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Bitter Kiss  作者: 海堂莉子
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第70話

「あっ」

 私は驚きで短い声を上げた、そしてその後二人に微笑みかけた。

 そこに立っていたのは、恵人と翠だった。

 二人の表情は、全く逆だった。恵人は、久しぶりの再会を本当に嬉しそうに微笑んでいた。翠は、緊張したように小さくなって下を向いていた。

「恵人、翠……」

「よう、久しぶりだな。さっきおばあさんに聞いたよ。妊娠してたんだな。圭の子だろ? 俺を騙しやがったな、何がおばあさんが具合が悪いだよ。お前がこっちに来たのはそれが原因だったんだろ?」

 久しぶりの恵人の口の悪さに苦笑した。

「うん、ごめん。でも、言わない方がいいと思ったから……」

 二人が一緒に来たのを見て、この子が圭の子であると認めてもいいんだろうと判断した。

 それにしても本当に久しぶりの再会。恵人とは、仕事を辞めるまでのぎりぎりまで、一緒に働いていたからそこまでの久しぶり感はないのだが、翠とは、あの恵人を返すから圭を頂戴と言われた時以来なので、随分長い間会っていなかったように思える。

「中々来れなくて悪かったな。翠を納得させるのに思いのほか時間かかっちゃったんだ」

 恵人、頑張ったんだね。本当に、良かった。

「良かったね、本当に良かった」

 私は、本当に自分のことのように嬉しかった。

「翠がお前に話したい事があるんだってさ。聞いてやってくれるか?」

「うん、勿論」

「じゃあ、俺その辺散歩して来るからさ」

 恵人はそう言った後、励ますように翠の頭をポンと一回叩いて颯爽と歩き去った。

 翠は、私達が出会った高校生の時のように心細げに立っていた。

「座る?」

 私が翠に問いかけるとそれに頷いて、腰を下ろした。

 近くに野球場があって、少年野球団の子供たちの元気のよい声が聞こえてくる。ああ、今日は日曜日だった。子供達がここで野球の練習をするのは、日曜日だけ。仕事をしないで過ごす日々は、曜日感覚を狂わせる。

 私は翠が話し始めるまでひたすら待った。

「……ごめんなさい」

 小さな可愛らしい声が私の耳に届いた。そういえば、今日初めて翠の声を聞いた。

 翠は何度もごめんなさいを繰り返した。私は壊れたように言い続ける翠をそっと抱き締めた。驚きで言葉が止まったのを見て、私は口を開いた。

「もう、いいよ。謝らないで。でも、話してくれるでしょ?」

 翠は頷くと小さな声で話し始めた。私はそっと抱き締めた手を放し、正面に流れる川を見ながら翠の話を聞いた。

「あの頃、私は恵人に裏切られたと思った。私、ずっと疑ってたの。本当はとっくに記憶なんて戻っていて、ゆうと一緒になりたくて演技してたんじゃないかって。その疑念がどんどん強くなって限界を感じていた時、会社で恵人がゆうを抱き締めているのを見た。その瞬間に私、自分でも訳解らなくなってゆうを責めた。解ってたんだよ。ゆうが悪いんじゃないって。だけど、ゆうを憎いってあの時、そう思っちゃったの」

 聞いていて嬉しくなる話じゃない。それでも、私は一語一句聞き洩らさないように注意深く聞いていた。

「そしたら、止まらなくなってしまったの。自分でも驚くほど、恨みつらみが口から出て来た。あの頃、本当にゆうが憎くて憎くて仕方がなかった。私を不幸にしたゆうに復讐しようと思った。自分が間違っているとは思わなかった。全てゆうが私の物を奪ったのがいけないんだから、当然の報いだってそう思ってた。ゆうの一番大事なもの、矢田さんを奪ってやろうって思った。矢田さんに近付いて、誘惑した。だけど、いくら私が誘惑しても矢田さんはのらりくらりと私に失礼のない態度でそれをかわして少しもなびくことはなかった。それどころか、いつも矢田さんの口から出るのはゆうのことばかり。だから、馬鹿馬鹿しくなって誘惑するのは止めた」

