第61話
屋上には誰もおらず、11月の風が冷たく、ぶるりと体が震えた。
日も殆ど暮れていたが、周りのビルの明かりで暗さは感じられなかった。
「何があったんだ?」
両肩を掴まれ、激しく揺さぶられた。恵人の瞳がとても真剣で、私は少し怖かった。
私は激しく頭を振った。
それを見て、恵人は溜息を一つ盛大に吐いた。そして、何かを決意したように熱い目を私に向けてこう言った。
「ゆう、俺には記憶がない。だけど、今、俺はお前が好きなんだ。今の俺には過去はどうでもいいって思う。俺と、結婚してくれないか」
恵人の言葉が言い終わるのを待って、私の携帯が鳴り始めた。
大○愛の『さくらんぼ』。翠が凄く好きだった曲で、カラオケに行けば必ず歌っていたし、鼻歌もよくしていた。あまりに毎日この曲を歌っているので、私と恵人は、半ば呆れて聞いていた。
恵人の記憶が戻るきっかけになればと、着うたに設定していたのだが、恵人の前で私の携帯が鳴ることは今までなかったのだ。
携帯が鳴り始めた途端、恵人が呆然としたようにどこか遠くを見つめていた。
私は恵人の突然の変化に目が離せなかった。携帯をとることもせず、ただどこかを見つめる恵人を見ていると、恵人の瞳から涙が一筋零れたのを見た。はっと私は息を詰めてそれを見つめていた。
やがて、携帯のメロディが途絶えた。
「恵人? どうしたの?」
私の声に、恵人は初めてこちらを見た。先程の熱い目は消えていた。
「ゆう……。俺……、全て思い出したみたいだ」
翠が大好きだった歌が、恵人の記憶を取り戻したのだ。そうか、思い出の歌や曲も記憶を取り戻すきっかけになったんだ。もっと早くに聴かせるべきだった。そうすれば、もっと早くに記憶は取り戻せたかもしれないのに。
「翠のことも、圭のことも、私のことも、あの事故の日のことも?」
恵人は真剣な面持ちで頷いた。
「事故の後から今までのことは?」
「それも覚えてる」
私の目からは、涙が一筋流れた。この涙は、嬉しさの涙か、ホッとしたために出たものなのかは解らない。
「何から話せばいいのか解らないけど……、おかえり恵人。それから、私を助けてくれて、ありがとう。ずっと、記憶が戻ったら真っ先に言おうと思ってたんだ」
本当は恵人が目覚めた時に真っ先に言いたかった、ありがとうと。だが、目覚めた恵人は記憶を失っていた。私が誰かも認識していない人間からお礼を言われても、恵人が困るだけだと考えて、あの時言えなかったのだ。
「お礼なんていらねぇよ。俺が勝手に飛び込んだんだ。それで……さ、さっき俺がお前に行ったことなんだけどさ」
さっき言った事……? あっ、結婚しようって言われてたんだった。若干次の言葉に身構えた。
「あれ、忘れてくれ」
私はその言葉に心底ホッとしていた。恵人との結婚は、私にはどうしても考えられないことだった。そのことで今後の恵人との関係にギクシャクしたものを感じるのは嫌だった。
私は微笑んで頷いた。その私の表情を見て、恵人は、安心したようにニタッと笑った。
「悪いな。お前には迷惑なこと沢山しちまったよな。ずっと持ち続けていたお前への気持ちが大きかったから、それを好きだと勘違いしたんだ。確かに俺はずっとお前が好きだったよ。お前と圭の姿を見るのも辛かった時期もあった。それは否定出来ねぇ。だけどな、あの旅行の時には、俺の気持ちも変わってたんだよ。俺は翠を愛してたよ。あいつには、記憶を失う前、酷いことしてしまったって思ってる。だから、その分、これからの人生はあいつだけを見て行こうって決めてたんだよ。勿論、お前との古傷が疼く時だってあったけどな。……それなのに、俺はさらにあいつを追い詰めちまった。あいつを追い詰めたのは、紛れもなく俺だ」
