を拾い食いして死にかねない。
「はあ、はあ、はあ⋯⋯⋯⋯。虫治さん、吐いたら余計にお腹空きました⋯⋯⋯⋯」
「その食い意地だけはなんとかならんのか」
「だって⋯⋯⋯。私達は卵を産むために栄養をつける義務が⋯⋯⋯⋯、うっぷ⋯⋯⋯!」
「いいから吐き終わるまで喋るな。回復したら飯食わしてやっから」
実はブ〇ックキャップにはまだ効果があって、食べた雌のゴキブリの体内にある卵ごと殺しちゃうんだが、色々と可哀想だから黙っておこう⋯⋯⋯。
「虫治さん!! 私のこと、一体どう思ってるんですか!?」
「あん? どうってなんだよ」
「なんだよじゃありませんよ! 同棲始めてそろそろ半月なのに、未だに名前すら呼んでくれないぞんざいな扱いに文句があるんです!」
「なにが同棲だ阿保。俺達付き合ってもねぇだろうが」
何だかんだとあって、俺の家で暮らす事になったこの人型害虫生物との共同生活を始めて、今日で半月くらいになる。
今ではすっかりを部屋を綺麗にして、ゴキブリ一匹現れないよう毎日に掃除している。それがこいつは不満らしいが、俺はもう二度とこいつ並みのデカい奴に会いたくない。ついでに言えば、ゴ〇ジェットとブ〇ックキャップは三倍に増やした。
「ねぇ~、虫治さ~ん。スマホばっか見てないで、そろそろ私と合体してくださ~い」
「うっせえ、うっせえ、うっせえわ。発情期だか知らないが、たまの休みくらいのんびりさせろ」
「休みなら尚更交尾しましょうよ~。雌はそれが仕事なんですー」
「誰がお前みたいなテ〇フォーマーと寝るか」
「テ〇フォーマーとは失敬な! 私をあんな筋肉モリモリマッチョマンの変態と一緒にしないでください!」
繁殖とは即ち、自然界の生き物の本能である。人型になってもその本能は変わらないらしく、種の存続のために交尾を求めてくるのが鬱陶しいと思う休日の昼下がり。こいつが家に居つくようになってからというもの、毎日無駄にうるさくなってしまった。
それより、こいつとの交尾合体は断固拒否する。最近ゴキブリの生態について勉強して知ったのだが、雌が一度に産む卵の数はニ十個近くになるらしい。「一匹見つけたら二十匹いると思え」という言葉は、この繁殖力からきているのだろう。
こんなデカくて近所迷惑な奴を更にニ十匹追加とか、想像するだけでもぞっとする。もし万が一気の迷いでこいつと合体してしまったら、部屋中に仕掛けたブ〇ックキャップの餌をこいつの口に突っ込むしかねぇ。
「やっぱり駆除するか。家の中で勝手に大繁殖しても困るしな」
「ひいいいっ!! 殺さないでください! 私達クロはチャバネよりはマシなんですから許して!」
「同じゴキブリなんだから変わらんだろ。見た目キモくて数がいて素早いってのは共通だろうが」
「いや、クロよりチャバネの方が人間にとっては害悪なんですよ。下手すると業者呼ぶレベルなんですから」
それお前が言っていい話なのか? 一応同じ仲間だろ。
後から調べて知ったんだが、こいつの言うようにチャバネの方がよっぽど危険だった。詳しく話すとグロいし汚いので、ここでは詳細を省くが⋯⋯⋯⋯。
「っていうか私達、人間に嫌われるような害を与えていないと思うんですよ」
「そうか?」
「そうですよ。だって私達、餌を求めて外や家の中を徘徊してるだけで、オオスズメバチみたいに毒針で人間を襲ったり、セアカゴケグモみたいな有毒害虫じゃないんですよ? 何もしてないのに一方的に恐がられて殺されちゃ、命がいくつあっても足りないです」
成程、言われてみれば確かにその通りだ。
連中からしたら俺達なんて、罪のない生き物の命を奪う冷酷な殺戮者と言ったところだろう。確かに奴らは気色の悪い外見をしているだけで、人間を殺せるオオスズメバチに比べれば遥かにマシだ。
「⋯⋯⋯でもお前ら、分類的には不快害虫になってるぞ」
「!!」
「分からない事はグー〇ル先生が直ぐ教えてくれるな。えーと何々⋯⋯⋯、ゴキブリは便所とかの汚いところを通って病原菌を運んでくるのか。この時点で既に害虫じゃん」
「うぐっ!!」
「おまけに糞をまき散らして家の中を臭くするとか書いてあるぞ。しかもお前、出した糞には仲間を呼ぶ効果もあるらしいじゃねぇか。これでよく人間に害を与えないって言えたな」
