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Bitter Kiss  作者: 海堂莉子
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第66話

 私は、今日圭と別れたら、圭とも翠とも会えなくなる。いや、会うべきじゃないんだ。二人に私が妊振していることを気付かれてはならない。この子が圭の子であると気付かれてはならない。二人が付き合うのであれば、この子をあの二人の前に出すわけにはいかない。

 あのアパートから出よう。あそこにいつまでもいたら、圭に偶然会ってしまうかもしれない。会社も早目に辞めた方がいいだろう。

 観覧車からの景色を刻み込みながら、私はそんな事を考えていた。

 観覧車を降りると健司さんと沙織は残して帰ることにした。

 電車に乗ってもお互いに口を開かなかった。手だけは辛うじて繋いでいたが、もう恋人のふりも終わりということなのだろう。

 電車を降りて、私達は二人並んで歩いた。放すタイミングを逃したようにいつまでも圭の手が私の手の中にあった。

 私がこの手の温もりを忘れる日が来るんだろうか。忘れたくはない。だが、そんな日がいつか来てしまうのだ。圭の笑顔を心の中で想い描いても上手く想い出せなくなる日がいつか必ず来てしまうのだ。私の気持ちとは裏腹に。

 私は大丈夫だと言ったが、圭はアパートの前まで送ると言った。そう言って先に歩き始めた圭に引っ張られて歩き始めるしかなかった。

 アパートの前に着くと、私達は向かい合った。

「圭、最後に一度だけキスして?」

 私の最後の勇気だった。私の手は汗で湿っていて、両手を握りしめる手は小刻みに震えていた。

 圭は一歩前に歩み出ると、私の肩を掴み、唇を重ねた。

 懐かしい感触に、熱い想いが込み上げ、私の頬にも熱いものが流れるのを感じた。それは涙だった。あれほど出ないと思っていた涙が、こんなに簡単に流れるなんて。

 綾が言っていたことを思い出す。私は圭の胸の中でしか泣けないんじゃないか。綾の言った通りだったのかな。

 圭の唇が離れて行く気配に目を開けると、圭の笑顔がそこにあった。かつて圭が会うたびに何度も見せてくれた眩しいものを見るような細い目で、優しく微笑んでいた。だが、私と目が合うと、圭は慌てて目を逸らし、笑顔はすぐに消えてしまった。

「今までありがとう。さようなら」

 圭の声はかすれていたが、態度はしっかりしていた。

 私は……、あのキスで解ってしまった。圭の本心を。圭はまだ私を愛してくれているということを。圭が以前言っていたことを思い出す。

『もし……何かわけがあって二人がどうしても離れなきゃならない時が来ても、俺の気持ちは一生変わらない。変えられないんだ。それだけは信じて欲しい。俺は、生涯君を愛すよ。愛してるよ……ゆう。これから先もずっと。どんなことがあっても』

 今日一日の圭を振り返る。

 時折見せるあの笑顔、苦しそうに一瞬歪む顔、急に腕を掴まれたり、私を後ろから見つめる視線。それら全ては圭からの愛してるのサインだったんだ。最後のキスはあの頃のように愛情に満ち、とても甘いものだった。そのキスからは、信じて欲しいというメッセージを受け取ったような気がした。ううん、それは間違いない。今日の圭の一つ一つの行動が、私に向けた愛しているというメッセージだったのだ。

 私達の別れには何か訳がある。それは、明らかに翠絡みのもの。

 今、話す事は出来ないけど、信じて欲しいと圭は私に伝えていた。他の誰に解らなくとも、私には解る。

 私はそのメッセージを受け取った。ならば、私は圭の気持ちを信じるまでだ。

 こんな私を皆笑うだろうか? そんな筈がない、お前らは別れたんだと。そんなものは妄想に過ぎないのだと、笑うだろうか?

