第59話
私は気付いたら自分の部屋にいた。辛うじて電気はついていたが、私は上着を着たまま座り込んでいた。
涙も出ない。ただただ何を信じればいいのかが解らなかったのだ。
突如、ドアのチャイムが鳴り、私はびくりと体を硬直させた。
誰? そんなの考えなくても解る。こんな時間にこの部屋を訪れるのは圭ただ一人だけ。だけど、さっき翠と一緒にいたんだ。どういうつもりでここに来たんだろう?
私は無意識にドアを開けていた。そこには、いつもの笑顔を見せる圭がいた。一瞬泣きそうになったが、気付かれたくなくて懸命に笑顔を作った。
勘の鋭い圭は、私の変化にすぐに気付くのだが、今日はどうやら大丈夫だったようだ。密かにホッと息を吐き、圭をリビングに通した。冷蔵庫のビールを取ろうとしゃがみ込みながら私は圭に問いかけた。
「今日は残業だったの?」
「そうだよ。急に仕事押し付けられたんだ。今の今まで会社にいたんだ」
圭が……私に嘘をついた。翠と会っていたのに、会社にいたなんて嘘をついた。
どうしてそんな嘘を吐くの? 隠さなければならないことなの? 私の心がどんどんと冷えて行くのが解った。
「そうなんだ。大変だったね」
圭にビールを渡しながら、気付かれないように明るくそう言ったが、私の心は泣いていた。涙が今にも出て来そうで私は慌てた。
「ごめん、圭。今日私、実は具合悪くてもう横になってもいいかな?」
涙が出そうで引き攣った笑顔を何とか作ってそう言った。具合が悪いというのは、強ち嘘ではなかった。実際、最近の私は体調が思わしくなかった。食欲があまりなく胃がむかむかしていた。恐らく最近色んな事が重なって、精神的に参って来ているのだと思った。
私は、すぐにパジャマに着替えてベッドに入った。
圭が心配してずっと私の傍から離れようとしない。おでこに手を当てて熱を測ったり、頭を優しく撫でてくれたり、いつも圭が私にしてくれていることが、今日は何だかとても痛い。
泣きたくても涙が出せず、喉と鼻の奥が熱くなった。
きっと圭は本当に心配してくれている。だけど、私はそんな圭を嘘かもしれないと疑っているのだ。
私は苦しみの中で、圭の手の温もりを感じながら眠りについた。
私が夜中目を覚ました時、圭はベッドの横に座り、私の頭の横に頭を突っ伏して寝ていた。私を心配してずっと手を握ってくれていた。
私の体調を気にして、同じベッドに入らずにここで寝ちゃったんだね。私が僅かに動いたことで圭はパッと目を覚ました。
「ゆう、大丈夫か? 俺がついているからすぐに良くなるからな」
優しい柔らかい笑顔で私の頬を撫でた。
私は圭の何を見ていたんだろう。圭は、私をこんなに愛してくれているのに。
確かに圭は翠と会っていたし、そのことを私に隠した。そうしなければならない理由があったのではないかとそう思えたのだ。
翠は圭を奪うと仄めかした。圭を昨日、翠は誘惑したのかもしれない。だけど、圭はここに来てくれた。私の所に帰って来てくれた。
それが答えなんじゃないのかな。
私がやきもち妬いて心配するから、圭は私の為に嘘をついたんじゃないのかな。
冷静に圭を見ていたら圭がそんな事をしないって解るのにどうして信じられなかったんだろう。
「圭、ごめんね。入って。圭が風邪引いちゃう」
私は布団をめくり圭に中に入るよう促した。
「中に入ったら俺、ゆうに手を出さずにはいられなくなるから」
「いいよ」
私は促すように圭の手を軽く引いた。
圭が嬉しそうに微笑むと、ベッドの中に潜り込んで来た。
どちらからともなく引き寄せ合うように唇を重ねる。
「あったかい」
圭が幸せそうに唇を放して呟いた。圭の唇も体も驚くほどに冷えていた。
ごめんね、圭。私が温めてあげるから。私は圭の体に腕を回し自分の体を圭に合わせた。
