第65話
「圭、私ペンギン見たい。行ってもいいかな?」
「いいよ」
優しい笑顔に私はドキリとする。だがこれは、お芝居なんだ。圭の笑顔はあの頃の笑顔とは違う。今向けられている笑顔は社交辞令的なものにすぎないのだ。それでもいい、圭が笑ってくれるなら、それがどんな類のものでも構わない。
私も圭に微笑み返した。私は今日、ちゃんと笑えているのかな。
私の大好きなペンギンのエリアに来た。私は例の如くペンギンをじっくりと観察する。
私って何でこんなにペンギンが好きなんだろう。気付いたら好きになっていたんだよね。鳥なのに飛べないとことか、足が短く見えるとこ、水の中では驚くほど速いとこ、よたよた歩く姿が可愛いとこだったりするのかな。多分今挙げたとこ全部が好きなんだろうな。などと、ペンギンの好きな所を私なりに分析しながら、ペンギンの泳ぐ姿を見ていた。
隣にいた男の子が、「すげぇ、超速い」と、喜んでいるのを見て、「ペンギン、本当速いねぇ」と私も嬉しくて微笑んで同意を示すと、男の子も嬉しそうに、ほんの少し恥ずかしそうにニコッと笑った。二人で話している時にふと少し離れた所で見ていた圭が視界の中に入った。圭はこちらを見て、眩しそうな目をして微笑んでいた。私と目が合うと、すっと無表情に変わり目を逸らした。
気のせいだったのかな。私が強くあの笑顔を見たいと望んでいたから、そんな錯覚を見てしまったのかもしれない。それか、あれは私を見て微笑んでいたんじゃなくて、男の子を見て可愛らしいと微笑んでいたのかもしれない。きっと後者なんだろうな。さっきの子とっても可愛かったしね。
それからもう暫く私は水槽にへばり付いていた。
圭が私の背後まで来て私に声をかけた。
「ゆう、健司からメールが来た。昼はそれぞれ別で食べようだってさ」
「うん、解った。また売店で何か買って外で食べる?」
「そうしようか」
じゃあ行こう、と元気よく歩き出した私は突然、左腕を掴まれた。少し引き戻されて驚いて圭を見たが、圭は下を向いていてどんな表情をしているのか窺い知ることは出来なかった。圭? 私が圭に問い掛けると、腕をパッと放された。圭自身も自分の行動に驚いていたのか、自分の手を見ていた。
「圭?」
「いや、ごめん。何でもない」
圭の行動を不思議に思ったが、きっと圭のことだから横に来た人に私がぶつかりそうになっていたのを防ごうとしたのだろう。
「ありがとう」
私が圭を見てそう言うと、圭が呆気に取られて、え? と短く言った。
「私が誰かとぶつかりそうになったから手を引いてくれたんじゃないの?」
さらに私がそう言うと、圭は曖昧に、嗚呼、と頷いた。
違っていたのかしら? でも、まあいいか。
「ご飯食べに行こうよ」
圭の左手を取って、先を促した。圭はまた、嗚呼、と呟くと歩き出した。
あの時と同じホットドックを買って、あの時と同じ場所で食べる。それは二人には必然の様で、どちらからそうしようと言ったわけでもないのに自然とそうなっていた。暗黙の了解。
屋外で食べるには少々風が冷たかったが、太陽が出ているのでそこまで寒いとは感じられなかった。
「恵人の記憶が戻ったって聞いた?」
「え?」
「知らなかったんだ。戻ったんだよ」
翠から聞いてないのかな?
