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Bitter Kiss  作者: 海堂莉子
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第56話

 私はその日の夜、浮かない気持ちで、それでも気持ちを何とか奮い起こして近藤家に向かった。

 相変わらずの翠の挨拶に出迎えられて、早々に部屋の中へと通された。

 恵人の頭の傷は大分良くなり、来週か再来週には会社復帰も考えられると医師に言われたようだ。

 恵人の記憶はまだ一つも戻っていなかった。だが、翠は以前のように生活し、恵人に接するように心掛けているようだった。

 いつものように食後リビングでアルバムを見ながら想い出話を聞かせていた。翠はキッチンで洗い物をしていて、私は恵人と二人でリビングにいた。

「この頃、翠と恵人が付き合いだしたんだよ」

 翠と恵人が照れくさそうに顔を真っ赤にして写っている写真。今よりも幾分若い翠の嬉しそうな笑顔が眩しい。

「俺、この時本当に彼女が好きだったのか?」

 ぼそりと呟く声に驚き、私は恵人を見た。

「お前は何であの時、屋上に来なかったんだ?」

 真剣な表情の恵人に動揺した。

 今、恵人はいったいなんて言ったの? あの時……。あの時って、恵人が屋上に来てくれっていう手紙を下駄箱に入れた時のことだ……よね?

 実際に私がその手紙を見ることはなかったのだが。

 恵人……、もしかして思い出したの?

「恵人?」

 呼び掛けると急に頭を抱えて苦しみ出した。

「くっっっ」

「恵人!!! 翠! 恵人が……」

 私の声を聞きつけて翠がキッチンから青い顔して駆けつけた。恵人を一先ずソファに横にする。5分くらいすると、何もなかったようにむくりと起き出した。

「こんな風になるのは初めて?」

 翠に聞くとこれまでにも何度かあったようだ。医師にも相談したところ意識障害に伴う一時的なもので問題ないとのこと。薬は何種類か貰っているので、そんな事態になった場合はそれを呑ませているのだそうだ。気憶が戻れば頭痛もなくなると医師は言っている。

 私はこれ以上、刺激するのは良くないだろうと思い、おいとますることにした。恵人が送ると言ったが、先ほど頭痛を起こしたばかりの恵人に送って貰うわけにもいかないと拒否した。

 恵人は、確かにあの時、何かを思い出そうとしていた。何度かあんなことがあったというなら、恵人が言わないだけで、断片的にでも少しずつ思い出しているのかもしれない。そんな事を帰りのバスの中でぼんやりと考えていた。


 それから暫くたった10月のとある月曜日。

 その日は、恵人が会社復帰をする日だった。依然、恵人の記憶は戻っていなかった。

 恵人は、会社に戻るにあたり、自分で作成していたノート―作業手順や先輩に習った事、会った取引先の方たちの特徴何かが綴ってある―を大分前からおさらいしていた。自分の担当する取引先の方の知識はなんとか頭に叩き込んだようだ。

 自分の記憶がないことで、同僚や上司の足を引っ張りたくなかったようだ。

 そして、恵人が出勤すると皆の歓迎を受けた。予め私が会社内の人物の写真と役職、特徴何かをまとめた物を渡していた。その為か恵人が会社で困ることはなかった。私と恵人が知り合いである事は黙っておいてほしいと口が酸っぱくなるほどいい含めた。

 こうして、表面上は夏休み前と変わらない状態に戻って行ったのだ。

 圭の仕事は、忙しい時期とそうでない時期が月の半々といった所で余裕のある時期は毎日のように会っていた。圭の部屋に行くと、未知がこっちに住んじゃえばいいのにと言ってくれるが、まだそれは早いような気がした。とにもかくにも圭との関係は上手くいっていた。表面上は。表面下では、私は恵人と翠の事に不安を感じていたし、圭は恵人の事については自分から進んで何も聞こうとしなかった。そんな圭を見ると、逆に気にしているんだろうと考えずにはいられなかった。早く恵人の記憶が戻って圭との結婚を現実のものにして行きたい。そう常に思っていた。

