第46話
翌日。
私は午前中に脳の検査をしたが、全く異常は見られなかった。体も多少の痛みはあるものの動かす事は出来るようになっていた。
午後の食事が終わった後、私は圭とともに恵人の病室に向かった。
緊張した。翠と会うのに、こんなに緊張した事は一度もなかった。
ノックをして病室の中に入ると、中には、二人の両親の姿はなく、翠だけがそこにいた。昨日と同じ場所に座り、昨日と同じように手を握って祈るように目を瞑っている。
「翠、あの…私……」
何をどう言っていいのか解らなかった。翠に会ったらどう言おうかと夜通し考えていたのだが、いざ翠を目の前にしたら、何を言えばいいのか全く解らなくなってしまった。
翠は私の声など聞こえないかのように、ぴくりとも動かない。
圭に背中を押され、取り敢えず病室の奥にまで入るように促される。
沈黙が病室内を支配していた。
「恵人? 恵人!」
翠が突然立ち上がり、恵人に呼びかける。
「翠?」
私は翠に走り寄ると、どうしたの? という思いを込めて翠の名を呼ぶ。
「今、私の手を握り返したの。恵人……、恵人!!!」
翠は何度も恵人を呼び掛けた。私は恵人の表情を窺う。瞼が僅かに動いたかと思うと、恵人は目をゆっくりと開いた。
長い眠りから覚めて、ここがどこであるのか解らないといった感じで、目をしきりに瞬かせていた。
「恵人……、良かった」
翠が涙を一杯に溜め、嬉しそうな声をあげた。
恵人は一瞬酷く痛そうな表情をしたが頭を翠の方に向けると、翠をまじまじと見た。
「誰……ですか?」
恵人の嗄れた声を聞いて誰もが絶句した。
もしかして……。
嫌な予感が病室内に広がった。ここにいる三人全員がある予感を感じていた。
「恵人冗談だよね? 翠だよ、恵人の奥さんだよ」
私が声をかけると、視線をゆっくりとこちらに向ける。一瞬はっとした顔をして私を見、その後食い入るように私を見つめた。あまりに強い視線に、この場から逃げたくなった。
「恵人? 私が解る?」
私が恐る恐る尋ねると、僅かに首を振った。恐らく翠の比ではないのだろうが、それでもショックを受けた。
「恵人、じゃあ圭のことも解らない?」
再び首を振る。圭もこの事実に衝撃を受けているようだった。
「俺、医師呼んでくるよ」
そう言うと、圭は病室から出て行った。翠はあまりのショックに立っていられず、椅子にすとんと崩折れた。私は翠の背中を摩りながら、恵人を見た。
「自分が誰だかは解る?」
「近藤恵人」
「お父さん、お母さんのことは?」「解る」
恵人は私を見て、こいつは一体誰なんだって顔をしていた。
「私は石川ゆう。高校3年の時から友達、会社も同じ。解らないのね?」
「悪い……な」
恵人は戸惑いと心底申し訳ないという顔を浮かべている。
暫くして、圭が医師を連れて帰って来た。私を見てくれている医師だった。
「こんにちは、近藤さん。あなたの担当をしている須山と言います。よろしくお願いします。どこか気分が悪い所はありませんか?」
「頭が…痛いです」
「近藤さんは、頭を打って、後頭部を8針縫っています。傷が痛い感じですか、それとも頭の内部に痛みを感じますか?」
「傷が痛むんだと思います」
私達はその光景をただぼんやりと見つめていた。三人のそれぞれの思いを秘めて。
医師はさらに質問をしていく。
「自分のお名前は解りますね?」
恵人は、はい、と頷く。
「こちらにいる三人のことは解らないんですね?」
再び、はい、と返答する。
「皆さんがお知り合いになったのはいつですか?」
医師がくるりとこちらを振り向き、そう問う。
「高校3年生の時です。彼は転校生でした」
翠がとても話せる状態にないので、私は口を開いた。
