第68話
「恵人、もう腕放して。歩けるから」
恵人は私の腕を放すと憮然とした態度で歩き始めた。
「何食う?」
憮然とした態度を崩さず、そう問われた。
「蕎麦とか?」
よしと言うと蕎麦や目指して歩き始めた。この界隈で蕎麦屋と言ったら皆同じ所に行く。そこが一番安くて、美味しいからだ。
店に着くと私は山菜うどんを、恵人はざる蕎麦を注文した。
恵人のむすっとした顔が私を捉え、鋭い目で睨みつけてくる。
「で、何でだ?」
最初から直球勝負なようです。
「えっと、ほら、千葉のおばあちゃんがね、最近具合が悪くって誰か看病に行こうってことになってね。家族会議の結果、私が行く事になったんだよ、うん」
おばあちゃん、ごめんなさい。嘘吐いてごめんね、許してね、と私は心の中で懺悔した。恐らくおばあちゃんなら、笑って許してくれる筈。
「それ本当か?」
恵人が疑わしいという目で私を見つめる。私は冷や汗ものだったが、ポーカーフェイスを決め込んで、涼しい顔ですましていた。
「私さ、一昨日訳あって圭に会ったんだ。それでね、解ったんだ。何があったのかは解らないけど、圭は私を変わらずに想ってくれてる。でもね、そう解ってはいても、圭と翠が二人でいる所は見たくない。だから、自分から千葉に行くって言ったの。今はここから離れたい。別に千葉に行ったからといって私の気持ちが変わったって事ではないの。圭のことは信じてる。でも、辛い。だから……」
恵人は黙って私を見ていた。
「俺を好きだって言ってた時は、お前ずっと傍にいたのにな。俺なんかと比べようもない位圭が好きなんだな」
その言葉に私はどう返していいのか解らず、口を噤んでしまった。そんなまごまごしている私を恵人は可笑しげに笑っていた。
正直、否定は出来ない。恵人を好きだった時には、耐えられた事が、圭のこととなると耐えられないということが間々あった。翠が圭を「圭」と呼んだだけで、胸が苦しくなったのも記憶に新しい。本当は、他の誰にも渡したくない。他の誰にも触れて欲しくない。嫉妬と独占欲の塊なのだ。
「解ったよ。出来ればお前にはずっと隣とは言わねぇけど、せめて見える位置にはいて欲しかった。お前の気持ちが落ち着くまで行って来いよ。だけど、突然姿を晦ましたりすんなよ。勝手に携帯換えたりすんなよ。絶対連絡はつくようにしとけよ」
「そんなことしないよ。なんなら、おばあちゃん家の住所と電話番号教えとこうか?」
恵人は、私が本当に姿を晦ましてしまうと思っているようだ。私は、失踪も自殺もする気はない。
恵人は私のお腹の中に芽生えた小さな命の存在を知らないから心配なんだろうけど、この子を置いて若しくは道連れに……なんて考えるわけがないのだ。
とにかく、恵人の安心の為に、私はやむなくおばあちゃん家の住所と電話番号をしたためて渡した。
これで恵人も何とか納得してくれたようだ。
あとは、綾にも説明しなくちゃね。
その日の夜、私は綾のマンションを訪れた。
綾と新さんと三人でリビングのテーブルを囲み、新さんが用意してくれたという料理をつまんでいる。
特に、本日の一押しは新さんが揚げた唐揚げ。これは絶品だった。海外を飛び回っていた時、外食は高くつくので自炊することの方が多かったそうだ。というよりも、たまたま知り合った人に日本料理を御馳走するから一晩泊めてくれとよく頼んでいたそうだ。
「ねぇ、ゆう。会社辞めてどうするの? 実家に戻るの?」
綾が、新さんが揚げてくれた唐揚げを頬張りながら問い掛けて来た。
「取り敢えず今週末にアパートを引き払って実家に戻る。会社を辞めたら、千葉のおばあちゃん家に行く事になってるんだ。圭のことは信じてるけど、今あの二人を見ているのは辛いんだ。赤ちゃんにも悪影響だと思う。おばあちゃん家はね、子供を育てるにはいい環境なんだ」
私が綾にそう話していると、新さんが箸でつまんでいた唐揚げをぽとりと落とした。
「ええっ! ゆうちゃん妊振してるの?」
新さんが素っ頓狂な声で叫ぶものだから、逆にこちらが驚いてしまう。
「あれ? 綾、話してないの?」
