第64話
―――圭。
携帯の画面の名前を見て、ごくりと唾を飲み下した。
「もしもし」
私がびくびくと声を出すと懐かしい声が聞こえて来た。
『ゆう、夜分遅くにごめん。一つ忘れていた事を思い出した。増田さんに健司を紹介するって言っただろ? そういうのきちんとしておかないとすっきり別れられないから。今週の土曜日大丈夫かな?』
圭の口から出て来ている声なのに、まるで違う人の声みたいだった。淡々と事務的な声。その声には何の感情も感じられない。そして、それとなく聞かされた「別れ」という言葉にびくっと体を強張らせた。
「解った。沙織に聞いておく」
『じゃあ、よろしく』
そう告げるとすぐさまぶつっと通話が途切れた。私と圭の赤い糸が千切れたように思えた。最初から圭との間に赤い糸など存在していなかったのかもしれないが。それでも、一瞬でも私と圭の間に赤い糸があったと信じたかった。
私は携帯の画面を見て、自嘲気味に笑った。
「ゆう? 何かあった?」
風呂上がりで、髪を濡らした綾が私の雰囲気を察して尋ねた。
私は綾を見上げ、にっこりと微笑んだ。自分でもどうしてこんな時に笑顔が作れるのか解らなかった。
「たった今、圭から電話があった」
「えぇっ、何だって?」
私の目の前に来て座ると綾はそう言った。
「前にね、圭にお願いしていたことがあるの。沙織を健司さんに会わせてあげて欲しいって。圭ね、それ思い出したみたいで、今度の土曜日にどうかって。圭、こういうのきちんとしとかないと、すっきり別れられないからって言ってた。綾、私ね、電話が圭からだって解った時ね、少し期待したの。もしかしたら、この間のことは全部嘘だよって言ってくれるんじゃないかなって。でもね、圭の声、感情も何もなかった。ロボットみたいだった。圭じゃない他人と話してるみたいだったよ」
綾は私の話を聞いて、泣きそうな顔を浮かべた。
「泣かないでよ、綾」
「だって、絶対おかしいよ。矢田さんあんなにゆうをだ好きだったじゃない。絶対変だよ。嫌だよ、こんなの」
とうとう我慢出来なくなったのか、綾は泣き出してしまった。
「ありがとう、綾」
綾が私の為に涙まで流してくれた事が素直に嬉しかった。私は、綾の背中を撫でた。
「綾、私ね、なんだか泣けなくなっちゃったみたいなの。圭に別れを告げられたあの日からまだ一度も涙が出ていないんだ。辛くて、苦しくて、こんなにも悲しいのにね。私の涙、干からびちゃったのかな」
綾は顔を上げ、右腕で乱暴に涙を拭い去ると、まじまじと私の目を見た。
「本当に泣いてないの? あの泣き虫のゆうが一度も泣いてないって言うの?」
驚いたという風に珍しいものでも見るように私を見据え、素っ頓狂な声を上げる。私が頷くと、腕を組み、暫く難しい顔で首を傾げていた。
「矢田さんの前じゃないと泣けなくなっちゃったのかな……」
いつも圭の胸で泣いていたから……か。そうなのかな。そうしたら、圭の前に行ったら涙が止まらなくなっちゃうのかな。
「土曜日、矢田さんと会うの?」
「私ね、どんなに辛くても圭に会いたい。会えるのならなんでもいいの。最後になるかもしれないから、圭を私の記憶の中に焼き付けて来る」
「私も一緒に行こうか?」
私は大きく首を横に振った。そして、安心させるように微笑んで見せた。
「矢田さんに話さないの? 赤ちゃんのこと。もし、ゆうが言えないなら私が言おうか?」
「綾、本当にありがとう。でも、圭には言わないってもう決めてるから」
私の微笑みを、納得いかないといった表情を浮かべて見ていた。
その夜、二人が眠りにつくまで、何度となく同じような会話が続いたが、私は首を縦には振らなかった。
そして、土曜日。
私は待ち合わせ場所に30分も前に着いてしまった。他の三人の姿はまだ見えない。
11月の第3土曜日。早い所ではもう既にクリスマスの飾り付けをしているところもある。今年はもしかしたら一人で過ごす事になるのかな。圭とは別れてしまったのだし、毎年翠の家に呼ばれていたけど、今年はそれも望めない。今年は一人、厳密に言えば二人なんだけど。赤ちゃんがいるからね。
