第38話
私達がさあ帰ろうかと歩き始めた時、私の携帯の着信メロディが鳴りだした。バックから携帯を出し開く。
「翠からだ。出てもいい?」
圭にそう尋ねると、快諾してくれた。
「もしもし」
『もしもし、ゆう? 久しぶりぃ』
翠はいつもたいして久しぶりでもないのに久しぶりという言葉を口にする。まるで、元気? と聞いているのと同じ意味を持っているかのように。
「どうしたの?」
『うん、あのね、来週会社休みに入るじゃない?』
うん、と短く相槌を打つ。うちの会社は、全員会社で決められた休みをとる。要するにお盆休みなのだが、やむを得ずずらして取る人もいるようだが、基本は皆一緒なのだ。
『私達、お兄ちゃんカップルと一緒に海に旅行に行こうと思っていたんだけど、お兄ちゃんが急に休み取れなくなっちゃったの。それで、もし良かったらゆうと矢田さん、どうかなって思ったの。2泊3日なんだ。矢田さんにも聞いてみてくれる?』
「今、隣に圭がいるから聞いてみる。折り返し電話するよ。返事は早い方がいいんだよね?」
『うん。もし駄目なら他の人を誘ってみなきゃならないし。でも、私はゆうと行きたいな。いい返事期待してるね。じゃぁ』
翠のあのお願いをする時のうるうるした瞳が、目に浮かんで来た。多分、圭が行けなかったとしても、私だけでも連れて行こうとするんだろう。私は確実に行く事になりそうだ。
私は、携帯の通話を切ると、圭を見上げた。
「話、聞こえた?」
「うん、大体ね。2泊3日の海旅行だって?」
「そう、あの調子だと私は確実に行かないとダメみたい。圭はどうする?」
圭の夏休みも、うちの会社と同じだ。健司さんは急に仕事が入ってしまったようだが、圭は大丈夫だと聞いている。
私は平気だが、圭は恵人の存在を気にしているのだろうか。
「行こうかな、俺も。ゆう行っちゃうんだろ? 一人でこっちに残っててもつまらないしね」
いいのかな? 大丈夫なのかな?
私の中では、恵人は本当に友達なんだけど、圭が気分悪くなるのは避けたい。喧嘩とかはもうないだろうけど、一緒に行ったら話だってするだろうし、男の人ってそういうの平気なのかしら。
「心配してるんでしょ? 俺が嫌な思いするんじゃないかって。確かに、昨日までの俺だったら少しのことだけで、動揺したかもしれないけど、ゆうがさっき俺を好きだって言ってくれたから大丈夫だよ。俺は、あの言葉とあの涙を信じてるから。もう、誰にもゆうを渡さないよ」
圭の手が私の頬に触れる。私は圭の手の上に自分の手を重ねる。
圭の大きな手、私は圭の全てが愛しい。圭といるだけで、涙が溢れそうになる。その涙は、切ない時に流れるものとも、苦しい時のものとも違う。私は、幸せだから涙が出るんだ。嬉しいのに、楽しいのに、幸せなのに流れる涙。こんな涙を流すのは初めてだった。
愛しい……。圭との時間が、圭との会話が、圭とのキスが。こんなにも愛おしい。
私は間違っていたのかもしれない。私は、私が生きてきた人生の中で恵人以上に好きになる人はいないと思って来た。私は間違っていたのかもしれない……。
「翠に電話しちゃうね」
圭の手を放し、微笑んでそういう。圭も私に頷いて見せる。
私が電話をしている間、圭の右手は私の左手に絡められていた。少しでも圭に触れていたいと思う私は、色ボケなのだろうか。
通話を終了し、携帯をしまうと、私達は帰る為に駅へと向かった。
私達はそのまま圭のマンションに向かった。
リビングには、未知がソファに座ってガリガリ君を齧っていた。
「あっ、お帰り〜、こんな暑いのによくデートなんてして来たね。どうだった?」
「うん、楽しかったよ」
私は、今日あったあんなことやこんな事を思い出して、一人顔を赤くして俯いた。
