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Bitter Kiss  作者: 海堂莉子
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第67話

 その夜、私は早々に自室に引っ込んだ。

 実家は木造2階建てで、両親は私がここにいた頃から下の和室で寝ている。私の部屋は2階にあり、家を出た時と同じ状態でそこにあった。私がいつ戻ってもいいようにそのまんまにしておいてくれたのだ。

 自室のベッドに横になり、微かに感じる下の階にいる両親に耳を澄ませる。勿論、ここからでは何の音も聞こえない。

 懐かしい自分の部屋。私の置かれている状態がもっと違うものだったなら、寛げていたのに。

 父は、私の出産を許してくれるだろうか。もし、許してくれなかったら、私は一体どうすればいい?

 一人で産んで育てるしかないのだ。それだけの覚悟は、私にはある。一番考えなきゃならないのは、妊娠中の仕事である。今の会社にはいられない。妊娠をしていると解っていて、雇ってくれる所が果たしてあるのだろうか。正直、一人で産んで育てるのは、不安もあるし、金銭面的にも辛い。

 こんなに考えてばかりじゃ、お腹の子にさわる。考えるのは、両親の返事を待ってからでも遅くはないはずだ。

 私は、無理やり目を瞑った。

 今日の圭との最後のデートや両親との事もあって、相当疲れていたんだろう、目を瞑るとすぐに引き込まれるように眠りに着いたのだった。


 翌日、私は9時くらいに目を覚ました。

 普段、休みの日でも8時には目を覚ましているので、今日は大分朝寝坊してしまった事になる。

 軽い身支度をして居間に行くと、両親は既に炬燵で寛いでいた。

「あら、起きたの? 朝御飯は?」

「う〜ん、あんまり食欲ないな」

「あら、駄目よ。お腹の子の分もモリモリ食べなきゃ」

 そう言われては、食べないわけにはいかなくて、仕方なく食べることにした。

 私の悪阻つわりは殆どなく、強いて言うなら食べ悪阻だろうと思う。空腹になると気持ち悪くなるので、小まめに何かを口にしたいのだ。休みの日なら飴なんかを舐めて紛らわすことが出来るのだが、職場は辛い時がある。何かを食べながら、仕事をすることを、瑛子さんが良しとしないのだ。

 だが、考えてみれば、妊娠してなくても空腹時というのは気持ち悪くなったりするものだから、大したものでもないってことだ。

 人によっては、食べても食べても吐いてしまって、病院で点滴を受けなくてはならない人もいるのだから、私はとても恵まれているといっていいだろう。

 母が用意してくれた朝御飯を一口食べたら、懐かしくなって、食欲がないと言っていたにも拘らず、ぺろりと平らげ、さらに2杯目のご飯もおかわりする始末だった。

 ご飯を食べ終え、食器を洗い終えると居間の炬燵に入った。急須にポットのお湯を入れ、自分の使っていた湯呑にお茶を注いだ。

 会社では専らロイヤルミルクティーを好んで飲んでいるが、実家では熱っついお茶を飲むのが好きだ。舌を火傷してしまいそうなほど熱いお茶がいいのだ。

 私が寛ぎ始めると、それまで寝そべっていた父が起き上がり姿勢を正した。

 ああっ、これから審判が下されるんだ……。

「お前のお腹の子、本っっ当に産みたいんだな?」

「はい」

 一寸の曇りもなく私は返事をした。

「なら産みなさい」

 私は、下を向いて次に来る恐ろしい言葉を待っていた。しかし、聞こえて来たのは、私の予想していた言葉とは程遠いものだった。私は、顔を上げ、信じられないものでもみるように父の顔を見た。

「本当に!? お父さん、本当に私産んでもいいの?」

 嗚呼、と父の低い頷きを見て、私は感極まって涙が出て来た。

 圭の前でしか泣けないと思っていたけど、それは間違いだったみたい。家族の前でも私は泣けるんだ。そりゃそうだよね、小さい時からどんな時でも一緒に泣いて来たんだものね。私には、まだ泣ける場所があるんだと思ってホッとした。

 気付けば、子供の頃のように三人とも涙を流していた。

 ひとしきり泣いたところで、父が再び話し始めた。

「お前が今の仕事を辞めるつもりなんだったら、千葉のお義母さんの所に行ったらいい」

 千葉のお義母さんとは母方のおばあちゃんのことだ。

 父の両親――即ち私の祖父母であるが――は、既に他界しており、母の父もまた他界している為、私には母方のお祖母ちゃん一人きりしかいないのである。

 とても陽気なおばあちゃんで、65歳。千葉のとある市に住んでいるのだが、祖父が他界したあと、こちらで同居しようと何度も持ち掛けたらしいのだが、都会は御免だと言ってその申し出をことごとく突っぱねた。