そんなことを考えていると、人混みの中から圭を見つけてしまった。
あんなに人がたくさんいるのに、私の目にはすぐに圭をキャッチすることが出来るみたい。圭が私に気付いていないのをいいことに、私は圭を思う存分見つめた。
「久しぶり」
私の前に立った圭がそう言った。久しぶりというほど、日はたっていないのだけれど、私も圭を久しぶりに見た気がする。
私は圭を見上げ、微笑んだ。圭は驚いたのか、目を丸くしている。
「圭、今日私達が会うのは最後かもしれないよね? 最後に一つだけお願いがあるの」
圭は驚いた顔のまま私を見つめ、首を傾げた。
「今日一日だけ恋人同士のふりをして欲しいの。あの二人がいる間だけでもいいの。圭との最後の想い出は楽しく笑っていたいの」
私は圭を見つめてそう言った。突然、圭は、ぷはっと吹き出し、片手で顔をおさえて笑い始めた。私はそんな圭を唖然と眺めていた。
「敵わないな、ゆうには。本当敵わない。じゃあ、はい」
そう言って差し出された手に首を傾げる。
「さあ、お姫様。お手をどうぞ。恋人同士だったらそうするだろう?」
さっきまでの少し冷たい声がまるで嘘だったように、圭の優しい声がそう言った。私は圭の手を恐る恐る握ると、記憶の中にある手の温もりに出会い、心底安心し、圭を見上げ微笑んだ。圭の表情が一瞬苦しそうに歪んだが、すぐに笑顔を見せてくれた。その笑顔がたとえ嘘のものでも、その優しい声がたとえ偽物だとしても私には涙が出そうなほど嬉しかった。
今まで一粒も出なかった涙が溢れ出て来ようとして慌てた。
綾の言っていたことは強ち嘘ではないのかもしれないな。圭の前だと涙が自然と溢れ出す。だけど、今日は笑って過ごすって決めたから、だから意地でも涙は引っ込めなくては。
暫くして、沙織も健司さんも姿を現し、簡単な自己紹介の後、目的地である水族館へと足を向けた。
皮肉にも目的地は、私が圭に初めて想いを伝えたあの水族館だった。想いを告げたあの観覧車が目の前に聳え立っている。
感傷に浸りそうになる己を何とか叩きだした。
水族館に入ると、健司さんが別行動しようと言い出した。
特に異論はないので、それに従い、二人と離れると私は圭に話しかけた。
「健司さん、沙織が気に入ったのかな?」
「ついこないだ彼女と別れたらしいんだ。あの様子じゃ、気に入ったみたいだし、上手くいくかもしれないよ」
あの二人の見えない所に来たのに、手は繋がれたままだった。いいのかなって思ったけれど、私としては放して欲しくなかったので、黙っていることにした。
翠に申し訳ない気がしたが、今日が最後だから大目に見てねと、心の中で呟いた。
「ここで……」
「「たっくんに」」
「会ったよな」「会ったよね」
二人の声が重なり顔を見合せて笑った。
「たっくん元気かな?」
前に来た時に出逢ったたっくんは、とても可愛らしい幼稚園に通う男の子で、お母さんとはぐれて迷子になっていたので、一緒に捜してあげたのだ。その時、圭が子供が好きなんだって知ったし、たっくんと戯れる圭もまたとても可愛かった。あの時、三人で歩いて、まるで家族みたいだって思ったんだ。きっと、圭と私がまだ付き合っていたら、圭は私の妊娠を喜んでくれたのだろうな。私のお腹にいるこの子と圭と三人で、手を繋いで来たかった。それは、叶わない夢になってしまったけど、でも今手は繋いでないけど、三人で歩いているんだ。
もう三人でここに来ることはないかもしれないけれど、いつか赤ちゃんが大きくなってたっくんくらいになったら、一緒にここに来て、パパとママは昔ここに来たんだよって教えてあげよう。圭のこと、一杯一杯話してあげよう。
「お腹痛いの? 大丈夫?」
圭に問いかけられて、私が無意識にお腹を触っていた事に気付く。
「ううん、大丈夫」
もう癖になっていた。ここに赤ちゃんいると解った時から守るようにお腹を撫でることが。
こんな私でも赤ちゃんが出来ると必然的に母性本能が生まれるようだ。