「ああ、未知。俺達しあさってから旅行だから」
圭が一人掛けのソファに体を沈めながら未知にそう言った。
「旅行? 急に決まったの?」
「翠がね、誘ってくれたの。健司さんが仕事で来れなくなっちゃったんでその穴埋め」
「翠さんって、それ……平気なの?」
未知が言わんとしている事は解っている。
「私は、もう大丈夫なの。恵人に心が動くことはない」
そう言って圭をちらっと見る。圭もこちらを見ていたようで、目が合って同時に微笑み合う。照れ臭そうな圭の笑顔に、私まで恥かしくなってくる。
「ふ〜ん、本当の意味で、付き合い始めたってわけだ。やっとゆうゆのハートを射止めたんだね。でかしたお兄ちゃん。ゆうゆなら私、お義姉さんになって貰ってもいいんだけどね」
最後の言葉は、私と圭の結婚を仄めかす言葉で、そんなこと少しも考えていなかった私はびっくりしてしまった。というか、今までの私は好きかそうじゃないのかという次元の話だったので、そんな所にまで、頭が回っていなかった。
圭と結婚……か。
もう、結婚を考えても、おかしくはない年齢になっていたのに、一度も考えたことなかった。ただ、圭とずっと傍にいたいと思っていただけで。
そっか、結婚かぁ。圭となら……。
私の妄想は止まることを知らず、子供が産まれたら男の子が良いとか、名前は何にしようかしらというところまで広がって行った。
「ゆう、帰っといで!」
未知の声に我に帰ると、二人に見られていた事を知る。
圭は私の考えている事、エスパーの如く見抜くから、今、私が考えていた事なんてきっと解っているに違いない。
「で、名前はどんなのがいいとお考えですか?」
ほら、ね?
私は、圭のニヤニヤした顔をキッと睨みつけた。が、上手く力が入らず中途半端な顔になってしまった。
「そうね、『ゆうと』なんていいかなって思ってる」
悔しいので、私が妄想で本当に考えていた名前を告げる。
圭の方は、本当に私が名前まで考えているとは、思っていなかったようで、瞬きを何度もしながら私を見ている。それが面白くて、私は吹き出した。未知も圭の動揺した表情が可笑しかったのか、ケタケタと笑っていた。
――旅行当日。
私と圭は朝もまだ早い時間に私の住むアパートの前で待っていた。
ここへ、恵人の運転する車が迎えに来てくれる事になっていた。空を仰ぎ見ると、真っ青な透き通るような空が広がり、海にはもってこいの天気であった。まだ太陽が出て来たばかりなのに、既に気温はあがり、日陰にいても汗がじっとりと出てくる。隣にいる圭を気付かれないようにちらりと見やる。
今日の圭は、Tシャツとハーフパンツ、サンダルとラフな恰好をしている。何を着てもばっちりと似合ってしまう圭に気付けば、見惚れてしまっていた。
圭が私の視線に気づき、ん? と首を傾げる。
「手、繋いでもいい?」
恥かしくて少女のように俯きながらそう言うと、どうぞ、と手を差し伸べた。私は圭の手を取ると、圭を見上げた。圭は目を細めて私を見、微笑んでいる。嬉しくて抱きついてしまいたいのを、何とか自制しなければならなかった。
暫くして、恵人の車がアパートの前に止まった。助手席の窓から翠が顔を出した。
「おはよう。ごめんね、急に誘ってしまって」
「全然、大丈夫」
恵人が車から出て来て、軽く挨拶をすると、後ろを開けて貰って鞄を詰め込んだ。
恵人が車から出て来た時、私と圭が手を繋いでいるのをちらりと見て、顔を歪めたことを私は知らなかった。
私は、勝手な話だが、恵人は私への思いなどとっくに忘れたものだと思っていた。私はもう、恵人に会っても心を乱す事はない。私と同じように恵人もそうであると勝手に思い込んでいた。