第31話
「お前には幸せになって欲しい。相手が俺じゃなくても……」
恵人の背中が建物の中に消えて行った。
私は大丈夫……。私には圭がいてくれる。だから、大丈夫。
圭のことを考えていたら、無性に声が聞きたくなた。
まだ仕事中かな…。電話したら迷惑になるかな…。
迷惑になるのだけは避けたい私は、取り敢えずメールを送ってみる。
その後、私は一人ぼんやりと暮れて行く太陽を見ていた。
ピピッピピッ。
その場にそぐわない電子音が鳴り響き、メールが届いた事を知らせる。
『もう仕事終わったよ。今日は早く片付けたんだ。ゆうも仕事終わった?』
圭からのメールだった。私は圭に返信するかわりに、ダイヤルボタンを押した。
3回コールしたあと、聞きたかった圭の優しい低い声に繋がった。
『もしもし、ゆう? 今、どこ?』
「今ね、会社の屋上で夕日を見てるよ。凄く凄く奇麗で、涙が出そうになる」
圭の声を聞いたら、安心して弱気な声が出て来てしまった。電話の向うの圭が一瞬黙った。
察しの良い圭の事だから、私の様子がいつもと違う事に気付いたのに違いない。
『今からそこに行くから待ってて』
私の返事も待たずに通話は切れていた。ツーツーという無情な電子音に、私は取り残されたように感じた。
私は、携帯をバッグの中にしまうと、ふぅと息を吐いた。
私は圭に甘えてばかりだな…。圭に優しさや温かさ、楽しさと色んな物を与えて貰ってるのに、私は圭に何かを与えられているのかな。貰うばかりで何も与えていない気がする。
自分の存在がとてもちんけで寂しくなる。はぁと再度溜息を吐く。
もう、空の半分は暗闇に覆われている。夕日だけを見ていると感じないが、その反対側を見ると、まるで闇が迫り来るようで、いてもたってもいられなくなる。ここで、これ以上人を待つ事が怖くなって来た。
絵本なんかで、子供が一人夜の森で彷徨い、木がお化けのように見えて、急に恐ろしくなって震えるという場面に似ていた。
私はフェンスに背中を向け、その場に腰を下ろし膝を立て、そこに顔をうずめた。
圭……、早く来て。
それから少したっただろうか――実際はほんの数秒後だったかもしれない――、ドアがガチャッと大きな音を立てて開いた。私は、ガバッと勢いよく顔を上げた。
ドアの前には息を乱して立っている圭の姿が。そして一歩一歩息を整えながらゆっくりとこちらに近づいてくる。私は立ち上がって圭の元に駆け寄りたいのに、その姿に魅せられたように体を動かす事が出来ない。圭が向けてくれる笑顔が、私の心に密かに芽生えた子供のような恐怖を少しづつ取り除いてくれる。
私の目の前まで来ると、しゃがみ込み私の視線に合せる。
私は、反射的に圭の首に腕を巻きつけ、抱きついた。圭の息はまだ少し荒い。私の為に走って来てくれたんだ。
「何があった?」
私の頭を優しく撫でながら、優しく言葉をかける。私は、ぶんぶんと首を横に振る。
「恵人君と何かあった? 話してごらん、俺は平気だから」
「別に傷つくこと言われたわけでも何でもないの。恵人と喋ったら、圭の声が聞きたくなった。圭に会いたくなった。一人でいたら怖くなったの。圭は私の傍にずっといてくれる? どこにも行かない?」
圭の力が、ギュッと強くなった。
「ずっと傍にいるよ。どこにも行かない。約束する…。だから、安心していいんだよ」
うん、と私は頷いた。もっともっともっと強く抱き締めて欲しかった。息が止まるくらいに。
圭がふっと力を緩め、私の顔を見る。私は恥ずかしくて圭の顔を見れない。
「俺に会いたかったのに、俺の顔、見ないの?」
両頬を両手で挟まれ、顔を上に向けられた。圭は私の頬を真ん中に寄せ、私の変顔をみて、ははっと笑った。
