第69話
その週は滞りなく過ぎ、日曜日、引越し屋が来て、部屋の荷物を運び出していった。
荷物は一先ず実家に運ばれることになっている。引越し屋さんのお兄さんに乗って行きますかと聞かれたが、それをやんわりと断った。
一人になってこの部屋ときちんとお別れがしたかった。
荷物を積んだトラックを見送り、部屋に戻ろうとした時、ふと視線に気づいて視線の先を探した。
「未知……」
そこに立っていたのは未知だった。
怒っているような、むすっとした顔をこちらに向けて立っていた。未知からメールを貰っていた。
『お兄ちゃんと別れたってどういうこと?』
そのメールにどう返すべきか考えあぐねていた私は結局保留のまま放置してしまい、無視してしまった形になっていた。
出来ればその辺は、私に聞かずに兄である圭に聞いて貰いたかった。未知がそこを動かないようだったので、私は自分の部屋に戻った。未知が追って来ることはなかった。
私は何もなくなった殺風景な部屋に一人座り、この部屋であった出来事を反芻していた。この部屋での想い出の約9割が圭とのもので、失敗した想い出も――圭の腕の中で泣き疲れてうっかり眠ってしまった事――、楽しかった想い出も――圭と話した事や愛を確かめ合った事――、切なかった想い出も――圭が翠に会っていたのに嘘をついていた事――、それ以外にも沢山の想い出がこの部屋には詰まっていた。
それを全て忘れてしまわないように心の宝箱に大事にしまって鍵をかけた。この想い出達は私が鍵を失くしさえしなければ、いつでも取り出す事が出来る。
私は硬いフローリングに正座をし、頭を下げた。
短い間でしたが、お世話になりました。
そう心の中で呟くと立ち上がり、荷物を持って部屋を後にした。
1階に住んでいる大家さんに、お世話になった御礼と気持ばかりの品物を渡した。
大家さんに温かく見送られ、私はアパートを出た。
驚いた事に未知は、先ほどと同じ場所で待っていた。一瞬怯んだが、私は未知に声をかけずに歩きだした。
「待って! ゆうゆ、待ちなさい!!!」
未知が私に駆け寄り、バックを勢い良く引っ張った。その反動でバックは地面に落ちてしまった。更に、運の悪いことに私はバックのチャックをきちんと閉め忘れていたらしく、バックの中身が無残にも散らばってしまった。
私は、散らばった物を見てハッとした。母子手帳が財布の下で見え隠れしていた。私はしゃがみ込んで何とかそれを未知に見られないように、さり気なく隠そうとした。が、未知にそれを敢え無く攫われてしまった。
「ゆうゆ、何なのこれ!?」
未知が母子手帳を見つめながら信じられないというように首を振った。
「ゆうゆ。あんた妊振してるのね?」
観念した私は、黙って頷いた。母子手帳を見られてしまったらもう誤魔化しようがない。母子手帳の表紙には、母の名前を書くところがあり、しっかりと私の名前が記されているのだ。
「父親は、お兄ちゃんでしょ?」
「うん。……未知、お願い。圭には黙っていて欲しいの」
私は必死の思いで未知にしがみついた。未知はまだ信じられないのか、手帳をぼんやりと見ていた。
「ええっ、お兄ちゃん知らないの?」
弾かれたように我に返った未知は、それこそ信じられないと言わんばかりに叫んだ。
「圭と私が別れたって聞いたんでしょ? だから、言わない。圭に迷惑はかけられないから……」
「お兄ちゃん、この一週間ずっと変だった。なんて言うのかな、そうまるで死んだ魚のようだった。先週の土曜日が一番酷かった。朝は割りと機嫌が良かったから、ゆうゆとデートだと思ったんだ。だけど、帰って来たら死んだ魚になってて、私その時、ゆうゆと喧嘩でもしたんだろうって思ったんだ。それからゆうゆは一度も家に来ないし、お兄ちゃんがどこかに出かける様子もない。流石におかしいと思って問い詰めたの。そしたら、別れたっていうでしょ。だから、私聞きたかったの。どうして、お兄ちゃんをフったりしたの?」
未知の話で最も驚いたのは、圭も私と同様に死んだ魚になっていたということ。そして、私が圭に最後に感じたことは、やはりあっていたのだと確信した。圭は、私を愛してくれているんだ。私と変わらぬ気持を持っていてくれているんだ。
