第62話
「圭は、何て言ったんだ?」
「翠の言う通りだ……って。私とは……もう……付き合えない……って。婚約も……解消してくれ……って」
辛くて辛くて死にそうなのに、私は生きている。悲しくて涙が出そうなのに一粒も出てこない。変なの、いつも泣き虫だって言われてるのに、涙が出ないなんて。どうしてかな。涙が凍っちゃったのかな。心と一緒に。カチカチに凍っているから出てこないのかな。
「嘘だな。圭の言ったことは嘘だな。あいつがお前を愛していない筈はないんだ。俺がそれを証明してやる」
普段よりもさらに低い声で私は少し驚いた。少し怒ったような声。
「う……そ……?」
恵人は、ああそうだ、とぼそりと呟いた。そりゃ、それが全部嘘だったらどんなにいいかって思うけど……。
「あいつがお前以外を好きになるわけない」
「だけど、圭は、私に秘密で……翠と会ってたんだよ。凄く……仲がよさそうで……お似合いだった」
あの時の衝撃は、今でもはっきりと思いだす事が出来る。
「何かあるんだ、何かがな……」
恵人は、圭のことを信じていなかった。いや、違う。圭の私への想いを信じていた。何の根拠があってそんな事を言うのかは解らないが。
「どうしてそんな……うっっっ」
私は突然吐き気を催し、口に手を当てた。
「おい、ゆう。大丈夫か!」
慌てた恵人が背中を摩ってくれる。
「平気。最近、考えることが多すぎて、ストレス溜まっちゃったかな」
「そのストレスに俺のこともあったんだろ、悪かったな。でももう、お前は何も考えんな。俺は翠と話す。俺の所に戻ってくれるまで何度だって話すよ。すぐには無理かもしれないけど、圭はお前の所に必ず返すから。いいな? お前は何も心配すんな」
私は大人しく頷いた。
だが、心の中ではこう思っていた。
翠は、恵人の所に戻るかもしれない。だけど、圭は……一度離れてしまった心は元に戻るのかな? 圭が帰ってくることはないような気がする。
「よし、じゃあ帰るぞ。家まで送る」
私を抱き起そうとしてくれたが、そこまで病人じゃないとその手を制した。
私は恵人に途中で薬局に寄って欲しいと申し出た。
私のアパートに辿り着くと、恵人に耳にたこが出来るほど、お前は何も考えるなと釘を刺された。
「俺が何とかする。だから、お前はストレス何か溜めんじゃねえぞ。俺は、お前のあんな顔二度と見たくないからな」
私が首を傾げると、恵人は苦笑した。
「お前は俺の唯一の女友達だ。それに、俺が世界で一番好きだった奴だ。お前を不幸にはさせねえよ。だから、いつまでもそんな顔してんな。俺に任せとけ」
恵人の意気込みの強さにクスッと笑った。
でも、恵人、今まで見た中で今の恵人が一番恰好良かったよ。笑っちゃってごめんね。
「何笑ってんだ、お前は」
「あはっ、ごめん。なんか恵人が柄にもなく頼もしいからつい…ね」
恵人の友情が凄く嬉しかった。やっと本当に本当の友達になれたんだって思ったら嬉しくって口元が綻んだ。
「やっっと、笑ったな。お前はいっつも笑ってろよ。お前の憎ったらしい笑顔が好きだったんだからな、俺は。今でも、違う意味でお前の笑顔が好きだからな」
お互いを好きだったことを話せるようになったね。でも、昔話にするにはあともう少し必要かもしれないね。きっとあと何年かしたら、皆で笑って話せるといいね。その時は、翠も圭もいてくれたらいい。
手を振って恵人を見送り、部屋に戻ると、先ず始めに私にはやるべき事があった。
私は目を凝らしてそれを見た。実際には、目を凝らさなくても明らかにそれは見えていた。
棒状の一番端っこに小さな丸い窓。その窓の中にはくっきりと赤い線が……。
私は急いで箱に入っていた説明書を何度も何度も読み返した。
……陽性。
間違える筈もなくくっきりと浮かび上がる赤い線がその結果を表していた。
屋上で吐き気を催した時、瞬時に浮かんだ一つの可能性――妊娠。
恵人の車の中で懸命に思いだしていた。最後に生理が来たのは一体いつだったのかを。そして、生理が来る予定の日からゆうに三週間以上がたっていた事に思い至る。