「ぐはっ!!」
このように、人間を傷付ける事はないが、人間を困らせる事はしているようだ。
グー〇ル先生が「もっと知りたいですか?」と言わんばかりに情報をくれるから詳しく調べると、驚くべき事にペットの爬虫類飼育用にア〇ゾンでゴキブリを買う事ができるようだ。最近はネットで何でも買えると言われているが、どうやら嘘じゃないらしい。
「⋯⋯⋯と言うわけで、お前は間違いなく害虫だ。人間に殺されても文句は言えないだろ」
「そっ、そんなことないですもん! 私害虫じゃないもん!」
「害虫じゃないなら一体何だってんだ? やっぱりテ〇フォーマーか?」
「だーかーらー!! あの黒光りマッチョと一緒にしないでくださいって!」
「じゃあⅯ宇〇ハンター星〇人?」
「だから違うって⋯⋯⋯、マニアック過ぎませんかそれ!?」
これだけ言っても尚、自分を害虫と認めないこいつは、ああでもないこうでもないと抵抗した挙句、何かを閃いて高笑いし、部屋で寝転がる俺の前でガ〇ナックス立ちを決めた。
「以前までの私はただのクロゴキブリ。しかし、今の私は昆虫ではなく人間です。よって⋯⋯⋯!!」
「よって?」
「よって私は、害虫ではなく害人!! これからは私を、害人G子ちゃんと呼ぶように!!」
「それって、結局害を与える存在って認めてるだろ」
という俺の言葉は奴の耳に入っていないらしく、勝ったと言わんばかりに高笑いを続けるこいつに、俺は呆れを通り越して感心すら覚え始めていた。
どうしたらそんなにポジティブでいられるのか? 流石、人類が絶滅しても生き残る生物と言われてるだけある。瞳をキラキラさせてご機嫌なこいつを見ていると、こんな生きにくいクソッタレ人間社会でも、なんだか少し気持ちが明るくなりそうだ。
「⋯⋯⋯あんま大声出すなよG子。近所迷惑になるだろ」
「あっ、すいません⋯⋯⋯。ってあれ、今私のこと名前で呼びませんでした!?」
「⋯⋯⋯気のせいだろ」
「絶対呼びました!! 初めて名前で呼んでくれて超嬉しいです!! ほらもう一回、今度はちゃん付けでお願いします!!」
恥ずかしいから絶対呼んでやらん。
平凡な俺の一人暮らしは、人型に進化した一匹の雌ゴキブリのお陰で一変した。
今までは寂しい一人暮らしで、仕事から家に帰っても、飯を食ってシャワーを浴び、とりあえずテレビを観て寝るだけの毎日。休日なんか、基本は寝てるかぼーっとしてるかのどちらかだった。
それが今じゃ、無駄に騒がしいゴキブリ女のせいで、毎日ツッコミが絶えない賑やかな日々だ。あの退屈だった日々は消え失せたが、今はそれが逆に恋しくなっている。そう思えるくらい、ガイジン「G子」との共同生活は、ある意味刺激的で大変な毎日だ。
まあ、慣れてくるとこれも悪くない。最初は害虫なんだし殺してやろうと思ったが、今ではG子も我が家の住人だ。
その住人だが、お土産になんとケーキを買って来いと駄々を捏ねた。どうも、テレビでやっていた評判の店のケーキが食べたいらしい。ゴキブリがテレビに影響されるとか意味が分からんと思いながらも、余りにも駄々を捏ねて聞かないから、仕事の帰りに買ってきてやろうとは思って、今がその帰りである。
ちゃんとケーキは買ったが、初めは「あんな奴にケーキなんてもったいないからドッグフードでもいいだろ」と思ってペットショップに行ったのだが、人間の飯よりも高価なペットの餌に愕然となり、人生が辛く感じてやっぱりケーキにした。
このケーキは、俺の退屈だった毎日を変えてくれた事へのご褒美という事にしてやろう。給料日前だったから、スーパーで買った半額の安いケーキではあるが⋯⋯⋯。
まあいいさ、どうせゴキに味の差なんて分からんだろ。こうやってケーキを買ってきた俺を、満面の笑みで出迎えてくれるだろうG子の姿を想像しながら、毎日が賑やかな我が家へと帰宅した。
するとどうだ。G子は笑みを浮かべるどころか、命の危機に瀕した必死な顔で、恐怖に駆られて泣き叫んでいるではないか。何故そうなっているのかと言えば、奴は今、人の形をした雌の虫の脚に拘束され、今まさに食べられようとしていたのである。