綾に話せば、新さんにも知られてしるものだと思った。それが嫌だとかではなくて、それが当たり前なんだと思っていた。
「えっ、うん。だって簡単に話していいような話じゃないからね。ゆうのプライベートなことだし、勝手には話せないでしょ? 話してもいい?」
いいよ、と快諾した。
それにしても、綾ってとても口が堅かったのね。綾の私をちゃんと考えてくれているところに感謝した。
綾は早速新さんに話し始めている。チラシの裏に相関図みたいなものを書いている。まあ、相関図を見れば解り易いけど、自分の周りの相関図ってなんか複雑。綾は、懇切丁寧に高校時代の私と翠、恵人の関係性から話し始めてるよ。
そこからですか……。これは今に至るまで随分と時間がかかりそうだよ。綾がたまに私を振り向き、だよね? と確認してきたりする。ボへっとしているわけにもいかない状態。
綾って凄い……。私のことを私以上に知っているかもしれない。私は自分のことなのに、まるで知らない誰かの物語を聞いているような錯覚に陥った。
綾が今に至るまでの話を全部話し終えるまでに軽く1時間を超えていた。
新さんはやっと全てが解ったと満足顔、綾は全てを伝えられたことへの達成感を称えたスッキリ顔をしていた。
「ゆうが、会社を辞めるのは仕方ないのかなって思うけど、千葉に行っちゃうんじゃ、中々会えなくなるね」
「千葉っていってもそんなに遠くないよ。電車で1本だし」
「遊びに行ってもいいのかな?」
綾が、おばあちゃん家ということで、遠慮がちにそう尋ねた。
「うちのおばあちゃん、明るい人でね。いっつもお友達が遊びに来てる。おばあちゃんのお友達って年齢の幅が凄く広くて、下は幼稚園から、上は98歳まで、色んな人が遊びに来るんだよ」
「なんか地元のアイドルみたいな人なんだね。おばあちゃんにも会ってみたいし、絶対に行くね」
私はうんと明るく頷いた。
おばあちゃん家はいい所だけれで、おばあちゃん以外知っている人が一人もいない。多少不安な部分もある。綾が遊びに来てくれるのは、私にとっては願ってもないことだった。
私はその日、新さんの車で送って貰った。新さんは車の中でも気さくで、面白い話を沢山してくれた。
「ゆうちゃん、ありがとね。綾の友達になってくれて」
「えぇ? お礼が言いたいのはこっちの方なのに」
私は驚いて運転している新さんの横顔を見た。真っ直ぐ前を向くその口元は少し上がっていた。
「綾って、ああ見えて人見知りなんだ。学生時代は、俺とばかりいたんだ。なかなか女友達が出来ないもんだから、ちょっと心配してたんだ。綾の傍にいたら俺の理性が危ないと、衝動的に日本を飛び出したけど、綾のことが心配で心配で仕方なかったよ。だから、初めて綾の口からゆうちゃんのことを聞いた時にはホッとしたんだ。だから、ありがとう」
丁度信号待ちで、私を見て、心を込めてありがとうと言った。
「あっ、それとゆうちゃんはぜった幸せになるから大丈夫!!!」
「その根拠は?」
「な〜い」
ああっ、やっぱり根拠はないんだ。私はがっくりと項垂れた。
「俺、ちょっとだけ占いが出来るんだよ。昨日、ゆうちゃんが幸せになれるか占ってみたんだ……」
これには私は驚かされた。新さんが、占いって。
本当に何の根拠もなくいってるんだとばかり思っていた。新さんの優しさがそう言ったのだと。
「確かにゆうちゃんにとって今は辛い時期なんだ。だけど、それを越えればあとは安泰ってところかな。ゆうちゃんは絶対に幸せになれるよ。」
本当なんだろうか? 新さんの占いって、どこまで信頼できるんだろうか。でも、私にとって決して悪い結果じゃないから、信じてみようかな。折角占ってくれたわけだし。
「新さんと綾は占った?」
「自分のことは占わないんだ。でも、綾のことは俺が責任を持って幸せにいたしますので、ご心配なく。綾のあしらい方を知ってるのは俺だけだからね。綾の相手は俺じゃなきゃ務まらないんだよね」
凄い自信だ。尊敬してしまうほどだ。
二人は幼い頃からずっと一緒だから、当り前と言ったらそうなのかもしれない。