 笑いたければ笑えばいい。馬鹿にしたければ、馬鹿にすればいい。私は、圭を信じる。私は圭を信じている自分を信じる。

 圭の背中が見えなくなるまで待って私は再び駅の方向に歩き始めた。


 私は玄関のチャイムを鳴らすと返事が来るのを待った。

 インターホンから「はい」という女性の声を聞いて、「私」と短く答えた。

 外からでも聞こえる位騒々しい足音が近づいて来て、ドアが勢いよく開いた。

「ゆう、一体どうしたの? 突然帰って来るなんて。もしかして何かあったの? とにかく入んなさい」

 元気のいい母に少々圧倒されるも何とか実家に足を踏み入れる。

 居間に行くと炬燵に入り横になりながらテレビを見ている父がいた。

「おっ、何だ。ゆう、どうした?」

 父も母も私があまり家に帰って来ないものだから、私が帰って来ると何かあったのだと思うらしかった。確かに、その通りではあるのだけれど。

 母がお茶を出してくれるのを待って、私は両親を真剣な面持ちで見つめると話し始めた。

「すごく長い話になりそうだけど、取り敢えず先に結論だけ言うね。私のお腹には赤ちゃんがいる。産みたいの。だけど、圭とは別れちゃった」

 私がそう言うと、父が唾を撒き散らして叫んだ。

「なんだそりゃ! 許せんぞ!!!」

「まあまあ、お父さん落ち着いて。話しは終わってないんだから」

 母が父を宥めて、落ち着いたのを見計らって再び口を開いた。

 私はあの夏の事件の後にあった出来事を順に話した。その間、父は眉間に皺をよせ、腕を組んで目を瞑って、口をへの字に結んで聞いており、母はしきりに相槌を打ちながら、身を乗り出して聞いていた。

「今日、圭に会った。それで、解ったの。圭は、私を愛してくれてる。何か訳があって翠と付き合っているんだって。それは、多分恵人と翠の為にしてることなんだと思う。だから、今は言えない。赤ちゃんがいるってことは。あそこにいたらいつまで隠しておけるか解らないの。だから、アパートを出たいの。本当なら、あそこに残って、翠と恵人の行く末を見守りたい。だけど、それはきっと精神的に辛いことだと思う。圭と翠が二人でいる所をそれがどんな理由があるにせよ見るのは辛い。赤ちゃんにも良くないと思うの」

「ゆう、お前本気で産む気なのか? どんな理由があるにせよ、あの男はお前を裏切ったんだぞ」

 父の厳しい言葉に大きく首を振った。

「違う違う。圭は私を裏切って何かいない。私には解るの。確かに第三者から見れば、私はただ裏切られただけなのかもしれない。だけど、気持ちの上で圭が変わらず私を想っていてくれているのならそれは、裏切ったことにはならないよ」

「なんでお前にそんなことが解る? あの男に聞いたわけでもないんだろ!!!」

 私の言葉が言い終わらないうちに父は怒鳴り返した。

「解る、解るの。私には解るんだってば。最初は苦しくて辛くて、圭をよく見れなかった。だけど、今日の圭を見たら、心で感じたら圭の心が解った。それにね、少し前に圭が言ってくれたの、どんな理由で離れてしまったとしても私を愛してくれるって。信じて欲しいって。本当なら待っているのなんて性に合わないけど、この子がいるから今は大人しく待ってる」

 私はお腹を撫でながらそう言った。

「圭君が戻って来るとは限らないんだぞ?」

 私はその言葉に黙って頷いた。

「それでも待つのか?」

 私は再び頷いた。それを見て、父は大きな溜息をついた。興奮を少しでも鎮めようとしたのだと思う。

「どう思う、母さん?」

「そうね、正直親としては一人で産むってのはそんな生半可なもんじゃないし、そんな苦労をゆうにさせたくないと思う。だけど、女としては応援したいわ。矢田君は誠実な人よ。あなたも会ったから解るでしょ? 彼は本当にゆうを愛してくれていた。そうね、きっとそれは今も変わらないと思うわ。彼を、ゆうを信じてもいいんじゃないかしら?」

 父は腕を組んで、う〜んと唸った。目を瞑ったまま考え込んでしまった。そして、また目を開くと口を開いた。

「お前の気持ちは解った。今日は、とにかく泊まって行きなさい。父さんも母さんと今後のことをよく相談したいから」

 私はうんと小さく頷いた。


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