第45話
「ゆう、あんたのせいよ! 何もかも……、あんたのせいよ! 恵人がこうなったのも、私が……幸せになれないのも!!!」
今の今まで黙り込んでいた翠が突然そう叫び、激しく泣き始めた。獣の雄叫びのような底から突き上げてくるような激しいものだった。翠のお母さんが、素早く娘の元に駆け寄り、その頼りない小さな体を抱き寄せ、背中を摩る。
「ごめんなさいね、ゆうちゃん。この子まだ動揺してるの。本心じゃないのよ、忘れてね。小川さん、申し訳ないんですが、今日のところは……」
翠のお母さんが言っている事を私は聞いているようで、実際何も聞こえてはいなかった。
『何もかもゆうのせいよ。私が幸せになれないのも』
翠のこの科白だけが、私の脳裏を何度も行き来する。
気がつけば、私は圭に車椅子を押され、廊下を進んでいた。
私は、挨拶もしないで病室を出て来てしまったのだろうか。それとも、私の理性がそんな時でも、発揮され、無意識に挨拶だけはしていただろうか。
誰もが無言で、廊下を歩いていた。
病室に着き、誰に何を話しかけられても私は気のない返事をしていた。心ここにあらずで、話を聞いているふりをして、私は常に翠の放った科白を考えていた。
やがて日が暮れる頃になって、私の両親は帰って行った。近くのホテルに空きがなんとか取れたので、そこに帰ったのだ。圭は、病室に泊まる事になっている。ホテルは、明日の朝までであったが、私を一人にはしておけないとこちらに残ったのだ。
これらのことは、全て後で圭から聞いて知ったことだ。それまでの私には、他のことを考えるほどのゆとりはなかった。夕方出された食事にも手をつけられなかった。
「ゆう、食べないと薬飲めないよ」
圭の私を気遣う言葉に、うん、と答えるものの箸は一向に進まなかった。それでも時間をかけてなんとか半分食べると、薬を飲んだ。
翠はどうしているだろう……。恵人は意識が戻ったんだろうか。
「ゆう、翠ちゃんに言われたこと考えてるんだろ?」
隠したところで圭に隠せない事は解っている。私は黙って首を縦に動かした。
「あれは、翠ちゃんが動揺していたから思わず出て来ちゃったんだと思うよ」
「だけど、圭。こんな時だからこそ、胸の中に収めておいた気持ちが出て来ちゃったんじゃないかな。翠が言わなかっただけで、本当は心の中でずっと思ってたんだよ、きっと」
きっと、翠は私のことを心の底では、恨んでいたのかもしれない。私は、ずっと翠は恵人といて幸せなんだと思っていた。いつも、恵人に甘えて嬉しそうにしていた。恵人を好きだった私にとっては、苦しい光景だった。
翠は、私が恵人をずっと忘れられずにいたことを知っていたのだろうか。恵人が私を好きだったことを知っていたのだろうか。知っていたとしたら一体いつから?
以前弥生の告白(罪の告白)を聞いた時に、翠は私の気持ちを知っている可能性が高いと思った。けれども、私の告白が未遂に終わり、恵人が翠と付き合いだしてから、私が自分の気持ちを誰かに伝えたことはなかった。未知は私の気持ちを知っていたが、私が話したわけじゃない。私の表情、態度などからそう確信していただけだ。未知と翠は、顔見知りではあったが、友達というわけではなく、話したことも私を通してほんの数回だ。未知から、翠へ私の気持ちが伝わったとは思えない。
私は、やはり顔に出ていたのだろうか。態度に出ていたんだろうか。
とっちにしろ、翠は私のせいで、幸せになれないと言っている。翠には幸せになって貰いたいとずっと思っていたのに、だからこそ、自分の恵人への気持ちは出さないように努力してきたのに。
翠は、今朝、私が圭との付き合いがとっても順調だと言うことを聞いて喜んでいた。翠にとっては、私の恋を素直に喜ぶというよりも、自分の邪魔ものがやっと消えたと喜んでいたのかもしれない。
毎週、家に私を招いていたのは何故なのか。私に二人が仲良い所を見せつける為だったのか。
圭を私に引き合わせたのは、どうにか邪魔者を消す為だったのか。
私は翠に嫌われていた……?