 やっぱり私が翠と圭を町で見かけたのは、圭を誘惑する為だったんだ。

 きっと圭が私にそのことを言わなかったのは、私を傷つけたくなかったからなんだ。親友と思っている翠が自分を誘惑していると知ったら、私が傷つくと思ったから。

「だから、私、矢田さんを脅したの。私と付き合うふりをしてゆうと別れなさいって。そうじゃなきゃ私、ゆうに何するか解らないわよって。サバイバルナイフを取り出して、これでゆうを殺しに行くって言った。本気だったのよ。ゆうを殺して、私も死のうと思った。その本気が矢田さんには解ったのよ。大事な恋人を殺すと言われたら誰だって従わないわけにはいかないわよね。漸く矢田さんは折れたわ。私は、計画を練る為に何度か矢田さんを呼び出した。矢田さんはその度に、私にこんな事は止めようと説得した。だけど、矢田さんが説得すればするほど、ゆうへの憎しみが増していった。もうそうなると、私に矢田さんの説得なんてまるで聞こえなかった。そしてあの日、私はゆうに憎しみをぶつけ、二人を別れさせた。店を出た後、やっとこれで復習が出来たと喜ぶ筈だった。なのに、感じるのは虚しさだけだった。ゆうが苦しめば、私の苦しみから解放されるんだと思っていた。やってしまった後に自分がしたことの重大さに気付いた。そして、私の苦しみから解放されるどころか、その苦しみにゆうの苦しみも一緒に圧し掛かって来た。だけど、意地になってしまって身動きがとれなくなった。その時にはあんなに執拗だったゆうへの憎しみはなくなっていた。自己嫌悪と後悔だけが残った……」

 翠が圭をナイフを使って脅したなんて、とてもじゃないが信じられなかった。

 私をそこまで執拗に憎まなくてはならないほどの、恵人への愛。私がもっと早くに恵人を忘れられていたら、恵人がもっと早く私を忘れていたら、こんなにも翠を追いつめなくてすんだのに。

「ごめんなさい。謝って許してくれるなんて思ってない。だけど、どうしても会って謝りたかった。私と矢田さんは何もなかったの。本当よ。私が嘘をつくように強要したの。ごめんなさい、ごめんなさい」

 翠の瞳からは、大粒の涙が滝のように流れ出ている。私は、ポケットからハンカチを取り出すとそれを翠の前に差し出した。

 翠は、ありがとと、鼻声を出しそれを受け取った。

「翠、もういいよ。私ね、別れるって言われたけど、圭が私を好きでいてくれていること解ってたんだよ。ずっと信じてるんだ。私の好きって気持ちもね、ずっと会っていないけど、全然変わらないの」

 涙目で私を見つめる翠に、私は微笑みかけた。

「今、私達が離れているのは凄く寂しいけど、いつかまた一緒に歩ける日が来るって信じてるんだよ」

「矢田さん、私と恵人を仲直りさせてくれたんだよ。何度も話し合いの場所を作ってくれた。私、凄く感謝してるんだ。私達のことが片付いたら、ゆうを迎えに行くって矢田さん言ってたのよ。だけど……」

 少し涙もおさまりかけていた翠だったが、再び激しく泣き始めた。

 けど……、一体圭に何があったというんだろう。

 話の先が気になったが、翠は涙でもはや話せるどころではない。

「その先は俺が話す」

 不意に背後から恵人の声が降って来て、驚いて体がびくっとなった。

 恵人は、半ば無理やり私と翠の間に入って来たので、私は少し間を譲った。

 恵人の左手は翠の頭を優しく撫で、慰めている。顔は私の方を向き、神妙な表情を浮かべた。

「あいつな、俺達が仲直りするのを見た後、姿を消したんだ」

 圭が姿を消した?

「健司兄さんに聞いたら、急にイギリスの支社に転勤になったそうなんだ。俺達は自分たちのことで手一杯で、圭に挨拶することも出来なかった。一応2年ってことになってる。でも、それ以上になることもあるそうなんだ」

 圭は、日本にいない。

 今までは、会いに行こうと思えば行ける距離にいた。その圭が今日本にいない。イギリス……。

 子供がいる私には、自ら会いに行ける距離じゃない。

 恵人が私にメモ用紙を差し出した。そこには英語と数字が記してあった。圭のイギリスのアパートの住所と電話番号であることがすぐに解った。

 私はそれを受け取ることを躊躇した。圭は私に会わずにイギリスに行った。それが、圭の答えなんじゃないか。私が連絡を取ってもいいのだろうか。恵人の手の中にあるその紙を見つめながら、思案していると、恵人に強引に手にじ込められた。私はそれを恵人に返すでもなく、手の中のそれをただ見つめることしか出来なかった。


ここまでお付き合い頂きまして有難うございます。

次話が最終話となります。最後までお付き合い頂けたら光栄です。

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