第63話
「でも、昨日は死んだ魚みたいだったのに、何で今日はそんなにしっかりした顔してんの? 昨日の今日で一体何があったのよ」
綾にそう問われ、私はバックから手帳を出すとテーブルの上に置いた。
綾は手帳を凝視し、驚きで言葉を失っている。そして、今度は私を食い入るように見つめた。
「ゆう、これって……、これってそうゆうことよね?」
そうゆうことってどうゆうこと? って一瞬思ったけど、それは愚問だと思い直し素直に頷いた。綾が言いたいことは何となく解る。ただ動揺していて上手く話せないのだ。私だって友達にそんな事実を打ち明けられたら、動揺するのは当たり前だし。
「矢田さんとの赤ちゃんだよね? 別れちゃったんだよね? それでも産むつもりだって言うの?」
私はゆっくり微笑むと頷いた。
そう、綾は解ってるね。私が母子手帳を持っているということ、それは私が産むと決心していることを表す。だっておろそうとしている人は、わざわざ母子手帳なんて貰いに行かないものね。
「この子はね、大好きな圭との子なんだよ。私は別れても圭が大好きなの。どんな仕打ちを受けようが大好きなのは一生変わらない。その圭が最後にくれたプレゼントなんだよ。おろすなんて出来ない。ううん、そんなことしたくないの。圭と別れて、もう生きていけないって本気で思ったよ。だけど、ここに赤ちゃんがいるって解ったら、いつまでもうじうじしてられない、私がこの子を守らなきゃならないんだからって思ったの。そしたらね、強くならなきゃって思った。この子がここにいてくれることで、少しは強くなれたんじゃないかなって、そう思えたんだ」
私の決意の表情を見て、綾は複雑な表情をしていた。
「矢田さんには知らせたの?」
「圭には知らせない」
それを聞いて、綾はバンっとテーブルを両手で叩きつけた。
「何で! 父親は矢田さんなんでしょ? 男の責任取って貰えばいいじゃない。そしたら、矢田さんだってゆうの所に戻って来るんだよ」
綾は興奮していて、唾をまき散らして叫んだ。
「綾、ねっ、落ち着いて。とにかく聞いて。あのね、確かに圭に赤ちゃんが出来たって言ったら、圭は戻って来てくれるかもしれない。だけどね、この子を圭を取り戻す為の道具みたいにはしたくないの。それにね、圭には一番好きな人と一緒にいて欲しいよ。圭には幸せになって、笑っていて欲しい。仕方なく私と一緒にいてくれたとしてもお互い幸せにはなれないよ。だからお願い、綾も圭には黙っていて」
憮然とした態度で綾は聞いていた。納得いかないと言った感じである。一つ盛大な溜息を吐き、私を見た。
「ゆう、あんたお人好し過ぎるよ。相手の幸せばっかり気遣って、もっと自分も幸せになりたかったらなりふり構わずに縋りつけばいいんだよ」
「圭に別れを告げられた時にね、翠と圭が店を出る後ろ姿に縋り付きたいって思ったよ。でも、出来なかった。今、私が圭を取り戻したらもっと翠は私を憎む。綾、私ね、愛情も大事だけど、友情も同じくらい大事なんだよ。翠は私が恵人を奪ったって思ってるんだ、その上私が圭を奪おうとしているって解ったら、もう私と翠の関係は終わってしまうよ。それは嫌だったの」
私は圭を失うそんな瞬間でも、誰かのことを考えていた。翠のようにただがむしゃらに欲しいものだけを、追い求めることは出来なかった。本当は、何も考えずに圭の手を取りたかった。圭を引き留めたかった。そして、それと同時に私にはそれが出来ないと心のどこかでは、解っていたんだ。
圭を攫う人が全く知らない人だったらまだ良かったのかもしれない。ううん、違う。私は相手が誰だろうと圭の背後で悲しむ人の姿が見えてしまえば手を引いてしまうのだろう。