「解りました。有難うございます。では、高校2年生の時の思い出は覚えていますか?」
「はい、覚えています」
「そうすると、高校3年生の時からの5年間の記憶がなくなっているようですね。まあ、とにかく脳の検査をしてみましょう。記憶の障害の方は、何かのきっかけで思い出すでしょうから。あまり、思い悩まないようにして下さい。完全に記憶をなくしたわけじゃなく、その記憶を胸の奥にしまって出せなくなっていると考えたら良いと思います。いろんな思い出を聞かせてあげて下さい」
そう言いおいて医師は出て行った。
恵人はここ5年間の記憶がない。記憶喪失。隣で立ち尽す翠をそっと覗き見た。
「翠? 大丈夫だよ。記憶喪失って一時的なものだし、すぐに記憶も戻るよ。私も協力するから、沢山この5年間にあったことを恵人に話そう。きっと、すぐに戻るから。ねっ?」
「恵人……忘れちゃった……、私のこと忘れちゃったの?」
泣き崩れる翠。翠を抱き留める私。それに戸惑っている恵人。
こんなに弱っている翠をここに置いておくわけにはいかない。圭に目で合図を送る。圭は私の合図に解ったというように頷く。圭は私の言いたい事を口に出さずとも読み取ってくれるから助かる。私は声を出さず唇だけで、ありがとう、と言った。圭は静かに微笑んだ。
私は翠を抱きかかえるように病室を後にすると、私の病室に連れて行った。正直、まだ体が完全に治ったわけではない私には、しんどかったが、火事場のくそ力といったところか。そこまで切羽詰まっていたわけではないのだが。
私の病室に着くと、翠を座らせ、昨日圭が大量に買って来てくれていたジュースの中から翠の好きそうなものを取り出し、手渡した。
「……ゆう。私のこと怒ってるよね? 私のこと嫌いになったよね? 昨日、私酷いこと言ったもんね」
翠は、泣いているのだろうか。下を向いたまま震える声でそう言った。
「怒ってはさ、いないよ。うん。ただ、正直辛かった」
「私、ゆうのこと傷つけたよね?」
「傷ついたっていうか、翠を私って存在が追い詰めていたんだなって思ったら、ショックだった」
翠は驚いたように私を見た。
「どうしてゆうはそんなに優しいの? 自分のことより私のこと考えたっていうの?」
翠は私を見つめていた。恐らく涙がこぼれないように、唇を噛んでいたんだと思う。
「私ね、昨日圭と話してたの。私の存在が、翠を不幸にしてたんだなって。翠に許してなんて言えないけど、でも、まだ私を友達だって思ってくれるなら、今度は翠に本当に幸せになって欲しいって思う。その為なら私、何だってするから」
翠の瞳がみるみる濡れて行く。
「ごめんなさい。ゆうのせいなんかじゃないのに。恵人が溺れたのも、私が不幸だって思ってしまったのも、ゆうのせいなんかじゃないの。それなのに、私あんな酷いこと言って、ごめんなさい」
「謝らないでよ、翠。実際私のせいで、恵人に怪我をさせてしまった。私のせいで、恵人の記憶を奪っちゃったんだもん。謝るのは、私の方だよ。ごめんなさい」
翠が私に勢いよく抱きついて来た。
痛かったけど、嬉しかったから、そんな事は我慢した。
「私のことまだ親友だって思ってくれる?」
うるうるした瞳で訴えかける翠。頷き微笑みかける私。
「ゆう、私が言った事全部忘れてね。本当にあんなこと思ってないのよ」
翠の心の中で、ほんの少しはそう思う気持ちはあったんだと思う。だけど、翠はそれにショックを受けているのかもしれない。そう思ってはいけないと、きっと一生懸命に隠していたんじゃないかと私は思う。必死に訴えかける翠に私は、解った、と頷く。
「仲直りしよう。はいっ」
そう言って私は翠を放すと、右手を前に突き出した。翠は差し出された私の手をしっかりと握った。そして二人、同時にニコッと微笑み合った。