第42話
ホテルのロビーで翠たちと落ち合った時、二人は何も言わなかったが、翠は私を見て必要以上にニコニコしていた。
それを見て、翠は、圭が言っていたようにHでもしてたんじゃないかって考えてるんじゃないかと感づく。別に翠にどう思われてもいいかなと思った私は、敢えてその話題になりそうなことには触れなかった。
ホテルを出ると、強い日差しが容赦なく突き刺さり、立ちくらみに似た感覚に陥りよろけた。
圭に支えられ、引っ繰り返らずには済んだが、昨日の寝不足がたたっているようだ。
「ゆう、今日はあんまり無理しないようにな。昨日、殆ど寝てないんだろ?」
圭に耳元で囁かれ、私は素直に頷いた。
確かに今日はあまり無理をしない方がいいだろう。下手をすれば溺れることにもなりかねない。
翠が心配そうに私を見る。
「ゆう、具合悪いの? 平気?」
翠に心配させまいと私は笑顔を浮かべた。
「平気、平気。ちょっと寝不足なだけだよ」
私は明るくそう言った。
「な〜んだ。そっかそっかぁ」
翠の意味深な笑顔が気になる。
あっ、これは明らかに誤解しているようだ。朝まで……とか思っているんだろう。
いちいちむきになって誤解を解こうとすれば、さらに誤解を与えそうなので、敢えて反論も肯定もしない。放っておけばいい。
寝不足の頭で、強い日差しを浴びながらぼんやりとそう考えた。
私達は男二人が取ってくれていた場所に辿り着くと、泳ぐという私を圭は止め、自分もビーチで一緒に休むと言う。一緒にいてくれるのは嬉しいし、実際そうして貰いたい気持ちはやまやまだが、それでは圭に申し訳なく思い、それをやんわりと断った。
一人でここに置いてはいけないと難色を表す圭に、じゃあ私もここにいるわと翠が申し出た。圭はそれでも心配なようだったが、翠の言葉に渋々応じた。
「矢田さん、ゆうに夢中なのね。あんなに心配しちゃって」
翠と並んで、圭と恵人が海に入って行くのを見ていた私に、翠はくすくすと笑いながらそう言った。
私はどう答えていいのか解らず、黙っていると、翠はさらに続けた。
「ゆうも彼が好きなのね?」
過去を遡って思い出してみても翠が私に恋愛話を振ってくるのは初めてのことだった。
これまで、翠の相談や惚気話を聞かされたことはあるが。その度に笑顔を作るのに苦労したものだった。以前、弥生の話を聞いた時、翠が私の気持ちを知っていたんじゃないかと思った。そう考えれば、翠が私にその手の話を聞かなかった理由が解る。
私が圭と付き合うようになって、私の圭への態度を見て、ホッとしているんじゃないか。それでも、心の何処かで私の気持ちが完全に圭に移ったのか確かめたいのかもしれない。
全て、私の憶測でしかないのだが。
翠がそんな不安を感じているのなら、私の一言でその不安が取り除かれるのなら、正直恥かしいが、惚気話の一つや二つ話すのもいいだろう。
「うん。凄く好きだよ」
何だろう、この照れ臭いながらも他人に話す喜びみたいなものがそこにあった。誰かに私達のことを聞いてほしいと思ってしまった。圭を、私の大好きな圭を、自慢したいと思っている自分がいて、正直驚いていた。
「そっか。実はね、私ずっとゆうに焼き餅妬いてたの。恵人はいつもゆうと仲が良いし、ゆうのことになるとすぐにむきになったりするでしょ? ゆうにはいつまでたっても好きな人も恋人も出来ないから、もしかしたら恵人が好きなんじゃないかって疑ったりもしたの。いつか、恵人をゆうに取られちゃうんじゃないかって不安だったの」
やっぱり翠は私のこと気に病んでいたんだ。
それならなんで毎週私を家に呼んだりするんだろう。私と恵人が二人でいる所を見たくなければ、恵人がいない時に私と二人で会えば良かったんじゃないだろうか。
