第47話
「さあ、仲直りもしたことだし、恵人には、早く記憶を取り戻して貰おう。落ち込む必要なんてないよ。医師だって言ってたでしょ、恵人の失った記憶は心の中のどこかにあるんだから。すぐにいつもの恵人に戻って貰おう。ねっ?」
元気な声を出し、腕を突き上げたのまではよかったが、鋭い痛みが全身を走り苦痛の声を漏らした。それを見て、我慢出来ずに翠がクスクスと笑った。やっと戻って来た翠の笑顔に大事なことを一つ忘れていた。恵人の記憶喪失に気を取られ過ぎていた。そう、午後に恵人の脳の検査が待っているのだ。その検査で何もなければいいが、何かしら発見されないとも限らないのだ。
「落ち着いたら、病室に戻ろ」
うん、でももう少しここにいたい、と翠が言うので、私はそれに従うことにした。
「ゆう。家に戻ったら、なるべくうちに来てくれないかな。私一人じゃ苦しくなると思うし、恵人の思い出話を沢山聞かせてあげて欲しいの。勿論、こっちにいる間に記憶が戻ってくれたら言うことないんだけど」
翠のお願いを私が断れるわけがない。だけど、翠のお願いでなくても、その程度の協力は惜しまない。そう決めていた。
「翠。もし、そんな風に頻繁に家に行くようになっても、私が恵人を翠から奪うこととか絶対あり得ないからね。私が好きなのは圭だけだから。それに……、プロポーズだってされたし」
最後の方はあまりの恥ずかしさにごにょごにょと口籠った。
翠の瞳が、途端にキラキラと輝き始め、ウキウキとし出した。
「ゆう、それ本当なの!?」
興奮気味に問い質す。私は真っ赤になっている顔で、頷いた。
「今すぐとかじゃなくて、私のタイミングでって言ってくれてるの。やっぱり恵人の記憶が戻ってくれないとね。そうじゃないとちゃんと祝福して貰えないでしょ? 赤の他人の結婚式に訳も解らず出ましたって感じじゃ嫌だもん」
翠はそれに納得したのか何度も頷いた。
「それじゃ、恵人には早く記憶を取り戻して貰わないと、矢田さんが可哀想だものね」
翠の言葉に笑顔を作り、まあね、と呟いた。
圭との結婚の話をしていたら、なんだか無性に圭の顔が見たくなった。
圭に会いたいな。ってすぐ近くにいるんだけどね。
「ゆう、考えてること全部口に出してるよ。そんなに彼が恋しいなら、そろそろ行きましょ」
え? と私は小さく叫ぶと、あまりの恥ずかしさに穴に入りたくなった。
とにかく、私達は、恵人の病室に戻ることにした。
穏やかな表情に戻って帰って来た私達を見て、圭は私は温かい微笑みをくれた。私もその笑みに感謝の思いを込めて応えた。
そんな私達二人を、翠はニコニコと笑って見守っていた。
「恵人の検査、13時からだって」
あっ、検査のことすっかり忘れてた。
それは、勿論翠も同じことで、しまったという顔をして見合った。
なんてこと、私達こんな大事なことを忘れていたなんて。
そんな愕然と見つめ合う私達を見て、圭は苦笑を漏らした。
「ゆう、そろそろお昼の時間だから、病室に戻らないと」
壁掛けの時計を見ると、12時を指していた。
どうやら、私と翠は1時間以上も喋っていたようだ。でも、こんな風に女同士で語り合うのもたまにはいいよね。
ここにもじきに食事が運ばれてくるだろう。
「うん、そうだね。じゃあ、翠行くね。恵人、また来るから」
翠は、ニコッと微笑み見送ってくれる。恵人は知らない人だと思っている為か、はあと気の抜けた返事をしている。
病室に再び戻ると、良いタイミングで食事が運ばれて来た。
病院の味気ない食事を口にしていると、圭が口を開いた。
「翠ちゃんと仲直り出来たんだ?」
