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Bitter Kiss  作者: 海堂莉子
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第55話

 その日の夜、私は圭にメールを送った。

『今仕事中? 邪魔しちゃったならごめんね。突然なんだけど、沙織が健司さんにひと目惚れしちゃったんだって。会わせてあげられないかな?』

 圭は仕事が忙しいみたいだから、返事がすぐに来るとは思っていなかった。それなのに、返事はメールではなく、その代りに私の携帯が鳴った。勿論圭だった。

「もしもし、圭? 仕事大丈夫だったの?」

『うん、今日はもう終わったから。増田さんのこと。健司は彼女いるよ』

「そうは言ったんだけど……」

 歯切れの悪い私の声を聞いて、圭はくくくっと低く笑った。

『ゆうって断れない性格だろ?』

 軽く弾んだ圭の笑い声とともに言われた言葉は痛い所をつく鋭いものだった。ううっと低く唸ると、圭はこうも続けた。

『俺のことも断り切れなかったから、付き合ってたりする?』

「そんなわけないでしょ! 私は圭が大好きで、私が一緒にいたかったんだよ」

 圭の言葉に弾けるように叫んだ私を、圭はくつくつと笑う。

『ごめん、知ってた。ただ、ゆうのその言葉が聞きたかったから、わざと言ったんだ。ごめんな』

 圭の声が心なしか弱々しい感じがして、どこかに消えて行きそうで、私まで悲しくなってしまった。

 仕事で大分疲れているのかもしれない。圭が私の一言で、少しでも元気を出してくれるのなら、私は何度だって言うよ。どんなに恥かしい言葉でも。

「圭、好きだよ。大好きっ。私には圭だけだよ。圭以外の人好きになったりしない」

『ありがとう、ゆう。俺も大好きだよ』

 耳元から聞こえる低くて優しい圭の声が耳に心地よく響き、私は一人体を熱くした。圭がすぐ傍にいて、耳元で囁いているような錯覚に陥った。

「本当だ。凄いね。圭の好きって言葉聞いたら元気が出て来た。好きな人に貰う好きって言葉のパワーは偉大なんだね」

 心の中がほんわかと温かくなって、その中心が熱く力がみなぎってくるような感じ。そして、自然に頬が緩み、笑顔が零れる。

 圭が私の彼氏で、本当に幸せだって思える。いつの間にか私は笑っていたのに、目からは涙が零れていた。

『ゆう、泣いてるの?』

 私の微かな空気の異変に気付いたのか、圭が心配そうに尋ねる。

「違うの。悲しくて泣いてるんじゃなくて、幸せで。なんか嬉しくて涙が出て来た」

 私の心は、とてもクリアで、その透き通った空間の中にただ一人圭の存在だけがそこにあった。

 良い恋をしていると、心も澄んでいくのかな。

 恋には、苦しいのも、楽しいのも、激しいのも、儚いのも、速いのも、遅いのも、温かいのも、冷たいのも星の数だけあるけど、私が今圭としている恋が世界で一番だと思える。そして、世界で一番圭が好き。全世界の人に会ったわけじゃない。私の今までの人生で知り合った人の数なんてほんの一握りでしかない。それでも、私は圭が世界で一番好きだと言い切れる。この先、もし圭とお別れする時が来るとしても、私が死ぬ時に最後に思い出す一番に愛した人は圭なんだと、それは必然的に決まっているような気がした。これ以上、愛する人も、愛される人もいない。

 だから私は圭と出会えた奇跡を私の宝物だと思う。


 翌日の金曜日。

 出勤して、綾に昨日はどうだったか惚気話でも聞こうかと思ったのだが、綾の顔を一目見て、その顔だけで全てを語っているようで、聞く必要もなさそうだった。昨日の午後よりもさらにデレデレな顔をしており、顔に締まりがない。

 綾の話によれば、暫くは綾のマンションに一緒に住む事になるそうだ。早速、今日から就職活動を始めたようだ。綾が新さんと結婚なんてことになるのも時間の問題かもしれない。

