第60話
ここにいる筈のないあの人を見て、私は息を呑んだ。
「圭……、どうしてここに?」
圭はそれには何も答えずににこりと私に微笑んだ。その笑顔は、とても他人行儀なもので、いつもの優しい笑顔ではなかった。義理で微笑まれたような感じ。
翠が私の向こう側に座り、翠は圭の腕を引っ張り、自分の隣に座るように促した。
圭? どうして翠の隣に座るの?
まるで自分はここに座るのが当たり前というような圭の態度に私は寒くもないのに身震いした。
これから始まろうとしている話は私を闇につき落とすに違いない。そんな嫌な予感が私を絡め取ろうとしていた。
私は何も言えず圭を見ていた。圭は無表情で平然とそこに座っていた。
「ゆう」
翠に呼ばれ私は翠に視線を移した。
「あなたに恵人を返してあげる。高校3年の時、あなたが恵人を好きだったのも告白しようとしていたのも知ってた。手紙を隠したのは、この私よ。弥生じゃ無くね。私は恵人を手に入れる為にあなたと恵人の手紙をとって燃やした。恵人は私の彼になったけど、あなたのことをいつまでたっても忘れられずにいたわ。そして、あなたもね」
私は、淡々と語る翠の顔を呆然と見ていた。私を「あなた」という翠を私は寂しく思った。そんな風に呼ばれたことは一度だってなかった。「あなた」という言葉が出てくる度に、私の胸は、ズキズキと痛み出す。
「あなたの前で大袈裟に恵人に甘えてみたり、スキンシップをわざととってあなたの傷つく顔を見てた。あなたも恵人も私が何も気づいていないと思っていたでしょ? 全部知ってたのよ。だから、私は圭をあなたに紹介した」
翠、今まで圭のことを矢田さんと呼んでいたのに……。二人はそんな風に呼び合うほど親しくなってしまったということなのか。圭は、翠を呼び捨てにしているのかな。
視線を圭にちらっと移すと、圭は無表情でコーヒーを啜っていた。今日は、何も喋るつもりがないのかもしれない。
「やっと邪魔者は消えたと思ってたのに、あの事故で恵人は私を忘れた。耐えられなかった。あなたのことも忘れたのに、またあなたに惹かれ始めている恵人を間近で見るのは……」
やっぱり翠は私を邪魔者だと思っていたんだ。自分で予期していた事でも、いざ本人にはっきりとそう告げられると心が折れそうになる。
「私は、高校の時にあなたから恵人を奪ってしまった。だから、今お返しするわ。その代り、私は圭をあなたから戴くことにしたの」
ここに圭が翠と来た時から予感はしていた、こうなるんだろうなって。
ああ、泣きたいのに涙が出ない。何か言わなきゃと思うのに喉が熱くて言葉も出てこない。私は金魚のように口をぱくぱくさせていた。
「圭は、もう私を愛してくれてるの。やっとこれですべて丸く納まるわね」
私は圭を見た。圭は無表情で冷たい瞳を私に向け、こう言った。
「翠の言った通りだ。君とはこれ以上付き合えない。婚約も解消してくれるかな」
低く無慈悲な冷たい声。愛情のかけらも感じられない声。その同じ口で「愛してる」と言ってくれたのは、一昨日だっただろうか。その舌の根が乾かぬうちにこんな事を言われるとは、思いもしなかった。もう、もはや私の知っている圭ではないのかもしれない。
私が何も話せないでいると、翠が圭を促し席を立った。
「それじゃ、私達行くわね。恵人とお幸せに」
翠の言葉に何も返す事が出来なかった。圭は一度も振り向かなかった。何か言うことも、追いかけることも出来なかった。翠に負い目があるから。本当は、意地もプライドもかなぐり捨てて、泣き叫んで、縋り付きたかった。でも結局私は何一つ出来なかった。二人の背中を見送るだけ、圭の背中を見送るだけ。
