第43話
私は、ゆっくりと目を開いた。
最初に飛び込んできたものは、真っ白な天井。天井の蛍光灯が眩しく、目がおかしくなりそうだった。横に顔をずらすとそこには私の大好きな圭がいた。心配そうな目、心なしか頬がこけているように見える。
「ゆう?」
「圭……、ここは?」
「波に呑まれて、運ばれたんだ。病院だよ」
ああ、波に呑まれて…、病院。そうか、私、あの時誰かに抱き締められて……、強い衝撃。あれは、圭なんだと思っていたけど、違ったのかしら?
「良かった、ゆう。本当に良かった。どっか痛むとこない?」
圭の大きな手が私の左手を優しく包んでくれていて、圭の温もりが左手から感じられる。
「ゆう、今医師呼んでくるから、な」
そう言って圭は私の視界から消えた。
今、何時何だろう。考えるのがとても面倒臭い。
体を起してみようと思ったが、全体的に体が痛く、起き上がれない。
暫くして、圭が白衣を着た男の人と連れ立って部屋に入って来た。その人が、医師なのだろう。中肉中背、40代くらいの優しい目元をした医師である。
「こんにちは。はじめまして。担当医の須山といいます。よろしくお願いします。では、早速見させてもらいますね」
そう言って、須山医師は私の体をチェックした。
「どこか痛い所はありますか?」
「体が全体的に痛いです」
先生が私の体を捻ったり動かしたりしながら、こうすると痛いですか? などと聞いてくる。私は、自分の感じたままに返答をする。
「軽い打ち身がありますが、問題ないでしょう。頭痛などはありませんか?」
ありません、と私は答えた。
「念のため、脳の検査をしておきましょう」
それだけ言うと、先生は病室を後にした。圭が、ありがとうございました、と先生に深々とお辞儀をして見送った。圭は、病室のドアを閉めると、私の枕元にある丸椅子に腰かけた。
「圭、私、どうして助かったのかな。波に呑まれたってことは解ってるの。でも、すぐに意識がなくなってしまったから、よく解らない。説明してくれる?」
圭が私の手をとる。大きくて温かい手。
「ゆう、あの時凄く大きな波が来た。この辺では、たまにあんなとてつもなく大きな波が突発的にくるんだそうだ。君は、その波に呑まれた。岩場にいた恵人が、君を助けようとすぐに海に飛び込み、君を庇って……」
圭が言い淀む。
「私を庇って?」
私は、続きを聞くのが正直怖かった。だけど、聞かないわけにはいかない。私の力強い意志の顔を見た圭は、漸く続きを話し始めた。
「ゆうを庇って……、岩に叩きつけられた。すぐに救命ボートが来て、救急車で運ばれた。恵人もこの病院にいる。恵人は頭を打っていて、8針縫ったと聞いている。今は、麻酔が効いていて、まだ意識は戻っていない。命に別状はない、恵人は大丈夫だよ」
あの時、意識が遠のきかけていたあの時に感じた腕は恵人のものだったんだ。
「私のせい……だ」
私の瞳から涙が流れ、頬を伝い枕に落ちる。
私のせいで恵人は……。私がいなければ、私があの時岩場に行かなければ、恵人一人だったなら難を逃れたかもしれないのに。私が寝不足でなければ、自分で何とか出来たのかもしれないのに。
「ゆう、君のせいじゃない。恵人は、君がそんな風に考えてるって知ったらきっと怒るんじゃないか?」
その通りだ。こんな風に私が考えてるって知ったら、恵人は怒って、罵倒して、笑い飛ばすに違いない。『別にお前の為に飛び込んだんじゃねえよ。自惚れんな』と、そっぽを向くんだろう。
それは、十分すぎるほどに、解ってる、でも……。
「でも、頭を打ったんでしょ? 後遺症とか出てくる可能性だってあるでしょ」
もし、恵人が半身不随になってしまったら、何らかの障害が残ってしまったら、私はどうやって償えばいいの?