「今日、新を改めて紹介したいんだけど、今夜空いてる?」

 綾の弾んだ声が私の心をも弾ませる。

「ごめん。今日は翠の所に行こうと思ってるんだ」

 綾と新さんのラブラブなツーショットを見て和みたいのは山々なのだが、恵人と翠のことを放っておくわけにはいかないのだ。だけど、恵人のことを考えると、たちまち気が重くなって来た。この間の恵人の態度、物言いは、私を不安にさせるのには十分すぎるものだったのだ。

「何かあった?」

 綾は、自分はラブラブでデレデレでも、周りの事には目が言っているようで、私の浮かない顔にすぐに気付いた。相変わらず鋭い、というよりも私が恐らく解り易いのかもしれないな。人の表情をよく見ている人―圭や綾―には、その変化がすぐに解ってしまうんだろう。

「諦めな。この私に隠し事なんて、出来るわけないんだから。やるだけ無駄よ」

 綾の少し厳しめな声とは反対の優しい子供を見守るような目が私をとらえていた。つくづく綾には敵わないという気分にさせる。

「恵人が私といると胸が苦しくなる。お前は俺の一体何なんだって言うの。何か嫌な予感がするの。もし翠を思い出す前に私を思い出したら、翠はどうなっちゃうのかな? それが、怖い」

 私が何より怖かったのは、翠に嫌われる事。もし、恵人が変な風に記憶を取り戻し、私を好きなんだと勘違いしてしまったら、翠はどうなる? 翠と私の関係はどうなる? 旅行での一件(翠が私に放った憎しみの言葉)がある為か、私は嫌な方へ転がりやしないかと恐怖にも似た想いを抱えていた。

「まだ残ってるんだね、ゆうへの想いが。ゆうを助けた時に、近藤さんがゆうをまだ好きだったのかは解らないけど、ずっと大きな想いを抱えて来たからその想いだけはしっかりと残っちゃってるんだね。これからあんた達四人がどうなるか解らないけど、自分の気持ちだけはしっかりと持っておくんだよ。周りに惑わされて見失わないようにね。困ったらいつでも相談に乗るからね。私は、どんな時でもゆうの味方だよ」

 綾の放った言霊ことだまが私の心の真ん中に温かく届いた。私は、一人じゃない。皆に守られているんだ。そう思えた。それが嬉しくて涙した。

「ゆうは泣き虫なんだから。矢田さんに笑われるぞ」

 そう言ってハンカチを貸してくれた。綾のハンカチはとてもいい匂いで、それだけで私の心を軽くしてくれた。

「綾、私、このままあの二人の所に行っててもいいのかな?」

「それは、私にも解らない。でも、ゆうは放っておけないんでしょ? なら、信じるしかないのかもしれないね。近藤さんの回復と翠さんの愛というか忍耐力かな」

「忍耐力?」

「そう、翠さんがどれだけこの状況に耐えられるかじゃないかな。近藤さんがぱっと全てを思い出してくれたら問題はないけど、ゆうだけを思い出したとしたら。自分の旦那が他の女に惹かれていく様を自分への愛を信じて必ず記憶を取り戻してくれると平常心を保って待っていられるか」

 どうしても私の頭の中には最悪なシナリオしか浮かんでこない。私の全てがこの手から去って行ってしまうような気がしてならない。

 前に進むのが怖い。怖くて堪らない。目の前は私の嫌いな真っ暗やみ、道さえ見えないその先を何を目指して歩けばいいのかさえ解らない。目的地じゃない所に行ってしまうかもしれない。そうすれば、全てを失うのだろう。翠も恵人も、そして圭をも。その闇の中で、皆が幸せになる道筋は本当に存在するのだろうか。それでも私は進まなければならないのか。逃げるのは容易い、だが、それだけは出来ないのだ。

 私の浮かない表情に、綾は微笑みかけ、「大丈夫」と肩を叩いた。


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