薬局に寄って貰い恵人も店内まで付き添うと言われたが、買った物を見られたくなかったので、強引に車に残って貰った。私が買ったもの――妊娠検査薬。
帰宅後、買ってきた妊娠検査薬で調べた結果が陽性だったのだ。
私は、しばしその鮮やかすぎる赤い線を見て動けずにいた。
自分が今どう感じているのか解らなかった。困惑しているのか、それとも喜んでいるのか。確かに困惑はしている、当り前だが。だけど、嬉しいのだ。大好きな圭の赤ちゃんが私のお腹の中に宿っているんだと思うと嬉しくって仕方がないのだ。
だからといって手放しで喜べる状態でないのも解っていた。私は、圭に別れを告げられてしまっているのだ。
圭には、この事は言えない。
唯一つ、私の中で固まっているもの、母親になるという決意。
私の中で大好きな圭との赤ちゃんをおろすなんてとてもじゃないが考えられなかった。私の選択肢にそれは初めからなかった。誰に反対されても、見放されても、たった一人でも私はこの子を産む。私は早々に一人でこの子を産み育てるのだと決めてしまった。誰になんと言われようとも。
翌日、私は午前中に半休を取って、産婦人科へと赴いた。
お腹の大きな妊婦さんや小さな小さな赤ちゃんを見て、心細さを感じていた。初めて入った産婦人科は、私を怖気づかせたのだ。それでも、1か月検診で現れる赤ちゃんの可愛らしさに次第に緊張は緩んでいった。
尿検査と触診の結果、比較的若い女性の医師に、妊娠8週目であることを言い渡された。出産予定日は来年の7月24日。
医師が私を見て、「産みますか?」と、尋ねるので、私は大きく頷いた。
「それじゃ、元気なお子さんを産みましょうね」
それまで、厳しい表情だった医師の表情が急に緩んで、優しい微笑みをかけてくれた。
私が一人で診察に来たことや、若さから子供をおろすと言い出すだろうと思われていたのかもしれない。医師も沢山そんなケースを見て来ているのかもしれない。
私は病院を出ると、その足で区役所に向かい、母子手帳を貰った。なんだかその手帳を手にしただけで、自分が母親になったようで、身が引き締まる思いだった。
午後から出勤した私を綾と恵人が心配そうに見ていた。
恵人の記憶が戻ったことは朝一でフロア中に知れ渡っていたようだ。
その日の夜、私は綾を部屋に招いた。綾にはまだ圭にフラれたことも、妊娠したことも話していなかった。綾にだけは、全てを話しておきたかった。一番の親友である綾には、聞いて貰いたかったのだ。
「圭にフラれちゃったよ、私」
苦笑いを浮かべ、私は綾にそう告げた。
「はあ? 何でよ!」
綾は怒りと興奮でそう叫んだ。私は綾を安心させようと、笑顔を向けた。
そして、会社で一人だった時に恵人に抱き締められ、それを見た翠が怒って私の大事なものを奪うと言ったこと。圭が隠れて翠と会っていたこと。翠が恵人を返すから圭を貰うと言ったこと。圭にフラれ、婚約を解消されたこと。恵人の記憶が戻った時のこと。それらを全て綾にぶちまけた。
全部話すのに長いことかかったのに、綾は途中で口を挟むこともせずに辛抱強く聞いていてくれた。
「そんな大変なことになってたのに、何で言ってくれなかったの」
少し責めているように、それでいて少し寂しそうに綾は言った。
「ごめんね。折角、綾、新さんが戻って来て幸せそうにしているのに、私の暗い話を聞かせたくなかったし、心配させたくなかった」
「ゆうの馬鹿。心配なんてするに決まってる、友達なんだから。話を聞かなくてもずっと心配してたんだから。あんたはすぐ顔に出るから解るんだからね。いつ話してくれるかずっと待ってたんだから」
このぉっと言って綾におでこを弾かれた。
「でも、昨日は死んだ魚みたいだったのに、何で今日はそんなにしっかりした顔してんの? 昨日の今日で一体何があったのよ」
綾は理解出来んと肩をすくめた。
それにしても、「死んだ魚みたい」って恵人にも昨日言われたな……、そんなに昨日の私は酷かったんだ。