 私はこのおばあちゃんが子供の頃から大好きで、ちょくちょく遊びに行ったものだ。千葉といっても都内からたいして離れておらず、電車1本で行けてしまう。それでいてそこまで都会化しておらず、かといってど田舎とまではいかない。公共施設が充実しており、自然や公園なんかもあり、川も近くに流れているし、少し北に行けば田んぼが広がっている。各駅停車で一駅隣に出れば、市の中心地に出るので、デパートや飲食店何かがひしめいている。

 おばあちゃんは、この地域の住みやすさに惚れ込んでいるので、恐らくここを離れることはないだろう。そして私もまたおばあちゃん家の環境が凄く好きなのだ。子供を育てるなら、持って来いの場所だと思う。

「ここは、お前のアパートからも大して離れていない。今は、誰にも妊娠していることを知られたくないんだろ? それなら、千葉の方がいい。俺たちとしては、こっちにいて貰いたいんだけどな」

 父は、おばあちゃんには、もう話は通してあると続いてそう言った。

「ありがとう。お父さん……」

「それから、これ……」

 母が私の前に通帳と判子を出した。その通帳の名義は私の名前になっていた。私は、母を見た。

「お母さん、これって」

「これね、ゆうが産まれた時に作った通帳なの。毎月決まった額を積み立ててたの。本当は、ゆうの結婚資金にするつもりで貯めてたんだけど、順番が逆になっちゃったわね」

 うふふっと母は笑った。

 母は、私が結婚もせずに先に子供が出来ちゃったこと、悪く思ってないのだろうか。いつもと同じ風に見える。

「そりゃね、先に結婚してくれた方が嬉しいに決まってるけどね。でも、初孫でしょ? ウキウキしちゃうじゃない。それもあの矢田君との子だものきっとイケメン君が産まれるわよ。私は絶対男の子がいいわ。ねっ、お父さん」

「いやいや、母さん。絶対女の子だろう」

 昨日はあんなに怒鳴り散らしていた父なのに、母と一緒になってあ〜だのこ〜だのと言っている。きっと母が父のことを一晩かけて説得してくれたに違いない。

「お父さん、お母さん。本当にありがとう。親不孝な娘をお許し下さい」

 私は、流れ出してくる涙を止められなかった。

 父の大きな手で頭をポンポンと叩かれ、私は父を見上げた。父も静かに涙を流していた。母を見ると、母もまた微笑みながら涙を流していた。

 この時、私は本当にこの家に産まれてきて良かったなって心の底から思った。どんな時でも私は父と母に守られていた。恩返しがしたいといつも思うのに、結局私が守られているのだ。それを父も母も嬉しいのだと言っている。親ってそういうものなんだろうか。私もこの子が産まれたら、そんな風に考えるようになるんだろうか。

 私はその日の午後に両親とともにアパートを賃貸した不動産屋に赴き部屋を出る手続きをした。次の日曜日には、今の部屋を出て、一度実家に戻ることにする。会社を辞めたら、千葉のおばあちゃんの所に行く事になる。

 おばあちゃんからは、いつ来てくれてもいいと言ってくれていると聞いた。


 私は月曜日、退職届を持って、上司と話をした。

 自分が妊振ていることと、千葉の身内の家に行くことを素直に話した。12月いっぱいで辞めたいと申し出ると、案外あっさりと受理された。

 私みたいな下っぱが辞めた所で大した損害はないということだろうか。もしかしたらうちの会社も経営難でリストラ対策が進められているのかもしれない。一人でも多く辞めて貰いたいと陰で願っていたりするのかもしれない。

 12月いっぱいで辞めるということになるが、有給があるので、実質会社を去るのは、12月の第二週までとなる。

 上司には、私が妊振している事実は口外しないで欲しいとお願いした。

 私が辞めるということはすぐに知れ渡ることとなった。

 皆には、理由を問われて、家庭の事情でと言葉を濁しておくに留めた。そうすれば、それぞれ私の身に何があったのかなど適当に想像するだろう。私が結婚するために辞めるとか、家族の誰かが病気で、看病するために辞めるとか。

 そんな適当な理由じゃ納得してくれないお方が約2名。勿論、綾と恵人なんだけど。

 綾にはありのままを話せるけど、恵人にはどう話せばいいのだろうか。妊娠していることは絶対に話せやしない。翠や圭にまで話が伝わってしまう可能性が高すぎる。

 どうしようかなと頭を悩ませていたら、昼休みに恵人に呼ばれた。

「ゆう。昼、一緒に食べに行くぞ」

 フロアの皆の前で堂々と名前を呼び、さらにお昼を誘うので、周りはざわっとなった。それもその筈、私達が知り合いであるという事実は綾しか知らないのだから。そんなことには、気付かぬふりで恵人は私の腕を掴むと無理やりに引っ張り出された。

 今頃、フロア中が何事だと騒いでいるのは間違いない。フロアに置いて来てしまった綾に皆がことの真相を知ろうと、群がっているかもしれない。

 ごめん、綾。

 私はこれから恵人の尋問を受けることになるのだ。


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