「ぎゃあああああああああああああああっ!!! 殺されるううううううううううううっ!!!」
G子を拘束する敵は、長い茶色の髪をした綺麗な女だが、見た目はG子同様の虫だった。人間の手足以外に、虫と思われる足が八本ある。この八本の足がG子の体をがっしり掴んで離さない。
「ちゅ、虫治さあああああああああああああああああんっ!!! だずげでぐだざいよおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!」
「今度は一体何だってんだ⋯⋯⋯」
取り敢えず、相手はG子と同じく突然変異なのだろうと思って、こんな時頼りになるグー〇ル先生をスマホで開き、「ゴキブリ 八本足 捕食」と検索をかけてみる。するとまあ、八本足のゴキブリハンターの情報が即座に出てきた。
「成程、アシダカグモっていうのか」
アシダカグモとは、滅茶苦茶デカい蜘蛛として定評のある、別名「軍曹」と呼ばれている虫である。主にゴキブリなどを餌としており、餌を探して家に侵入しては、家の中のゴキブリを残らず食らい尽くすと言われ、その大きさと見た目から人間を死ぬほどビビらせる存在だ。
この見た目のせいで不快害虫扱いだが、他の害虫を捕食してくれる益虫である。つまり、家の中にこいつが現れたら、例え不気味で恐ろしくとも殺してはいけないのだ。さもなくばその家は、天敵を失った害虫達の楽園と化すだろう。
しかし、これは一体どうすべきか。このままだとG子は奴の餌食になってしまうから、一応助けようと思う気持ちはある。ただ、「人型になったアシダカグモって人間も襲うんじゃね?」と思うと、迂闊に手は出せない。
因みに、実際のアシダカグモは人間を恐がる人見知りさんのため、突然襲ってくる事はない。ついでに言えば、蜘蛛の糸を張ったりすることもないため、家の中に与える被害は皆無だ。
「ひっ、ひいいいいいいいいいいっ!! 私なんか食べても美味しくないですから命だけはお助けええええええええええっ!!」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
どうやらこの蜘蛛女、相当な無口で無反応で無表情の様だ。俺が現れても顔色一つ変えやしない。死んだ魚の目でG子を見下ろし、口を開いて牙を露わにする。
「虫治さああああああんっ!! スマホ見てないで早く助けて下さいよおおおおおおおおっ!! アシダカグモがどうやって獲物食べるか知ってますか!?」
「知らん」
「こいつらは獲物に噛み付いて体に消化系の毒を流し込んで体内をドロドロの液状にしてからマッ〇シェイク食べるみたいにチューチューするんですよおおおおおおおおおおおっ!!! 私のナイスバディが激痩せしちゃってもいいんですか!?」
「良かったな、いいダイエット法が見つかって」
「痩せるどころか死んじゃうって言ってんでしょうがあああああああああああああっ!!!」
仕方ない。そんなグロテスクな光景を見せられちゃ溜まったもんじゃないから、今回だけは助けてやろうと考えた瞬間が俺にもあった。改めて部屋を見回して、開きっぱなしの冷蔵庫を見つけるまでは⋯⋯⋯。
よく見れば食べ散らかした後で、冷蔵庫に入れていた食べ物は全滅していた。おまけで最悪な事に、こいつ居間にデカいのをひり出して放置してやがった。ゴキの習性なのは分かってるが、出すならトイレに行けとあれ程言ってあったのに⋯⋯⋯。
うん、よく分かった。ちゃんと理解したぞ。
やはり害虫と人間は相容れないのだ。あっ、でも害虫じゃなくて害人だったか? もうどっちでもいいやそんな事。それよりこの糞をどうやって掃除するかの方が問題だ。頭痛くなってきた。
「やい、そこの蜘蛛子さん」
「⋯⋯⋯⋯」
「遠慮はいらない。残さず召し上がれ」
「いただきます⋯⋯⋯」
「虫治さああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!?!?!?」
俺とガイジンG子の異種族生活。
まだまだ始まったばかりのこの奇妙な生活は、今日が最終日になりそうだ。