第35話
沙織さんが戸惑いがちながらも頷いてくれたのを見て、私はホッとした。
それから、急激な緊張にさらされていたお陰で喉がすっかりからからな事に気がついた。私がこれだけからからならば、涙を沢山流し続けている沙織さんはもっと喉が渇いているのに違いない。
私としたことが、お茶も出さずにいたとはうっかりしていた。とにかく、一段落した事だし、麦茶をコップに注ぎ、沙織さんに出した。
沙織さんは、案の定喉が渇いていたようで、グラスを傾けると、一気に流し込んだ。私がもう少し飲む? と聞くと、首を左右に振る。
「ごめんなさい、ゆうさん。私……、私、本当に今まで一人ぼっちだったから。大学に入ってからもどうやって友達を作っていいのか解らなくなっていた私を、未知は同情してくれて、部屋に誘ってくれた。部屋に遊びに行った時に、圭人さんに優しくして貰って、嬉しくて。未知の迷惑も考えずに突っ走ってしまって。見かねた未知に圭人さんには好きな人がいるって聞かされた。どんな人かどうしても気になって私、調べたの。ゆうさんは、違う人が好きなんだって解ったら許せなくって。本当にごめんなさい」
沙織さんは自分の想いを落ち着いて話してくれた。
「沙織さん。確かに私は、近藤恵人を好きでした。恵人を完全に忘れたと言えば嘘になるかもしれません。だけど、今、一番傍にいたいのも、いて欲しいのも圭だけです。中途半端な気持ちで付き合おうと決めたわけじゃない」
私は、圭を失うわけにはいかない。失いとくないと思った。心からそう思っていた。だから、私の誠意を沙織さんになんとか解ってもらいたかった。
「解ってます。本当は、全て解っていました。ゆうさんがいい加減な気持ちでない事も、ゆうさんも沢山苦しんでいた事も。もう、こんな馬鹿な事は決してしません。二人の邪魔はしません」
沙織さんは私に、ごめんなさい、と深々と頭を下げた。その姿にはもう憎しみは存在しなかった。
もう、終わりにしよう。こんなしみったれたこと。誰が悪いんじゃない。誰かを好きになって、自分の意思とは関係なく体が動いてしまっただけ。沙織さんが悪いんじゃないもの。それだけ、圭が好きだってこと。その気持を制御出来なかっただけ。
「もう、終わり。私に謝ることない。もう、全部忘れちゃった、私。ねっ?」
私は、わざと明るく言った。沙織さんはまだ戸惑いがちに、それでも薄っすらと笑顔を作った。
「ねぇ、沙織って呼んでもいいでしょ? 私のことはゆうって呼び捨てね。これからよろしくね、沙織」
私は、そう言って、沙織さんの前に手を差し伸べた。その手をじっと見ていた沙織さんは、顔を上げて私の顔を見た。私がにっこりと微笑むと、やっと私の手を握り返した。
「ありがとう…、嬉しい……」
沙織さんがまた泣きだしたので、私は彼女の背中を摩りながらこう言った。
「嬉しい時は笑うのよ。さあ、私に沙織の笑顔を見せてくれない?」
沙織さんは腕で、涙を乱暴に拭うと、笑顔を作った。涙を流したためか目が真っ赤に充血しているが、沙織さんの笑顔はとっても可愛かった。
何だ、沙織さんって可愛いんじゃない。もっと、笑えばいいんだわ。きっと、彼女の過去が彼女の背中に負のオーラを背負わせてしまった。だけど、いつも笑っていれば、そんな負のオーラはどこかに吹き飛んで行くから、私はその手伝いが出来ればいい。沢山の友情で、沙織さんに人生って捨てたもんじゃないなって思わせたい。そう、その不器用な笑顔を見て私は考えていた。
「さあ、そろそろ帰らなければならないでしょ? 終電の時間とか大丈夫かな? 私、バス停まで送って行くから」
私達がアパートを出ると、そこに圭が立っていた。
「圭……」
圭は、沙織の前に立つと頭を下げた。
「俺のせいで、こんな事させてしまって悪かったって思ってる。ごめん。だけど、俺にはゆうがいるから、君の気持ちにはどうしても応えられない。ごめんな」
沙織は、不器用に笑顔を作ると首を左右に振った。
「私自身のせいです。謝るなんて必要ありません。私が勝手に好きになって、勝手に嫉妬して、勝手にゆうを困らせたんです。ゆうも圭人さんも全く悪くないんです。謝るのは、私なんです。ごめんなさい」
今度は、沙織が頭を下げる。また、謝罪合戦が始まってしまったと、内心うんざりしてしまった。
「あぁ〜、もう、やめやめ。もう、おしまい。誰のせいでもない。それでいいじゃない。もう、私は全部忘れちゃったからね。さぁ、沙織行くよ」
私はこのどうしようもなく重たい空気を一掃しようと、大きく明るい声でそう言って歩き出した。私の背後で、圭がふっと笑ったのが解る。沙織はちょっと戸惑っていたが、私の後に着いて来る。私は、着いて来た沙織に微笑みを向けた。恥かしそうに俯いてしまった沙織だったが、弱々しく微笑んでくれた。今は、これで十分。でも、すぐにもっともっと大きな笑顔にさせてあげるからね。
