第53話
「俺が送って行くよ」
そう言って恵人は立ち上がった。
「えっ? でも、恵人まだ頭の怪我治ってないでしょ? 無理しなくていいよ。バスで帰れるんだからさ」
私を送ろうとする恵人を止めたが、何も言わずさっさと玄関へ出てしまった。
私は、その後姿が消えると、翠を見た。
「翠、大丈夫なのかな?」
「大丈夫だと思うよ。わたしもゆうを一人で帰すのは心配だから、恵人に送って貰って」
翠がそう言うので、私は素直に恵人に送って貰うことにした。
翠にまた来るね、と手を振って助手席に乗り込む。恵人の車の助手席に乗るのは酷く久しぶりで、懐かしさのようなものを感じた。
車が動き出しても恵人は何も喋らなかった。口を閉ざし、話しかけてはいけないんじゃないかと思わせる、そんな、雰囲気を醸し出していた。
「恵人、本当に大丈夫? 痛かったらすぐに言ってね」
「そんなやわじゃねえよ」
投げ捨てるようにそう言う恵人に、あっそう、と私は呟いた。それきりまた車の中には沈黙が流れた。圭との沈黙は心地が良くて、ずっと沈黙が続いても怖いなんて思わないのに、恵人との沈黙はなんか怖い。何でだって聞かれてもよく解らないんだけど。はやく家に着いてくれないかな。
「何でか解んねぇけど、俺、お前といると変な感じがするんだ。胸が苦しくなる」
恵人の口から漏れ出た言葉は、あまりに苦しげで、私を驚かせた。
「教えてくれよ。お前は、俺の何なんだよ」
車が赤信号で止まり、恵人が私を真剣な目で見つめてくる。その目は私を突き刺しているようで、痛かった。
「友達だよ。高校3年の時からの腐れ縁ってやつかな」
私は明るくそう言った。恵人の真剣な目を掃い取りたかった。今、恵人と真剣な話をしたくなかった。恵人が友達である事は事実だ。
「お前がそう思っていたとしても、もしかしたら、俺の方は違ったんじゃないのか?」
そんな筈はない。私達は友達だった。確かに、好きだって言われたこともあるし、私も苦しんだこともあったけど、でも、最終的に恵人は、圭と幸せになれって言ってくれたもの。あの時の言葉は友達としてのものだったと思う。それに、私が恵人の恋心を捨てると宣言した時、恵人は翠を幸せにするってはっきりと言ってくれたもの。あれは、嘘じゃなかったってそう思うよ。
「私達は友達だよ。私のことを考える暇があったら、翠のことを思い出してあげて欲しい。お願い……」
お願いだから、翠を恵人の手で幸せにしてあげて……。恵人は私に何かを感じている。それは、きっと高校生の頃から私を好きだと思ってきてくれていたから、その過去の想いがとても大きかったからだと思う。だけど、記憶が混乱している恵人は私を好きなんだと勘違いし始めている。すぐに全ての記憶が戻ってくれれば問題ない。だけど、そうじゃなかったら……。
恵人のことは心配だ。だけど、私の最も心配している事は、圭だった。私は、圭が恵人を必要以上に意識しているのを知っている。恵人がまた私を好きだと言ったら、圭はどうするだろうか。私の気持ちが変わることはないのに、圭は私の気持ちを本当には理解していないんだと思う。私達はきっと簡単に壊れてしまうだろう。だからお願い、波は立てないで。
私のことはいいの、翠を幸せにしてあげて。それは、恵人にしか出来ないことなんだから。
ハンドルを握る恵人をちらりと見やり、不安でいっぱいの胸を押さえた。
いつの間にか車は動き出し、うちのアパートの前に来ていた。
私が説明しなくても恵人はアパートの場所を理解していた。不思議で仕方がない。もしかして、本当は記憶喪失なんかじゃないんじゃないかと思ったが、その考えをすぐに追い払った。
車から降りると、ありがとう、と言って手を振った。
車が見えなくなったのを確認し、特大の溜息を一つ吐く。