「圭、好きだよ」

 私は圭の部屋にいた。突然前触れもなく言った私の一言に、一瞬驚いたようだったが、すぐに笑顔をくれた。

「俺も、ゆうが大好きだよ」

 隣に座り肩を引き寄せ、圭の肩に私の頭を乗せた。

「ずっと一緒にいたいな」

「ずっと一緒だよ」

「私ね、本当は不安なの。圭がいつかどこか遠く、私の手の届かない所に行ってしまいそうで」

 最近ずっと感じていた漠然とした不安。自分では、もうこの胸のもやもやをどうすることも出来そうになかった。不安がどんどん広がって、底なし沼のように深く、どこまでも続いていくような気がした。

「約束したろ? ずっと一緒にいるって。もし……何かわけがあって二人がどうしても離れなきゃならない時が来ても、俺の気持ちは一生変わらない。変えられないんだ。それだけは信じて欲しい。俺は、生涯君を愛すよ。愛してるよ……ゆう。これから先もずっと。どんなことがあっても」

 圭の真剣な言葉が私の不安を徐々に溶かしていく。

 何があっても、今、圭が言ってくれた言葉を胸に留めて、信じて行こう。最近の私は、弱気になり過ぎていた。自分を信じよう。そして、愛する圭を信じよう。二人ならきっと大丈夫だから。

「私も……圭を愛してるよ」

 初めて言葉にした『愛してる』の一言。今までとても重ずぎる言葉で、一度も言った事がいない言葉。私みたいなお子ちゃまにはまだ早い言葉だと思っていた。でも、一生を通して、圭にだけは使っても、言ってもいい言葉なんだと思えた。圭だけに伝える大事な言葉。きっとこの先他の誰にも言うことはないだろう。例え、二人が何らかの事情で、離れ離れになってしまったとしても。

 愛を伝えあった二人は、惹きつけ合うように抱きあい、転がり落ちるようにベッドへと傾れ込んだ。そして、飽きることなく一晩中愛を語り合うのだ。

 次の日に未知に文句を言われるとも知らずに……。


 恵人が会社復帰してから一週間がたとうとしていた。

 その間何のトラブルもなく仕事をこなしているようだった。

 私はその日、残業を余儀なくされていた。フロアには、誰も残っていなかった。静かなフロアで一人黙々とパソコンに向かいデータを打ち込む。単調なリズムで繰り返される動作に時折睡魔が襲ってくる。

単純な作業という物は、どんな時間帯でも眠気を誘うものである。欠伸を噛み締めながら閉じそうになる瞼を何とか気力でこじ開けた。

 資料の束を眺めて、その資料の束の厚さにまだこんなにあるのかとげんなりする。

 気分転換に紅茶をいれてたっぷりとミルクを入れた。少し眠気を覚ます為にも一休みすることにした。

 給湯室から戻ってくると、誰もいない筈だったフロアに恵人がいることに気付いて、飛び上がるほどに驚いた。

 最初、恵人が幽霊かと思ってかなり驚き、危うくカップを取り落としそうになってしまい、慌ててカップを捕まえた。

「はあ、なんだ恵人かぁ。びっくりさせないでよ」

 私はそう言いながら、以前にもこんな会話をここでしたことがあったと思いだし、一人ひっそりと笑った。確かに夏休み前にもこんな事があった。あの時は、もう既に圭と付き合いだしたころだったか、それとも、付き合おうか迷っている時だったか。

「俺じゃ悪いのかよ」

 こうやっていっつも食ってかかって来るところは今も昔も全く変わらない。

「前にもこんなことあっただろ? 思い出せないけど、妙に懐かしいんだ」

 恵人が細い目をしてどこか遠くを見ていた。人間の体って本当に不思議、記憶を失っても体が覚えている。感覚としてここでこんなことがあったんだって解るんだろう。実際の記憶が無くても、そこで起きた感情を思い起こす事が出来る。

 恵人が動く気配に気づいて顔を上げようとした時、背後から抱き締められた。 


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