「うん、ありがとう。圭がいてくれたからだよ。一人だったらどうしていいか解らなかったと思う」
「良かったなぁ」
しみじみと言われ、私は大きく頷いた。
「圭、私ね翠に頼まれたの。向こうに戻ったら、なるべく家に来て、恵人に思い出話を聞かせてあげて欲しいって。私、早く恵人に記憶取り戻して貰って、今度こそ翠に幸せになって貰いたいの。それに、恵人が記憶取り戻せたら、圭と結婚……したいなって思ってるの。これは、私の意見だよ。圭が嫌ならあれだけど。だから、翠に協力したいの。圭は、嫌な気持ちになるかもしれない。だけど、私が好きなのは、圭だけだからね」
言ってて、自分の頭の中が混乱して来て、何をどう言ったのかよく解らなくなってしまった。圭には、私の気持ち、伝わっただろうか。
「解ってる。ゆうがそうするだろうことは解っていたよ。俺も協力するから。それに、結婚のことは、俺はいつまででも待てるから大丈夫だよ」
圭に頭を撫でられ、私は、猫のように目を細めた。
私は頭を撫でるその腕を掴み、下に降ろすと、圭の掌を私の頬に押しつけた。
小さな不安が胸のどこかにある。これから起こる事に、起因していることかな。
圭が私の傍からいなくなったりしないか不安なのだ。この手がいつまでも私の手の中にあって欲しい。失いたくない。
恵人の記憶を取り戻したい。だけど、それによって圭を失うんじゃないかと、そんな恐怖が私の中にある。
私は、圭の掌にそっと唇を押しつけた。私の顔をすっぽり覆ってしまうほどに大きな手が、私は大好きだ。
すると、今度は圭に腕を取られた。
「目、瞑って」
そう言われ、私は目を閉じた。
その直後、私の左手の薬指にひやりとする物を感じた。
「開けていいよ」
ゆっくりと目を開き、左手を見ると、薬指には、小さなダイヤモンドがあしらわれたシンプルなシルバーリングがおさまっていた。
「嘘!? 圭、指輪は今度だって言って……」
「今度だろ? 今だって。本当は、プロポーズした日の夜にあげたかったんだけど、俺も余裕がなくて……」
私は、あの晩のことを思い出し、瞬時に顔を赤らめた。圭も、照れくさそうに頭の後ろを掻いていた。
「ありがとう、圭。凄く嬉しい……。でも、サイズぴったり、どうして解ったの?」
「それはもう愛の力で……なんて、本当は未知に聞いたんだ」
あ、そっかぁとすんなり納得した。
高校の時に指のサイズがいくつなんて話はしていただろう。しかし、未知もよく覚えていたものだ。物覚えの良さに妙に感心してしまった。
圭が、私の傍に来ると、私を抱き寄せた。
「絶対、放さない」
「私だって、圭のこと絶対放さないんだからね。私のこと放したりしたら、私、どこまででも圭のこと追いかけて行くんだから」
圭の胸に顔を押しつけて、そう宣言した。心地好い圭の胸が少し小刻みに揺れた。
「ははっ、それってストーカー宣言?」
圭が可笑しそうに笑っている。
ストーカー宣言って、私ったら結構危ない発言していたのね。でも……。
「そうだよ」
強気に発言して、さらに笑われてしまった。圭は笑いがおさまると、私の唇に圭の唇を乗せた。軽く触れるだけの簡単なキス。
「これは約束のキスだよ。お互いにお互いを放さないように。もし、俺が万が一、億が一ゆうを放してしまったら、ストーカーになってもいいよ」
二人だけが知っている約束のキス。
この時、私達二人の間で、ささやかな誓いが立てられたのだ。飯事みたいなちっぽけな誓いかもしれない。だけど、私には、大切なものだった。圭もそう思ってくれていると、私は思った。
きっと、結婚をして、子供が生まれて、幸せな家庭を持てたら、その時に二人で思い出そう。この時の囁かで、真剣な二人の誓いを……。