私は、ずっと翠を親友だと思って来たけれど、独りよがりなものだったのかもしれない。
「私の存在が、翠を不幸にしていたのかな」
私が、抑えきれない片想いをいつまでもしつこく持っていた為に、翠も恵人も傷つけてしまっていた。私は圭をも恐らく傷つけているんだろう。
「圭、私、知らずのうちに沢山の人たちを傷つけて来たんだね。圭のことも沢山傷つけたよね。私には誰も幸せには、出来ないのかな」
「あのな、ゆう。俺は今凄く幸せなんだ。ゆうの隣にいて、俺をゆうは愛してくれているだろう?」
私はコクンと頷いた。
「それだけで、俺は幸せなんだよ。人それぞれ幸せの感じ方は違うけど、翠ちゃんは自分の幸せについて貪欲になっちゃっているんじゃないかな。きっと、付き合い始めの頃は隣にいられるだけで、幸せだって思っていたと思うよ。それから、どんどん大きな幸せを望むようになって、隣にいるだけじゃ、幸せだって思えなくなっちゃったんだ。翠ちゃんは、恵人がゆうを好きだってことに薄々気づいていたのかもしれないね。だから、ゆうに嫉妬したんだ。俺から見たら、翠ちゃんは、十分大事にされていると思うんだけど、恵人はゆうのことになると、ついむきになっちゃうからね。そういうのがあるから、自分は、恵人から愛されていないんだって思い込んでしまっているのかもしれないね。翠ちゃんも今は恵人があんなことになって、混乱して、自分でも何を言っているのか、理解していないかもしれない。きっと後で、冷静になった時に後悔するんだと思う」
「私に何が出来るかな? 私、翠に幸せになって貰いたい」
「う〜ん、自分の気持ち話して、理解して貰うしかないんじゃないかな。でも、それは難しいかもしれないよ。何度も、突き放されるかもしれないよ」
「でも、私、解って貰いたい。私、翠の幸せ奪おうなんて思っていないもん。だから、絶対頑張るよ」
優しく頭を撫でる圭。あんなに翠の事で思い悩んでいたのに、勿論不安は消えたわけじゃないのに、すっと心が軽くなった気がした。
翠のこと、逃げ出すわけにはいかない。私は翠の親友だもの。翠に幸せだって思って貰いたい。何もしないで、私のせいなんですか、ごめんなさいって諦めるのはいや。
私が傷ついたっていい、私には圭がいてくれるからいくら傷ついても構わない。
私のせいで幸せになれなかったのなら、今度は私が幸せを取り戻してみせる。そんな風に考えられるようになったのは、やはり圭がいるからなんだ。
心配そうに何度も頭を撫でてくれる圭に笑顔を送った。圭には、これだけで、私がどうしたいのか解るよね? 親友の幸せを取り戻したい。何もしないで、指くわえて見ているのは嫌だから。
「私に何が出来るか解らないし、何かして、結果が酷いものになるかもしれない。でも、とにかく頑張ってみる。仲直りして、翠が幸せだって思えるように」
「泣きたい時は、俺が傍にいるよ。思い切りぶつかっておいで」
圭の優しさが、心に沁み渡る。私は、大丈夫なんだと思わせてくれる。
きっと明日から頑張るから、だから、今日はゆっくり眠らせて、圭、あなたの胸の中で……。そして、皆が幸せになっている未来の夢を一緒に見よう。
私は、圭に見守られて眠りについた。夢を見たのかも解らない、深い眠りの中で、圭の暖かい温もりだけは、常に感じていた。