「愛してるよ、ゆう」
こんな人を私は信じることが出来なかった。ただ苦しくて見たままを受け取って、私、どうかしていた。でもね、好きだからこんなにも心が揺れるんだよね。圭だから、こんなにも熱い思いを抱けるんだよね。愛しいけど切ない、幸せだけど苦しい、楽しいけどしんどい。恋はいつもプラスとマイナスが隣り合わせ。でも、恋はそのどちらか一つだけでは、バランスが取れないんだよね。
人を好きになると楽しいことばかりじゃないけど、でも、もうこの恋は止められない。誰にも。今が、どんなに好きで一杯でも、もっともっと好きになる。好きが止まらない。止められない……。
気付くとカレンダーは11月がめくられていた。
暦上ではまだ秋の筈だが、吐く息は既に白く、風はすでに冬のもののようだった。
翠が家を出て、圭が翠と一緒にいるところを目撃してから、早いものでもう2週間以上はたっていた。
翠はいまだ家に帰らず、恵人の記憶もまだ以前戻らない状態だ。翠との連絡は取れないでいた。私からの電話、メールは着信拒否をしていた。
圭とは相変わらず上手くいっている――っと言っていいのだろうか。たまに用事があると、夜、会えない時がある。勿論、その用事が終われば、部屋に来てくれる。その用事とは、恐らく翠なんだろう。別に翠と会うのはいい(本当は物凄く嫌だが)、それを隠されているのが辛くて仕方ない。
圭を信じると決めた。だが、それでも圭がいない時は不安が否応なしに私を襲う。私はそれを考えぬように日々を過ごしていた。
恵人とは、翠がいないので、たまに外で会うようにしていた。あの家で二人きりになるのは些か不安を感じるからだ。居酒屋などに行き、写真を見せながら想い出話を聞かせている。たまに思い出しそうになる時もあるようだが、完全に戻るまでには至らなかった。
私が淡々と面白味も何もない事務仕事をこなしていると、私の携帯が震えた。瑛子さんに見咎められないようにこっそりと覗く。
それは、翠からのメールだった。逸る気持ちをなんとか落ち着かせて本文を見る。
『今夜19時にいつものカフェで待ってる』
私の都合を聞くでもなくあまりに素っ気無い文。絵文字も何もついていない。翠からのメールで、こんな面白味のないメールを送られたのは今日が初めてだった。
翠が私を憎んでいるのがこのメールを見れば解る。
今、翠に会うのは怖い。だけど、話さないといけない。翠が私を憎んでいるのなら、それを受け止めたい。翠が、今何を感じているのか知りたい。
私達は元の以前のように戻れるんだろうか。それはすごく難しくて、無理なんじゃないかって弱気な気持ちが私を震えさせる。
仕事が終わると、綾の誘いを断り翠が指定したカフェに向かった。
このカフェは学生時代に私達が良く利用していたところで、お洒落で落ち着いていて、そして何より学生に優しい値段だった為、毎日のように入り浸っていた。ここで、色んな話をしたり、テスト勉強をしたり、喧嘩したり、懐かしい想い出の場所なのだ。
だが、久しぶりに足を踏み入れると、少し寂れた感じがした。店内には客は一組しかおらず、寂しい感じの雰囲気だった。
こんな感じだったかしら。私達がよく来ていた時には、もっと人がいて、明るいアットホームな雰囲気だったはずだ。
酷く声の小さい店員さんにミルクティーを頼んだ。
窓際の席で外を行きかう人たちを無心に見ていた。行きかう人たちを目で追ってはいるものの、何も思うことはなかった。
窓の外ばかり見ていて、テーブルの前に立つ二人の影にさえ気付かなかった。
「ゆう」
今までに聞いた事がないほど、低く冷たい翠の声に私はハッと振り返った。
そしてそこに立つ翠と、ここにいる筈のないあの人を私は見た。
あの人を見て、私は息を呑んだ。