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Bitter Kiss  作者: 海堂莉子
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第58話

「嬉しいよ、ゆう」

 不意に聞こえる圭の言葉に私は驚き顔を上げる。

「どうして?」

「俺にはゆうの心が透けて見えるみたいだ」

 笑ってあっさりとそう言った。さっきまで考えていた全てのことが圭にだだ漏れだったってことなんだね。

「うざくないの?」

「うざいわけないだろ。俺もゆうと同じだよ。ゆうと経験する全てのことが幸せだよ。楽しいことも苦しいことも、ゆうと一緒なら全てが愛おしく感じる」

 私は右手を上げ、圭の頬に触れた。

 どうして涙が出てくるんだろう……。悲しいわけじゃない。苦しいわけでもない。ただ愛しい……。圭が愛おしい。

 溢れて漏れ出した私の感情が涙の雫となったのかな。

 圭が私の涙をとても大事そうに舐めた。しょっぱいと、圭は呟いてくくっと笑った。私もくすっと笑う。

 圭が私の笑顔を見て、目を細めている。私の大好きな表情の一つ。私を眩しいものでも見るような細い目。その表情を見ると、自分がどれだけ愛されているかが解る。その笑顔を見るだけで、どんなに不安になっても慰められる。

 圭の唇で私は口を塞がれた。圭の唇が少ししょっぱいのは、私の涙を舐めたからだね。

 徐々に激しさと深さを増す圭のキスに私は膝から崩折れた。圭に支えられ、そのまま床に横たわらせた。

 まだ、誰か戻ってくるかもしれない。そんな危うい状況なのに、二人の愛を止めることはもはや出来なかった。今、圭に深く愛されたくて仕方がなかった。その方法しか二人を結ぶものがないかのように。激しく、そして深く。愛の快楽に二人で落ちて行く。


「また、会社で……」

 私が済んだ後に少し後悔していると、後ろから圭に抱き締められた。

「ゆうが可愛いから止まらないんだ。今度は、どっちでやろっか?」

 圭が私をからかっているのなんて解ってるから、もう知らないと、少し不貞腐れたふりをする。

「ゆう、もう仕事終わった?」

「ううん、まだもう少しあるよ」

 情事の余韻が冷めやらぬ中、圭の言葉で突如現実へと引き戻される。

 圭の腕の中から逃れると、身だしなみを整えて、パソコンの前に座る。

「ゆうが終わるまで待っててもいいかな?」

 いつの間にか隣の席の椅子に座っている圭がそう言った。私は微笑み頷くと、仕事に取り掛かる。殆どは終わっていたので、あと10分くらいで片づく予定だ。

「仕事している時のゆうもいいね。真剣な顔が可愛い。俺、ゆうの上司になりたかったな。そしたら、社内で色んな事で来たのにな」

 くつくつと笑う圭をやんわりと睨みつけた。本当はきつく睨みつけるつもりだったんだけど、頬が緩んで上手くいかなかった。

「また、からかう」

「男ってのはさ、好きな女の子にちょっかい出したくなるものなんだよ。男の愛情表現ってやつさ」

 うんうんと、自分の言った事に頷き納得しながらそう言う。

「ガキ……」

 私が小さく呟くと、圭はそれをしっかりと耳に入れていたようで、私の後ろに回ると腕を首に巻き付け軽く締めた。

「ガキとはなんだぁ、お仕置きだべぇ」

 滅多に聞けない圭の似ても似つかない変なものまねを聞いて私は吹き出した。

「ハハハっ、ドロンジョ様だ〜。あれ? それ言うのドロンジョ様でいいんだっけ?」

「違うんじゃない? ボスみたいなやつが言うんだよ」

 そうか、ドロンジョ様は女の人だもんね。あのセリフを言うのは、渋い男の人の声だった。って私達は何でこんな会話をしているんだろう。そんな疑問にいたってクスッと笑った。