「ゆうが苦しかったらいつでも呼んで。いつでも来るよ」
「本当に? 何か圭ってヒーローみたいね」
顔を見合せて、笑った。不安が徐々に消えていく。恐怖が段々萎んで行く。
「何かね、東の方からどんどん暗くなるでしょ? それ見てたら、闇に追い詰められてる気がして、心細くなっちゃった。夕日は好きだけど、ちょっとにがて。この時間帯は、寂しい気分になる。でも、不思議。圭と一緒に見てたら、ちっとも怖くない」
圭の手が伸びて来て私を再び包む。さっきまでは地上で聞こえる車の急ブレーキの音もプップーというクラクションの音も、遠くから近付いてくる救急車の音も私の恐怖を焚きつけるものでしかなかった。でも、今はそれらの音は私を恐怖に引き込もうとはしない。ただ、日常の音として私の耳に入って来るだけ。
「ゆう、まだ怖い?」
私は無言で首を横に振る。じゃあ、帰ろうか、と私の背中をポンポンと叩いて言った。圭は先に立ち上がると、私に手を差し伸べた。お昼休みにもこんな風に手を差し伸べられた事を思い出し、クスッと笑った。
「ん? どうした?」
「ふふっ、昼休みの時もこんな感じだったね」
「ああ、今度は大丈夫。加減に気をつけるよ」
圭もははっと笑うと、私の手を取ってグイッと引き上げた。力強い力で引き上げられたが、今度はふらつくことはなかった。手を繋いだまま二人は、見つめ合い、微笑み合った。
そして、その場を後にすると、帰路についた。電車を降りて、バスに乗る。今日はこのまま圭の部屋におじゃますることになった。
バス停で降りて、スーパーで買い出しをする。
今日は俺が作るよと言うので、私は何だかワクワクした。
さっきまで、怖いと言って泣きそうになっていたのに、私って相当単純なんだなと自分で自分に呆れる。本当に圭の手料理が楽しみで、緩んだ顔が元には戻ってくれなくなってしまった。気付いたら鼻歌なんかも披露する始末。そしてそんな私は、夕飯の買い物の主婦の皆さまに笑われてしまった。そんな私を圭は眩しいものでも見るように目を細めて見ていた。
ご機嫌に買い物を終わらせると、圭は右手に買い物袋、左手に私の右手を掴んで歩きだした。
「今日は未知早く帰ってくるの?」
私は横にいる圭の横顔を見ながらそう尋ねた。
「どうかなぁ、特に何も言ってなかったかな」
最近私は未知の顔を見ていない。大学が忙しいのか、先輩とデートで忙しいのか久しく会っていない。メールでは連絡は取り合っているし、圭からも色々聞いてはいるのだが。
マンションにつくと、早速料理を始めた。
今日のメニューは親子丼。
実はこれ私のリクエストだったわけなのだ。私が親子丼に目がないと話したら、じゃあそれにしようとあっさり決定した。
私はキッチンで圭の隣に立ち、玉葱を刻む。圭はつゆを作る為に鍋に調味料を入れている。たちまち醤油のいい匂いが私の鼻を掠め、私の空腹を刺激する。
「なんか、こうやって二人で台所に立ってると、夫婦みたいだね」
圭のさりげない一言に私は手元が狂って、指を切ってしまった。
「痛っっっ」
私がそう短く声を上げると、圭が私の指を取ってチュウッと血を吸う。
わぁ、どうしよう……。
私は、こんな事男の人にされたことがなくて、どうしたらいいのか解らなくなった。
赤い顔で圭の少し俯いている顔を眺めていた。この角度から圭の顔を見たのは初めてだった。いつもは見上げることばかりで、見下げることはない。私は目が離せなくなっていた。圭が不意に目だけを上に上げる。ばっちりと目があって、私は金縛りにあったように視線を逸らす事が出来ない。
圭の顔が私に近づいて来る。スローモーションを見ているようにゆっくりと流れるように動く。
私はそっと目を閉じた。