「フラれたのは私の方なんだよ、未知。翠と付き合うから別れるって言われたの。でもね、私それ信じてないの。それには何か訳があるんだって思ってる。別れなければならない本当の訳がきっとあるんだと思う。圭は、まだ私を愛してくれているって信じてる」
「お兄ちゃんはね、ゆうゆが大好きなんだよ。それは絶対なんだよ。小さい頃から近くで見ていた私が言うんだから、間違いない。翠さんと付き合うなんて絶対嘘だよ」
未知の力の籠った声が可笑しくて、クスッと笑った。
「ありがとう、未知。そう言って貰えると嬉しいよ。自信が出てくる」
「翠さんと付き合うなんて絶対ない。うん、ない。ないない」
何か根拠があっていっているのかは解らないが、未知の言葉は私を勇気づけた。
「それが嘘かはいいとして、やっぱり翠が何か関わっているのは確かなんだ」
私は、翠と恵人のことを大まかに話した。ここのところごたごたしていたので、未知には話していなかったのだ。
「うん、確実に何かあるね。翠さんがネックなんだね。あの人がきっと近藤君の所に戻ればことも納まるんじゃないかな」
「そうなのかもしれない。すぐには無理かもしれないけど、きっと翠は恵人のことが今でも大好きだと思うから、大丈夫。そう信じたい。私も本当ならそれを最後まで見届けたいけど、お腹の赤ちゃんのことを考えると、母体がストレスに晒されるのは良くないと思うんだ。圭が近くにいるのに会えないのも辛い。だから、ここから出ることを決めたの」
「ゆうゆ……」
「未知、圭に伝言頼んでもいいかな?」
未知はこくりと頷いた。
「私は圭を愛してる。どんな事があっても、一生。私を信じて。そう伝えて欲しい。引っ越したことも妊娠していることも黙っていて欲しいの。お願い」
未知は少し不満げな顔をした。そういえば、綾もこんな顔していたっけ。
「解った、今は言わない。だけど、近藤君と翠さんが元に戻ったら言ってもいいよね」
「うん。でも、もし圭がもう私のことを忘れているんだったら、言わないで欲しい」
もしその時に他に好きな人がいたのなら、私が妊振していることは決して言わない方がいいと思うんだ。
「解った。でも、三つ条件がある。一つ目は、私には引っ越し先を教えること。二つ目は、体の状態とかどんな生活をしているのか知りたいからメールで知らせること。最後に、私は会いに行ってもいいよね?」
最後の条件だけが疑問形になっていたのが可笑しかった。私は笑いながらこくこくと頷いた。
「ゆうゆ、忘れてるみたいだけど、その子がゆうゆとお兄ちゃんの子なら私にとっては、甥か姪なんだからね。血が繋がってるんだからね。戸籍上何の繋がりがなくたって私は家族だと思ってるんだからね。何でも力になるから」
本当に、私は忘れていたんだ。
この子と未知は血が繋がってるんだ。家族……。未知の言ってくれた事が、言いようのないほど嬉しかった。
それからあっという間に時は流れた。
私は今、お腹の赤ちゃんと共に千葉のおばあちゃんの家でのんびりと暮している。
仕事を辞めてからすぐにこちらに移り住み、クリスマスも、新年もおばあちゃんと一緒に迎え、長く感じた冬は終りを告げ、それと入れ替わりで春が訪れた。
私のお腹の赤ちゃんは、元気で昼夜問わずお腹を蹴ってくる。
温かくなり、私は一人で散歩に出るのが日課になっていた。一人で歩きながら想い出すのは圭のこと。これも日課の一つになっていた。季節が過ぎても私の気持ちが変わることはなかった。
こっちに来てから、綾と新さん、未知が何度も――結構高い頻度で――遊びに来てくれていた。彼らは私の前で、圭の話を避けているようだ。
私は、本当は聞きたいんだけどな。私の体を心配してのことだと思う。みんな優しい。
今日は、汗ばむくらいの陽気と天気予報が言っていたので、遠出して土手の方まで来ていた。家から土手まで歩いてだいたい30分くらいの距離だろうか。ゆっくり歩くからもっとかかってしまったかもしれない。
産婦人科の医師に、なるべく体を動かすように言われていた。
土手のそこここにタンポポが咲いている。それから土筆も。土筆なんて東京では、昨今中々見られない、そんなものがここでは当たり前のように見ることが出来るのだ。わたぼうしを見つけ、しゃがんでそれを取った。体を上げようとした私の横に誰かの影が落ちた。
私は体を上げ、影の持ち主に視線を向けた。
「あっ」