圭を失って私はどうやって生きて行けというのか。私の隣には二度と圭は来てくれない。私の頭を優しく撫でてくれることも、手を繋ぐ事も、私の大好きなあの声で名前を呼ばれる事も、優しくそして激しく私を酔わせてくれるあのキスをくれることも、私を見て眩しそうに微笑んでくれることも、私を蕩けさせるような甘い言葉を囁くことも、私をからかって可笑しそうに笑う圭を見ることも、私が悩んでいる時に励ましてくれることも二度と……ないんだ。
私が大好きだった圭はもういない。
胸が痛くて苦しいのに、上手く呼吸が出来なくて苦しいのに涙は出ない。
本当に悲しい時って涙が出ないものなのかな。
心が悲鳴を上げていた。心が泣いていた。
それからどうやってアパートまで辿りついたのか、記憶になかった。私の視界に入るものすべてが虚ろに見えた。全ての音も色も何も聞こえないし、見えない。全てが白黒で味気のないものに見えた。
私は部屋に着くと、何をする気にもなれず、ベッドに倒れ込んだ。服が皺になってしまうことも、化粧をしたまま寝たら肌が荒れてしまうことも何も気にならない。
何も考えずに眠りに落ちたかった。目を閉じて何もかも取り払って無心になりたかった。
それでも瞼を閉じた黒い闇の中には、圭の大きな背中だけが浮かんでくる。大きな筈の背中が徐々に小さくなって消えていく。そして、見えなくなり暗闇だけになる。何度も何度も圭の背中を見送り、私はやっと意識を突き放した。
このまま何も見ずにいれるなら、目なんか覚めなければいい。
見たくない。見たくないよ……、圭のいない現実なんて……。
翌日の目覚めは最低なものだった。
夢を見ていたのは覚えているが、それがどんなものだったのかは思い出せない。解るのは、圭と翠が出てきたに違いないこと。体に嫌な汗が纏わりついていた。
それでも、動きたくないと叫ぶ心と体に鞭打って、会社に出勤した。
こんな時でも、人って笑って挨拶出来るもんなんだなって他人事のように考えていた。
いつもと何となく雰囲気が違うと気付いたのだろう。綾が難しい顔をして話し掛けてくる。
「何かあったんでしょ?」
私が曖昧に微笑むと、綾の表情がさらに強張り悲しそうなものに変わった。
「話したくないなら、今は聞かないよ。だけど、絶対に一人で抱え込まないでね」
綾の気持ちは嬉しかった。だけど、とても誰かに話したいとは思えなかった。いつもなら、誰かに聞いてもらえば、楽になると思っていたし、実際に楽になれたのだ。だが、今回ばかりは誰かに話せばもっと辛くなるように思えた。
まだ、私には、昨日の出来事が本当にあった事とは思えなかった。いや、思いたくなかったのだ。誰かに話せばそれが完全なる事実になってしまう。そう思えるのだ。頭では解っているのだ。そう、十分理解しているのだ。あれが事実以外の何物でもないのだと。
心配顔の綾に、ありがとう、と笑顔を向け、それ以上話してはいられず逃げるようにデスクに着いた。背後で綾の、あっ、という呟き声が聞こえたが、振り向くことはしなかった。
その日の終業後、私は帰ろうとデスクを立った。今日一日はなんとか乗り切ることが出来たと思っていた。
帰ろうとする私を綾が呼び止め、飲みに行かないかと誘うが、私はそれを丁重に断った。早く一人になりたかった。いや、一人になりたいわけではない。自分でもどうしていいか解らないのだ。知っている誰かと接しているよりも、宛てもなく街中を歩き回っていたかった。誰も知らない、誰も私を引き止めはしない、そんな街中を。完全に一人きりになるのは少し怖かった。だから、私は会社を出たら少し普段歩かない街を歩いてみようと思っていた。
だが、エレベーター前で待っていた私の腕を、恵人がむんずと掴み、半ば強引に屋上に連れていかれた。