それとも、恵人はまだ翠に会えていないのかな。翠もまだ知らないのかしら。恵人と話してから、すぐに会いに行くようなことを言っていたから、もうてっきり翠には会っているんだと思った。
「どうやって思い出したの?」
これって言っていいのかな。今、圭は翠と付き合ってるんだよね。圭は気分を悪くするんじゃないだろうか。私が戸惑っていると、圭は微笑んだ。大丈夫だから言って、と言っているんだと思った。
「きっかけは、私の携帯の着うた。翠が大好きだった曲でね、いつも口ずさんだりしてたから、何か思い出すきっかけになればいいなって思って設定してたんだ。その曲を聞いて、全てを思い出したの」
「そっか、良かったな。ゆうは、恵人と付き合うのかな?」
「どうして? そんなのあるわけないよ。いくら翠が返すって言ったって、お互い好き合ってるわけでもないのに付き合ったりしないでしょ?」
「お互い好き合ってるわけでもない……」
圭が私が言った言葉を小さな声で呟いていた。圭が一体何を考えているのか解らなかったけど、少なからず圭は私がまだ恵人を好きだと思っていたことは解った。誤解なのにね。全部。
圭が、私は恵人を好きだと思っていることも、翠が、恵人が私を好きだと思っていることも全て誤解。
「圭は、翠と上手くいってる?」
圭に一番聞きたくて、でも一番聞きたくなかったことをついうっかり聞いてしまった。
圭は嗚呼ともうんとも聞こえる曖昧な声を出した。好きな人には幸せになって貰いたい。だけど、まだそう思うには圭を好きすぎた。私は俯き圭に顔を見られないようにして、呟いた。
「良かったね。幸せに……なってね」
自分の声が酷く震えていた。今の私の顔はきっと醜い。だから、圭にはこんな顔は見せられなかった。
私は嘘をついた。良かったなんてまだ思えない。他の誰かと幸せになってなんて本当はまだ思えない。そう思ってしまったんだ。
圭が私の頭をポンポンと叩いた。私は弾かれたように圭を見上げた。圭は何も言わなかった。何か言いたそうにはしていたのだ、だが、結局何も言わなかった。私も何も聞けず、ただ二人は見つめ合った。
圭が何を考え何を思っているのか私にはてんで解らない。その表情は一体何を語っているの?
「そろそろ行こうか?」
突然圭が口を開き、奇妙な雰囲気から解放された。
「さて、これからどうする? あの二人はもう放っておこう。取り敢えず残りを見て、それから帰ろうか」
私は頷いた。
圭が私に手を差し伸べた。どうやら今日一日、恋人として振る舞ってくれるようだ。
私はその手を取り、圭に促されるまま歩き始めた。
残りの水槽を丁寧に眺め、ゆっくりと進む。これが終わったら、圭とは会えなくなってしまう。いつまでも終わらなければいいのにと願う。しかし、現実はそう甘くはなく、呆気なく終わりを告げた。
水族館の外に出ると、観覧車が見えた。
「圭、あの……」
観覧車に乗りたい。だが、その言葉がなかなか口をついて出なかった。
「乗ろうか、観覧車」
私は圭がそう言ってくれたことが、嬉しくて、うんうんと二度頷いた。
観覧車は前来た時は混んでいたが、今日はとても空いていた。ドアの前に立つ従業員もあまりに退屈で、何度も欠伸を噛み殺していた。
観覧車に乗り込むと、二人きりの空間というものが、久しぶりで緊張してしまった。圭をまっすぐ見ることが出来ず、私は遠くを見ていた。だが、先ほどから圭が私を見ている気配を感じる。気になってちらりと覗き見ると、それと同時に圭は外に視線を移した。私は、圭の表情をほんの一瞬見てしまった。圭は私を見て優しく微笑んでいたのだ。私の大好きなあの笑顔。眩しいものでも見るようなあの細い目。私が目にしたものはあれは錯覚? 私は今は消えてしまってない圭の横顔をぽかんと口を開けて見ていた。
やっぱり錯覚かな。私の願望がそう見せてしまったのかもしれない。
「ゆうは、俺を怒らないのか?」
「怒って欲しいの?」
私は、逆にそう尋ねた。
私が怒らなかったのは、こうなることを予期していたからだろうか。それとも、相手が翠だからだろうか。今、圭に言われるまで怒るという感情すら浮かんでこなかったのだ。とにかく苦しくて、圭を失ったことが理解できなくて、誰かに怒りを感じている暇はなかったのだ。きっとそのゆとりがあったとしても結局圭に怒りを感じることはないように思う。それが何故なのかは、自分でも上手く理解出来ないのだが。
「怒ってはない。圭といたのが私にとって言いようがないくらいに幸せだったからかな。恵人を忘れられなくて苦しんでいた私を助けてくれたのは圭だよ。圭に私は救われたの。だから、圭は何も気にしなくていいよ。圭が幸せになってくれればそれでいい」
私は微笑むことが出来た。本当は、まだこんな風に思えない。だけど、きちんと言うことが出来た。きちんと微笑むことが出来た。きっと今日初めてまともに笑えたんじゃないかと思う。
圭の顔が少し歪んで、痛そうな顔をしているので、私は圭の苦しそうな顔を見ていられなくて、外に視線を移した。
申し訳ないとは、思って欲しくなかった。そんな苦しそうな顔は見たくなかった。
私は圭と最後に見たこの風景を忘れないようにと一生懸命心にその映像を刻み込んだ。
そして、それと同時にある決意をしていた。