恵人の翠への想いが、私が考えていた通りで正直ホッとした。そして、何より嬉しかった。翠はちゃんと恵人に愛されていたんだ。翠は恵人に愛されていないと言っていたけれど、それはやっぱり間違いだったんだ。
「でも、離婚届出しちゃったんじゃないの?」
「いや、出してない。記憶が戻ってもいないのに、無闇に出すべきものじゃないだろ? 記憶が戻った時に後悔したくなかったからな。ところで、お前が今日一日死んだ魚みたいだったのは、あの二人に関係することなんだろ? 話せよ。俺にも無関係じゃない筈だ」
死んだ魚みたいって、私そんなにひどい状態だったんだ……。
「……」
「翠は俺の妻だ。あいつのことに関して聞く権利があるんじゃないのか。話すのは辛いかもしれないけど、頼む、話してくれ」
勿論、恵人には聞く権利があるのだから話すつもりでいる。だが、喉が詰まったようになって言葉がなかなか出てこないのだ。
「ゆう、ごめんな。辛いことなんだな。ゆっくりでいいんだ、頼む」
恵人に話したら、翠は恵人の元に戻るのかな。圭は私の元に戻って来てくれるのかな。解らない。だけど、恵人は知るべきなんだよね。
大きく息を吸ったら、ひゅっと喉が鳴った。
「……昨日、翠に……会いたいって…言われて……」
恵人は私の呼吸を安定させようと背中を摩ってくれた。どうやら過呼吸のような状態になっているようだ。なるべく大きく深呼吸して、空気を取り込んだ。
少し落ち着いたところで、話しの先を続けた。
「待ち合せの喫茶店で待ってたら……はぁはぁ……翠と圭が……来たの」
そこで一度空気を吸った。なかなか呼吸が上手く出来なくて苦しかった。恵人は辛抱強く私を待っていてくれた。
「翠は……私が……高校の時に、恵人が好きだったことも、……ずっと……好きでい続けていた事も……知ってる…って言った。恵人が……私にくれた……手紙も、私が恵人に……出した手紙も……翠は、自分が隠して……燃やしたって…言った」
恵人の顔を、荒い息を吐きながら覗き込んだ。恵人は驚いたように、目を丸くしていた。私は弥生からある程度のことは聞いていたから、そんなに驚きはしないが、恵人は、今初めて知ったのだろう。
「私は……知ってた。弥生が…話してくれた。弥生も翠も……自分がやったって……言ってる。でも、もうその事は……、いいかなって…思う。終わったこと……なんだし。翠は……、私も恵人も……お互いを忘れられずに……いることを……知っていた。だから、私が…ずっと…邪魔だった」
そこまで言って私は咳き込んだ。恵人は私の言葉に衝撃を受けながらも、私の背中を甲斐甲斐しく摩ってくれていた。
「邪魔者を……恵人から遠ざける為に、私に…圭を紹介した。私が……やっと…圭と付き合うようになって…ホッとした矢先に、あの事故が……あって、恵人は勘違いで……私を……好きだと思い込んでいった。それが、翠には……耐えられなかったのよ」
一呼吸を置いた。恵人は何かを思いつめたように苦しい顔をしていた。
「翠は……、翠は……」
息がつまって苦しかった。いつの間にか拳を強く握りしめていた。
「翠は……恵人を私に返すと……、その代り……圭を……いただくと言った。翠はもう圭を愛してるし、……圭も……愛してくれていると言ったわ」
胸が張り裂けるかと思った。自分の口から言葉を紡ぎ出した途端、無情にも全てが現実になったんだと感じた。
夢であって欲しいと何度思ったことだろう。しかし、何度そう思っても現実には違いないのだった。それは紛れもない事実なのだ。