圭が私達の後について来た。
「俺も、送るよ」
圭が私の横に並んだ。
私は、圭と沙織の手を取って、両腕をぶんぶんと大きく振った。
沙織は戸惑っていたが、されるがままになっている。
ねぇ、沙織。私の手のぬくもり伝わってる? 温かいでしょ? 友達ってね、温かいんだよ。伝わってるかな、私の想い。
そのまま、三人手を繋いで、バス停まで歩いた。初めは遠慮がちに握られていた手が今ではがっちりと握られている。
「沙織、またね」
私は、バスに乗り込んだ沙織に大きく手を振り見送った。その隣で、圭も手を振っている。沙織は、バスの座席につくと、小さく手を振った。小さな笑顔を添えて。
そして、バスは走り去って行った。
残された私達は、もと来た道へ戻って行った。
「ゆう、ありがとう。それからごめん」
ゆっくりと二人で、歩いていると、圭が口を開いた。
「どうして?」
「ゆうに嫌な思いさせちゃってごめん。彼女の嫌がらせ、ゆうがいなかったらずっと続いてたかもしれない。だから、ありがとう」
別に有難うて言われるほど、大層な事をしたとは思っていないし、謝られるほどにひどい仕打ちは受けていない。
「ありがとうもごめんもいらないよ。大したことやってないし。私は、新しい友達も出来たし、何かラッキーとか思ってたよ」
そう言って、圭に笑顔を向ける。圭も微笑むと、私の頭をくしゃくしゃにした。私は頭に乗せられている圭の手を取ると、頭から降ろし、手を絡ませた。さっきと同じようにわざと大きく腕を振って、ケタケタと笑う。そんな私を見て、また眩しそうにくくくっと笑っている。
「ねぇ、圭」
ん? と言って私を覗き込む。
「あのね、私……圭とデートしたい……な」
圭が目を見開いて私を見ている。
「あの、ほら、私達って付き合ってすぐ沙織のこととかあって、デートとか出来なかったから……。いや?」
圭が突然くつくつと笑いだした。面を食らって圭を私は見つめる。
「くくくっっ、俺も同じこと考えてたよ。でも、ゆうから誘われるとは思わなかったからびっくりした」
「私から誘ったらだめだった?」
私が尋ねると、首を横に振り笑顔を見せた。
「その逆、凄く嬉しかったよ」
私も堪らず笑顔が零れる。
「ゆうはどこに行きたい?」
正直、圭とならどこでも嬉しかった。でも、どこでもいいよって言ったら、きっと圭が困ってしまうから、私は必死に考えた。
「映画とか? でも、今特別見たい映画もないし。ジェットコースターは苦手だから、遊園地は極力避けたいし」
「ゆう、ジェットコースター嫌いなんだ?」
驚いた圭の声を聞いた。私って思いっきりジェットコースター大好きそうに見えるのかしら? 確かに前に友達から、あんたがジェットコースター乗れないなんて詐欺だって言われたことあるけど、本当に駄目なんだ。ああいうのに乗る人の気がしれないわって思うほどに嫌い。
「圭は好きだった?」
「ううん、実は俺も苦手。正直、助かったって思ったよ」
ちょっと意外かも。圭は、ああゆうの全然平気なんだと思った。でも、とにかく一安心。これで、無理やりジェットコースターに乗せられる事もないのだ。
それにしても、圭ってジェットコースター乗れないんだ、何か可愛い……。
クスッと私が笑うと、「今、男のくせにださいって思ったろ?」と言った。
「そうじゃなくて、圭の意外な一面、何か可愛いって思っちゃった」
ふふっと笑うと、圭は少しはにかんで見せた。
何だろ、圭って年上なのに可愛い。
笑顔を見るたびに、ドキドキと私の心臓が波立つ。言葉を交わすたびに、胸がキュンとなる。
普段は大人で頼りがいがある圭が、ひょんな時に垣間見せる一面がとても可愛かったりする。それが、私には嬉しい。
「あとは、暑いからあんまり外は嫌だよね」
「ゆうは暑いの苦手?」
「ううん、違くて、ほら、汗かいたら隣にいて圭に汗臭いとか思われたらやだなって」
ちょっと恥ずかしくて、下を向いて打ち明ける。すると、圭はけらけらと笑いだした。
「笑わないでよ。女の子は皆そういうの気にするんだから」
ぷくっと脹れて明後日の方向を向く。圭の手が私の頭に乗っかる。
「ごめん、ゆうが可愛かったから。さっきゆうも俺のこと笑ったろ? これで、おあいこ。なっ?」
私は圭の言葉に納得して、頷く。
振り向くと圭の眩しい笑顔がそこにあった。その笑顔に照れて、下を向く。
「あのね、水族館とかどうかな?」
私が思いついて圭を見上げる。圭は水族館嫌いかな? という不安とともに。
私の不安を払拭するように圭はやわらかい表情を作る。
「いいよ、行こう。水族館か、子供の頃に行ったきりかな」
と言った。私は嬉しくなって、また大きく腕を振った。