 首を絞めていた圭の腕は、自然に後ろから抱き締められている形に変わり、圭の顎が私の肩に乗っていた。

「あっ、そこゆう違ってるんじゃない?」

 圭に指ささ手慌ててその箇所を確認する。

「うわっ、本当だよ。ありがとう、圭」

 肩ごしの圭を振り向くと、素早くキスをされた。そんな小さなことでどぎまぎと真っ赤になってしまった私を圭が笑っていた。

 圭の軽快な笑い声が耳元で聞こえ、くすぐったくて肩を上げた。

「くすぐったかった?」

「うん。だって顎乗せたまま笑ったら、くすぐったいよ」

 ごめん、と圭は言って今度は耳元に息を吹きかける。びくっとなって画面上の1の数字が連打された。

「あ〜、もう圭。邪魔しないで」

 怒ってるつもりだったけど、全然怖くなかったと思う。だって、本当は全然嫌じゃなかったんだから。

「もう邪魔しない。だから、片付けて早く帰ろう。早く帰って○○○○しよう」

 最後の一言を圭は私の耳元に小さな声で囁いた。私はその一言で沸騰した薬缶みたいに湯気を噴いた。圭は、私の反応を見て満足気に笑っていた。

 圭が私に行った最後の言葉は……とても言えません、私の口からは。だって、恥かしいもの。


 その翌朝、いつもの通り一番乗りに会社に着き、清掃をしていると、真っ青な顔をした恵人がのそりのそりと入って来た。

 おはようございますと、私が言うと、口元をほんの少しだけ上げて、おはよう、と言った。いや、声は聞こえなかった。ただ、その口の動きで、そう言ったのが解ったのだ。

「あのあと、翠と何かあったの?」

 あまりの元気のなさに驚いてそう尋ねた。

「昨日、家に着いたら、テーブルの上に置き手紙があった。『さようなら。今までありがとう』ってな。その手紙の下に翠の判が捺された離婚届があった」

 翠が家を出た? あんなに恵人を愛している翠が家を出るなんて私には到底信じられないことだった。それだけ、昨日のことがこたえているんだ。

 何とか誤解を解きたい。翠にちゃんと解って貰いたい。私は、翠にその日何度も電話をかけたが、電源を切ってしまっているようで繋がらない。メールにもメッセージを送ったが、返事が返ってくることはなかった。

 きっと翠は実家に帰っているんだろう。若しくは、健司さんの所か。電話をして確かめたい気持ちもあるのだが、そこに翠がいなかったら、逆にどういうことなんだと詰め寄られる事になるかもしれない。

 その日は夕方まで何度も試したが、いい結果は出なかった。

 今日は、圭から急な用事があるから先に帰っていてくれるようにとメールが入っていた。

 しょんぼりとした気持ちを振り払おうと駅前の本屋に寄ることにした。

 駅前を歩いていると、圭の後姿を見つけた。大分遠くにいるが、あれは間違いなく圭だ。声をかけるには少々遠すぎる。圭がまだ他の人と一緒でないのなら、近くに行って声をかけようと歩き始めたが、その足はすぐに止まった。

 その光景は私を一瞬に凍りつかせた。

 圭が待っていたのは翠だった。ここから見る二人はまるで恋人同士のようだった。何より私の心を凍りつかせたのは、楽しそうにする圭の笑顔だった。私以外の人にそんな笑顔を見せないで。

 周りの雑音が消えた。圭と翠の笑い声だけが聞こえてくるような気がした。

『あんたの大事な物も私が奪ってあげる』

 突如思い出した翠の怒声。

 翠は本気で圭を私から奪うつもりなの? そんなに私が憎いの?

 翠が圭の腕に手を絡めた。いつも恵人にしているように。圭は、それを嫌がる風でもなく受け止めている。

 やがて二人は私の視界から姿を消した。

 二人が去った後も金縛りにあったように私は動けなかった。

 今のは……何? 圭……。昨日あんなに好きだと言ってくれたのに。あんなに微笑んでくれたのに。あんなに愛してくれたのに。圭……、どれが本当で、どれが嘘なの?

 圭が翠に向けた笑顔が頭にこびりついて離れなかった。

 私だけの圭だと思っていた。実際、そうだったのだ。翠の考えている事も、圭が考えている事も何一つ解らなかった。

 魂を抜かれた様にふぬけた私はふらりふらりと本屋に寄ることも忘れ、どこにともなく歩き続けた。


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