第5話
「ゆう……、あのね。私、恵人君の事が好きみたいなの」
放課後、翠と二人で昇降口で靴に履き替えている時、突然翠がそう言った。その頃、私は恵人への自分の恋心を完全に把握していた。自分は、恵人が好きなんだと気付いた矢先の翠の言葉だった。ライバルが翠……。全然勝てる気がしないし、翠と争いごとになってこの二人の友情が壊れるのは嫌だと思った。
「そうなの? やっと翠にも好きな人が出来たか。これでブラコン卒業だね」
私は自分の気持ちを顔に出さないように、努めて明るくいつも通りにそう言った。それでも、心の中は複雑で、行方を見失ったこの想いをどうしたらいいのかと考えていた。
こんな事があっても、毎日は容赦なく私に振りかかり、相変わらず恵人とは友達のように接し、翠には恋の相談を受けていた。私が恵人への気持ちを忘れてしまえばいいのだが、恵人と仲良くなるにつれ、恵人が近づくたびに私の恵人への想いはより強く固いものになって行った。この想いを自分の胸におさめておく事が難しくなっていた。
「弥生。相談したい事があるんだけど、いい?」
私は、自分のこの今の気持ちを情報通で知られる弥生に聞いてもらおうと思った。情報通であるからして、この情報が他に漏れる事もあるかもしれない。だが、私は弥生を信じていた。親友の秘密を他人に漏らす事はしないだろうと。
「いいよ。どうした?」
「あのさ、翠ってさ恵人の事好きじゃん?」
うん、そうだねと弥生は頷いた。それ以外その事に触れない所を見ると先を進めろという事のようだ。
「それでね、あの……、私も好きなんだよね」
「恵人の事が?」
私は黙って頷いた。真っ赤になって俯き、次の言葉を紡ぐ事が出来ない。
「それで、どうしたらいいかって?」
「うん、っていうか。諦めようと思うんだけど、でもこの気持ちを伝えない事には多分諦められないと思うんだ。それでね、私告白してみようと思うんだけど、どう思う? ほら、翠の方がよっぽど可愛いから私なんか好きになるわけないし、私が振られたら私も心おきなく翠の事応援できると思うんだよね」
私は考えていた事を、弥生にすべて話した。弥生はふむふむと興味深げに聞いていた。私がすべて話し終わった時、弥生はなるほどと、一言そう言うと暫く黙ってしまった。
「もし、それでゆうの気持ちが落ち着くならそうしてもいいんじゃないかな」
「本当? じゃあそうしてみる。有難う、弥生。この事翠には言わないでね?」
そう言って、私は弥生の前を立ち去った。
そして、私は恵人に屋上に話があるので屋上に来て下さいという手紙を下駄箱に入れ、屋上で彼が来るのを緊張した面持ちで待っていた。何でまた、手紙なんていう古い手段を使っていたのかと思うかもしれないが、この頃の私は携帯電話を所持していなかったのだ。母を説得したが、高校生にそんなものは必要ないとあっさりと切り捨てられてしまった。なので、メールを送る時は、パソコンから。そして、電話する時は家電からとなんとも不便なこと極まりない。
だが、恵人が屋上に姿を現す事はなかった……。
次の日、顔を合わせた恵人はいつもとなんの変りも無く、いつも通り私と話し、笑い、そして喧嘩した。まるで何もなかったように。
そして、その約1週間後恵人は翠と付き合い始めた。私は結局自分の気持ちを伝える事が出来ぬまま、振られた事になる。その事実を知った時、私は帰宅し自分の部屋に入ると今まで我慢していた物が一気になだれ出し、いつまでも涙を止める事は出来なかった。あまりに泣き、冷やさなかった為私は翌日お岩さんの様に晴れ上がった瞼ではとうてい学校には行けず、休んでしまった。