「でも、ゆうは大切な友達だから、そんな風に思っちゃいけないってずっと思ってた。だからね、矢田さんと上手くいってホッとしたの。自分勝手な理由でごめんね」
「私の方こそごめん。翠、ずっと嫌な思いしてたんだね。私、ほんと鈍いから全然気付けなくって。でも、私が翠から恵人を取るなんて事絶対にないから安心して。私ね、翠と健司さんに感謝してるんだよ。圭に会って初めて本気で人を好きになった気がするの。今、本当に幸せなんだ。翠、ありがとう」
本当に翠と健司さんにはいくら感謝しても足りないくらいだった。
最初は、面倒くさいなって思っていた。恵人以外の男の人を好きになるなんて絶対にあり得ないって思っていた。だけど、圭との出会いは私を変えてくれた。一生一緒にいたいと思う人に巡り会えたのだ。ついこの間までの迷路を彷徨い続けていた自分がまるで嘘のようだ。
翠が、私達のことを心底喜んでくれているのも嬉しかった。それが、たとえ翠自らの不安が解消するからなのだと解っていても。
「少し休んだし、私も泳いで来ようかな。翠は?」
私が翠に尋ねると、翠は優雅に微笑みながら首を振る。
「私は荷物見てるから。ゆう行って来ていいよ」
そうは言うものの翠一人でここに置いていくには、一抹の不安が過る。一人になったら、こんなに可愛いんだもの、きっとナンパされるに決まっている。
その心配を翠に訴えかけると、一笑されてしまった。
「私って案外ナンバの適当なあしらい方を心得ているのよ」
余裕しゃくしゃくな翠を前に、私は何も言えなくなってしまった。仕方なく、一人で海辺を歩く。
あの二人はどこにいったのかと辺りを見渡すと、昨日私が圭と競争した岩場で二人は何か話していた。
私はそこまで泳いで行った。やはり普段より体は重く、午後はホテルで休んでいた方がいいかもしれない。泳ぎながらそう考えていた。
私が岩場に辿り着いた時、そこには恵人しかいなかった。
「あれ? 圭は?」
少し息が上がっている呼吸を整えながら、恵人に尋ねた。恵人は人差指をある方向へ指した。その指の先端を辿ると、圭がこちらを向いて立っていた。私が手を振ると圭が何かを叫んでいる。どうやらそっちに行くからそこで待っていてと言いたいらしい。
そう言うと、圭はこちらに向かって泳ぎ始めた。
「お前の様子が気になるからってビーチに向かってたんだ、あいつ」
そっか、圭、心配してくれてたんだ。
気にかけていてくれた事が嬉しくて自然に口元がほころぶ。
「いい男だよな。良かったな」
恵人にそう言われて少しびっくりしたが嬉しかった。
「やっと解ったの? 本当に私には勿体ないくらいにいい男だよ。ふふっ」
圭のことを話す時、圭を思い出す時、私は自然と笑みが零れる。きっとふにゃっとした締まりのない顔をしていたに違いない。
私は少しでも圭の傍に行きたくて、いてもたってもいられなくて、恵人が止めるのも聞かずに再び水の中に入った。愛しいあの人の元へ。
ところが突然、大きな波が私に覆い被さり、私はその波に呑まれた。一瞬の出来事だった。
まずい、岩に叩きつけられる……。
遠のきかける意識の中で懸命に圭の名を呼ぶ。
圭…、圭、助けて……。
もう一度、圭に会う為に私は必死に波から這い上がろうとした。手足を必死に動かし、遥か彼方にあるように見える海面を目指す。だが、一向に海面は近くならず、激しい波の流れに流されていく。
もう駄目かもしれない。力が出ない。もう、圭には会えないのかもしれない。考えることは圭のことばかり、思い浮かぶのは圭の笑顔ばかり。
圭、ごめんね。一緒に、ずっと傍にいたかったのに。ごめんね……。
その僅かな絶望の意識の中で誰かに包み込まれたのを感じた。
圭なの……?
そう思った瞬間強い衝撃と共に私の意識も飛んだ。