馬鹿だとは思う、愚かだと思う。だが、私はきっとこの生き方を止められないんだろう。
「馬鹿だよ……」
「綾、私はこの子がいれば十分幸せだから……」
私は自分のお腹を優しく撫でた。
「ホントに馬鹿だよ。でも、そんなゆうが私は好きだけどね。解った。私が会社ではフォローするし、何でも力になるから。これからは、新になんか気遣わなくていいんだからね。荷物運びとか体力的なことはあいつ得意だから何でも頼んでいいんだよ。大丈夫、ゆうは一人じゃないよ」
綾はいつだって私の味方をしてくれた。
翠も親友だと思っていたけど、私の片想いみたいなところがあってバランスが悪かった。だが、綾には何でも気軽に話せる。本当の友達って綾みたいなのを言うのかもしれないな。
私は感謝の想いを込めて、笑顔を作った。
「私、今日泊まってもいい?」
「私は大歓迎だけど、新さん待ってるんじゃないの?」
んじゃ、今から電話する、と言って携帯を早速掛け始めた。
電話の向うの新さんと楽しそうに話している綾を見て、いいなぁってついそんな想いを抱きながら眺めていた。私もついこの間までは、こんな風に圭と話してたんだな……。私にはそれがまるで遠い昔のように感じて仕方がなかった。
「はい」
そう言って綾が私に携帯を差し出した。え? と首を傾げる私に、
「新がゆうと話したいんだって」
戸惑いながらも私は綾の携帯を受け取り耳に当てた。
新さんとは、あの初めて会った日以来、何だかんだで会うことが出来ずに今に至っていた。だが、新さんの話は綾から毎日のように聞いているので、一度しか会ったことがないとは思えないのだ。
「もしもし、お電話変わりましたゆうです。今晩は」
『硬いなぁ、ゆうちゃんは。そんな堅苦しい挨拶、俺にはいらないよ』
電話越しで新さんの軽い笑い声が聞こえてくる。その優しい笑い声から人の良さがうかがえる。
「あっ、はい」
『あっ、ほら、堅苦しいのはなしにしよう。ゆうちゃんが綾の友達なら、俺の友達でもあるんだから』
「は……うん」
はいと言いそうになり、また堅苦しいと言われるの避け、言いなおした。また新さんに笑われた。ころころとよく笑う人だ。
私が、新さんを初めて見た時、向日葵みたいに笑う人だと思ったものだが、きっと電話越しにそんな笑顔を向けているのだろう。
『あのな、最近ずっっっと綾が君のことを心配していたんだよ。ゆうが変だ、ゆうがおかしい。暇さえあればそればっかりでさ。俺が聞いてみればいいだろって言うとね、無理には聞きたくないって言うんだよ。今日の綾のあの様子じゃ、話してくれたんだね?』
「はい、綾にはいつも心配かけて、その上、新さんにまで迷惑かけてしまってごめんなさい」
『そんなのいらないよ。俺のいない間、綾の相談に乗っててくれてたって聞いているからね。お互いさまってことで言いっこなしさ。長電話もなんだからもう切るよ。綾をよろしくね』
私が綾に代わりますって言うのを待たずに通話は途絶えていた。
「切れちゃった。綾に代ろうと思ったのに」
「いい、いい。私達は毎日顔付き合わせてるんだから。そんなに話す事もないよ」
そうなんだ、と私は呟きながら綾に携帯を手渡した。
暫くまったりとお菓子や飲み物を飲みながら、久しぶりに綾とゆっくりとおしゃべりを楽しんだ。それはまるで二人だけの修学旅行みたいで、学生に戻ったかのように楽しかった。
綾の為の布団を出して――妊婦は重い物持っちゃ駄目と綾が殆んどやってくれたのだが――、綾に先にお風呂を進め、私はぼんやりとテレビのお笑い番組を見ていた。
突然私の携帯が鳴り、私はびくっと飛び上がった。バックから携帯を取り出し、画面に出た名前を見て、さらに驚いた。
―――圭。