「私は、振ってない。振られたのは、私の方なんだもん。あの頃、私は恵人が好きだったの。でも、翠の気持ちも知っていた。この気持ちを隠して翠の応援をする事なんて私には出来ないと思った。だから、私は自分の気持ちを恵人に伝えて、きっぱり振られて翠の応援しようって思ったの。それで、屋上で待ってるっていう手紙を下駄箱に入れて、屋上で待ってたけど恵人は来なかった。その1週間後に恵人は翠と付き合うことになったんだよ。その事実を知って、私は振られたんだって分かった。まあ、屋上に来ない時点で振られてるのは明確なんだけど。だから、私は振ってないの」
私は、あの頃の悲しい気持ちを思い出し悲しい気持ちになったが、その想いを胸の奥に閉じ込めて、なるべく明るく昔の事なんてもう何とも思っていないって感じに説明した。
「そんな手紙見てないぞ。俺、呼び出されてないよお前に。お前もしかして違うとこにその手紙入れたんじゃないのか? それに俺だってお前の下駄箱に手紙入れたんだからな。今思うと恥かしいけどお前が好きだって書いた手紙、入れたのに。弥生から言われたよ、お前は俺と付き合うつもりはないって言ってるって。失礼な奴だよなお前も、友達に返事を伝言で伝えるなんてさ」
「知らない。そんなの知らない。私そんな手紙見てないし、弥生にそんな事頼んだ覚えもないよ。どういう事?」
私は恵人と呆然と見つめ合った。
「俺達、両想いだったんだ……。それなのに、すれ違った。神様のいたずらか……、それとも誰かの陰謀か……」
誰かの陰謀……。それを聞いた時一人の人物の顔が浮かび上がった。弥生……。弥生は、私が恵人に告白しようとしている事を知っていた。情報通の彼女の事だ、恵人が私を好きだという事実も知っていたのかもしれない。弥生が私と恵人のそれぞれの手紙を隠した。そして、あたかも私から頼まれたかのように恵人に付き合えないと言っていると伝えた。何の為に……。もしかして、翠の為……?そんなこと考えたくもなかった。翠が恵人を手に入れる為に、手紙を隠したなんてそんな事あるわけない。あるわけない……。
「終わった事だよ……」
私は悲しくて、泣きたくなる気持ちを抑えてそう呟いた。
「ゆう……」
「恵人、もう帰ろう。翠が心配する。もしかしたら、健司さんが私達がすぐに帰ってしまった事電話で伝えてるかもしれない。そしたら、きっと翠すごく心配するから。だから、もう帰ろう」
明るくなるべく元気にそう言った。そして、恵人の横を通り抜け公園を出ていこうとした。
「今は……? 今、お前は俺の事どう思ってんの?」
私の背後から、投げかけられた問い。どうして、答える事が出来る? どう答えればいいのよ。私は、振り返る事が出来なかった。振り返ったら嘘がばれる。振り返ったら本当の気持ちを言ってしまう。振り返ったら恵人に抱き付いてしまうかもしれない。振り返れない、でも振り返りたい。何もかも投げ打って彼の元へ飛び込みたい。願望と抑制二つの力が私の中で争っていた。
「今は、友達だよ。大親友、喧嘩友達、同僚だよ。あの頃の気持ちはもうない」
「じゃあ、こっち向いて言えよ。そうじゃなきゃ俺、お前の言葉信じないからな」
「大親友だよ。ずっとあんたは私の大親友」
私は振り返り、大声でそう言った。目には涙が溜まっていた。溜まって涙が一つ二つとほほを撫で落ちていく。
それを見た恵人が大きく目を見開いたが、すぐに私の所まで駆け寄ると力一杯抱きしめた。
「嘘吐くな……」
耳元で恵人の低い声が聞こえる。
「嘘じゃないよ。嘘なわけない。私はあんたなんか好きじゃないんだから……」
放して、そう続けようとしたのに、私の唇は恵人の唇で塞がれていた。恵人の唇は涙の味がした。私の涙の味……。苦しい味。辛い味。悲しい味。寂しい味。早く放さなきゃ、早くさっきみたいに突き放さなきゃそう思っているのに、力が出ない。恵人の力強い腕に抱かれて、私は力をなくし立っている事も出来なくなり、やがて気を失った。