「ゆう、それは、恵人が起きてからじゃないと、検査も出来ない。今からそんなに考えてどうするんだ? 何も解っていないのに、その事を思い悩んでも何の解決にもならない。今、ゆうがすべきことは早く元気になる事だ。恵人が起きた時に、笑ってありがとうって言うことなんじゃないのかな?」
笑ってありがとう……。そうだね。凄く心配で、どうしたらいいんだろうって不安になるけど、恵人が起きた時には、ちゃんとお礼を言いたい。恵人がいなかったら、私は死んでいたのかもしれないのだから。私が元気のない顔をしていたら、恵人に叱られちゃうし、こんな奴放っておけば良かったって呆れられちゃうもの。
正直、さっきみたいな気持は、常に私の胸の中に渦巻いている。それでも、私はまず、すべきことをなさなければ。
心配そうに見つめる圭に、小さく微笑んだ。
「圭、ありがとう」
圭を見上げると、やっと圭も微笑んだ。ずっと心配してくれていたんだろう、眉間にしわの跡がくっきり残っている。私の為にこんな顔をさせたくはない、圭には笑っていて欲しい。
「圭、キスして……」
私は圭だけに聞こえる限りなく小さな声で呟いた。私の顔の上に影が落ちた。そして、圭の渇いた唇が、私の唇を塞ぐ。少し唇が切れていたのかもしれない、僅かな痛みを感じる。それでも、圭とのキスは私を酷く安心させてくれた。圭が唇を放すと、痛くなかった? と優しい微笑みを私にくれた。私は体が痛まない程度に頭を振った。
やっと圭も安心したのか、いつもの圭に戻ってきたみたいで私は嬉しかった。
「もう少し寝た方がいいんじゃないか?」
「そんなにずっとは、寝ていられないよ」
心配症の圭に、私は、クスッと笑って言った。
私が、恵人のことを考え込まないように、私の体が障らない程度に圭は、お喋りをしてくれた。
そんな時、病室の前の廊下が俄かに騒々しくなった。バタバタと歩いているのか、走っているのかそんな足音。圭と顔を見合わせ、しばし廊下に耳を傾ける。すると、その騒々しい足音はどんどんこちらに近づいてくる。まだ、この先にも病室があるんだろうと思っていた。よもやここが一番端っこの部屋だとは思っていなかったのだ。
勢い良くドアが開いて、中年の男女が仁王立ちしていた。私の両親だった。二人は、私の傍まで来ると、おいおいと泣き始めた。
「本当に、この子は心配させて……」
母が泣きながらそう言う。二人の涙を見て、私も涙が堪らず出て来てしまった。
「ごめんなさい」
私は小さい子供に戻ったように、ただひたすらに泣いた。圭がティッシュを持って来てくれて、そこで初めて両親は圭に気付く。
「あら? こちらどなた?」
母があんなに大泣きしたことを恥かしく思いながらそう尋ねた。
「矢田圭人さん。私の……彼なの」
「矢田です、はじめまして。ゆうさんとお付き合いさせて頂いています。ゆうさんには、いつもお世話になっています」
圭は、流石社会人らしく礼儀正しく挨拶をした。
「あらあらあらあらあら……。こちらこそうちの娘がお世話になって。お電話頂いた方よね?」
「はい」
「本当にありがとう。看護婦さんに聞いたわ、あなたがゆうと恵人君を助けたんですってね?」
「いえ、俺は……」
圭が、私と恵人を助けた? 私と恵人を助けたのは、救命隊員なんじゃないの?
「えっ、ちょっと待って。圭が私達を助けたの?」
「あら? あなた知らなかったの? 意識を失ったあなたと恵人君を矢田さんが一人で海から引き上げて、救急隊員が来るまで、応急処置とかしてくれたのよ。彼の応急処置は完璧だったって看護婦さん言ってたわよ。彼がいなかったら、あなたも恵人君も命はなかったんだからね」
嘘……、圭、何も言わないから、私全然知らなかった。でも、圭らしい。圭は、自分から自分のしたことをひけらかすような人じゃない。
「嘘っ! 圭、本当なの?」
「いや、まあ、うん」
「どうしてもっと早く言ってくれないのよ。ありがとう、圭。ありがとう」
圭は、はにかんだような笑顔を私に向けた。
私の命は、二人の『けいと』に救われた。二人が私を生かしてくれた。ありがとう……ありがとう。