第36話
沙織と友達になった日から少しずつ私の中で、気持ちの変化が表れ始めた。
まず、恵人と会っても心が乱れなくなった。突然名前を聞いたりしても、心が乱れなくなり、冷静を保てるようになった。ついこの間までは、話をする事もままならなかったが、今は普通に話せるようになった。自分の中で、恵人に会ってももう大丈夫だと、自信のような物まで持てるようになった。
それと同時に、圭と会うのが心待ちになり、圭を想うと嬉しい気持ちと切ない気持ち、会いたいと思う気持ちが強くなった。自分でも気付かぬうちに、私は圭をこんなにも好きになっていたのだ。
今の私には、疑問などまるでなかった。堂々と誰の前でも圭が好きだと宣言出来るほどに。自分のその気持を認めてしまうと、その想いは、さらに深く加速度をつけて燃え上がった。
自分の中にこんなに熱い想いがあったのだと驚くほどだった。
そんな中、約束していたデートの日となった。
茹だるほどに熱い夏空の下、私達は水族館へと足を向けた。
「流石に暑いね」
圭の言葉に心底うんざりと私は同意を込めて頷く。
繋いだ手と手が汗でじっとりと湿っている。本当は、手を放して、手のひらの汗を拭い取りたいのだが、そのタイミングを計れないでいた。
圭は、そんな事など構う様子もなく、しっかりと私の手を握り放そうとはしない。
「圭、私手に汗かいちゃったから、一回手放して」
どうしても自分の汗が気になってしまった私は、堪らずそう言った。
「俺は気にならないよ。君の汗すら愛おしい」
何よそれ、と私は笑ったが、矢で心臓を射抜かれたような衝撃を受けた。それきり、私は圭に手を放してとは言えなくなってしまった。
私達が向かっている水族館は、大きな公園内にあり、駅から公園の中を歩き、漸く水族館の入口についた時には、二人とも汗でびっしょりになっていた。
館内に入ると、冷房が効いて、汗で濡れた体には少し寒いくらいだった。入口から順路と書かれた看板通りに進んで行く。夏休みということもあり、真っ黒に日焼けした元気いっぱいのちびっ子達でごった返していた。
混雑しているのもあり、なかなか前に進まないので、一つ一つの水槽をじっくりと見る事が出来た。ラッコの水槽の前は予想以上に混んでいて、子供を抱っこして、どうにか見せてやろうと頑張っているお父さんがここそこに見られる。
「ゆう、抱っこしてあげようか?」
圭がにやりとしながら、耳元でそう囁く。
「もう、いらないよ。子供じゃないんだから」
私が真っ赤な顔で不貞腐れて答えるのを、圭は満足そうに笑って見ていた。
またからかわれたと内心悔しく思っていると、私の足に何かがしがみついた。何かしらと見てみれば、それは小さな男の子だった。私の右足にしっかりとしがみつき、私を見上げて、目をくりくりさせている。見上げた先が自分のお母さんじゃなかったので、驚いているのかもしれない。泣いてしまうかなとひやひやしていると、私の意に反してにかっと小さなお口を大きく開けて笑った。その笑顔が凄く愛らしかったので、私は圭に同意を求めた。
「凄い、凄い可愛いね」
圭も目を細めて微笑んでいる。
それにしても、この子は迷子なのかしら? 恐らく2、3歳だと思うんだけど。
男の子の洋服を着ているからそれと解るが、女の子と間違えてしまうほどに可愛らしい顔をしている。目がとっても大きくて、顔の半分は目なんじゃないかと思うくらいだ。笑うと、天使みたいに可愛くて、ほにゃっとこちらの顔が緩んでしまいそうになる。
「迷子なのかな?」
私は圭に助けを求める。圭はその場にしゃがむと、その子と目線を合わせた。
「君は、お名前なんて言うのかな?」
圭が優しい笑顔で尋ねた。圭の笑顔に気を許したのか、それとももともと人見知りをしないタイプなのかは解らないが、男の子は若干恥かしそうだったが、元気に答えた。
「たっくんだよ」
「たっくんか、カッコいい名前だね」