「あ〜あ、圭に会いたいな」
夜空に浮かび上がる星を見ながら小さく呟いた。今頃、圭は何をしているんだろう。まだ、会社にいるのかな。
「俺ならここにいるよ」
背後で今一番聞きたかった声が聞こえた。夢なら覚めなければいい。一度瞬きをすると、後ろを振り返る。そこには、月の光に照らされた圭が立っていた。その佇まいは、光を受けてとても神々しかった。
「圭……、どうして? 仕事は?」
自分で聞いていて、そんな事はどうでもいいと思った。どんな理由があったとしても、ここに間違いなく圭がいる。
私は勢いよく圭の胸に飛び込んだ。うっと圭の小さな声が漏れたが、それでも圭は私をしっかりと受け止めてくれた。愛しい想いが込み上げてくる。涙の粒になって、何粒も……。
「会いたかった……。圭にね、凄く凄くすご〜く会いたかったんだよ」
「俺も。だから、仕事を超特急で終わらせてきたんだ」
圭の大きな手が私の頭を撫でる。不安が少しずつ緩和されていく。このまま……、ずっとこのままでいれたらいいのに……。
「部屋に入れてはくれないのかな?」
圭が笑いながらそう言った。気付けば私は、べったりと圭にへばりついていた。
ああっ、これはちょっと恥ずかしいよ。私、まるでコアラみたいだよ。がっくりと反省している私を見て、圭はケタケタ笑っている。
気を取り直して、圭と階段を上がり、部屋に通すと、食事がまだだった圭に軽いものを作った。
私はお腹いっぱい食べて来ていたので、お茶を飲みながら、圭が食べているところを見ていた。
何で圭ってこんなに奇麗なんだろう。美人は3日で飽きるとか言うけど、圭の顔はいつ見ても飽きないんだよね、不思議。でも、圭の本当に良いところは、やっぱり力強い優しさなんじゃないかな。ただ、優しいだけじゃなくて、悪い所は言ってくれるし、叱ってくれる。甘やかす時にはとことん甘やかしてくれる。自分の軸がしっかりしていて、その軸の力強さに憧れる。
「そんなに見つめられたら恥ずかしくて食べずらいんだけど」
頬杖ついてじぃっと見つめていた私の熱い視線に堪りかねたのか圭がそう言った。
「やだよぉ。ずっと見ていたいんだもん」
圭が目の前にいるのに、見ないなんて考えられないじゃない。圭は、嬉しいんだか、呆れているんだか解らない曖昧な表情をして、再び手を動かし始めた。
ふと一つ気付いた事がある。今日は、圭が恵人の話をしようとしないことだ。圭も恵人のことはかなり心配している。それなのに今日はそれに一度も触れようともしない。圭は、私が恵人に車で送って貰った事を知っているだろう。恐らく見ていたんだと思う。変な誤解でもしたのかもしれない。
私から何もないんだよって話した方がいいのかな。でも、まるで言い訳しているようで、何となくやりたくない。私って不安にさせたりしてるのかな。
「圭は、私との事で不安になったりする?」
「そりゃあ、あるさ」
私はどんな事で? という風に首を傾げた。
「ゆうが逃げちゃうんじゃないか。いつか誰かに連れ去られるんじゃないかって。付き合う前よりも今の方がより強くそう思うよ。知れば知るほど、触れれば触れるほど、想いが強くなって、愛しくて、こんな気持ちを知ってしまったから、だから尚更失うのが怖いんだ」
圭、私と同じ事言ってる。人に恋をすると楽しいね、だけど、切なくて苦しくもあるよね。恋は命懸けだと思う。だって、圭を失ったら私は終わってしまう。そう思うから。だから、圭と会える時間はいつも大切で儚いんだね。
「私も怖くなるよ。圭が好きすぎて失うのが怖い」
圭を見ると、圭も私を見ていた。
圭は今何を思っているのかな? 私と一緒だといいな……。
ずっと、ずっっっと一緒だよ。そう、私は思っているんだよ。