圭がたっくんの頭を撫でてやると、嬉しそうにキャッキャッと笑った。
「たっくんは、今日はママとパパと一緒に来たの?」
「ううん、きょうはパパはおしごとがあるからママときたんだよ。あれ? ママがいない。ママ、まいごになったのかなぁ。しかたないなぁ」
私が思っていたよりも、もう少し上なのかもしれない。しっかりしていて、口が達者だ。でも、子供特有の舌っ足らずなところが、何ともキュートだ。お母さんがいなくなっても泣かないところは凄く立派だと感心してしまった。
「じゃぁ、お兄さんたちと一緒に迷子のママを捜そうか?」
「うん!!!」
元気いっぱいのたっくんの返事に圭と顔を見合せて笑った。たっくんを真ん中にして、三人で手を繋いで歩いた。
なんだか自分達が本当の家族みたいで、それが違和感がなくて、不思議に思った。
圭はたっくんにいろいろ質問していた。その質問にたっくんはきちんと答えていて、お利口さんだ。圭の事情調書で得た情報によると、たっくんは『たつき』という名前で、もうすぐ4歳。幼稚園の年少さんなんだそうだ。幼稚園の出来事なんかも聞いちゃっている。幼稚園の女の子で好きな子いるの? という質問にたっくんは、みずきちゃんと結婚の約束をしたと嬉しそうに言っている。
それにしても幼稚園で結婚の約束って……。
たっくんは、純粋でまっすぐでとても可愛い。圭はたっくんと楽しそうに話しているところを見ると、圭が子供好きなのが凄く解る。こんなに無邪気な圭は初めて見た。たっくんと同じように笑っている。たっくんも圭にあっという間になついてしまって、傍から見たらどう見ても親子みたい。
時々圭が、私をちらりと見上げて、微笑みかけてくれる。圭は、たっくんを相手にしている時だって、決して私を忘れず、気遣ってくれる。
暫く三人で歩いていると、血相変えて走って来る女の人がいた。
「たっくん!」
「あっ、ママだ!!!」
たっくんがその女の人を指さして、飛び上がらんばかりに喜んでそう叫んだ。
「たっくん。もう、ママ心配したのよ。一人で言っちゃ駄目よ」
「うん、ごめんなさい。あのね、おにいさんとおねえさんがいっしょにさがしてくれたんだよ」
その言葉を聞いてたっくんのママは立ち上がり、私達に丁寧に頭を下げた。
「どうもありがとうございました。本当に、ご迷惑をおかけしてすみません」
「いやいや、いいんですよ。たっくん可愛くって楽しくて、俺たちも楽しい時間を過ごさせて貰いましたから。たっくん良かったな」
たっくんの頭を撫でながら圭がそういうと、うん、と元気よく返事をしたたっくんは最高の笑顔だった。たっくんママがもう一度頭を下げ、たっくんの手を取ると、手を振って行ってしまった。
たっくんが行ってしまって少し寂しくなったけど、私は圭と手を繋いで歩きだした。
「たっくん可愛かったね」
うん、と頷く圭は少しばかり興奮気味で、私は圭に悟られないようにクスッと笑った。
「圭って子供好きだったんだね?」
「うん。結婚したら、たくさん子供欲しいんだ。仕事が休みの日は、子供と思う存分遊んであげる。隣にゆうがいたらなおいいんだけどな……」
そう言って、私を横目でちらりと見た。私の反応を見ているようだ。
本気で言ってるのか、冗談で言っているのかどっちとも取れる表情。私がどう返せばいいか困っていると、圭がニコッと笑って冗談だよ、と言った。
冗談だったんだ……。本当は、嬉しかったのにな。
圭がくれた言葉。冗談だったとしても、今の言葉は私の宝物になる。
「そっかぁ、冗談だったんだ……」
「ホッとした?」
圭の思いがけない言葉に私は首を傾げる。何故私がホッとしなければならないのか……。
やっぱり圭は、私の気持ち解ってないんだ。いつもは、私の表情を読むのに長けている圭なのに、私の気持ちには気付いていない。きっときちんと想いを伝えないと解っては貰えないんだ……。