第30話
二人並んでベンチに座り、圭が買って来てくれたパンを頬張る。
日陰で、噴水から水が噴き出していて、それがいい感じに涼しくしてくれているのにも拘らず、私の体は酷く熱かった。
圭が隣にいるのはいつも通りのことなのに、それが彼氏という肩書がついただけで、いつもとは全く違う気がした。緊張しているんだと思う。お腹は空いているのに、上手にパンを飲み込めない。
緊張している間に、気付くともう戻らなければならない時間になっていた。
「そろそろ行かないと……」
私が圭に声をかけると、そうだねと微笑み立ち上がると、私の目の前に手を差し出した。いくら鈍いと言ったって圭が差し出した手にどんな意味があるのかくらい私にだって解る。
私はおずおずと圭の手を取った。それと同時にギュッと手を強く握られ、引っ張られた。ベンチに座っていた私は勢いよく立ち上がり、それだけではおさまらず勢い余って圭の胸の中に飛び込んでしまった。
「ごめん。力の加減を間違えた。ゆう、軽すぎ」
私はびっくりして圭から離れようとしたが、圭の両腕にすでに包まれていてびくともしなかった。
「少しだけこのままで。そしたら午後の仕事頑張れる」
圭の低い声が耳元で聞こえ、ぞくっとした。
それを隠す為に私は、クスッと笑って、本当に? と、顔を胸に埋めたまま小さく呟いた。自分でも聞こえるか聞こえないかというほどに小さな声になってしまった。圭には聞こえなかっただろうと思ったのに、うんと、圭は頷いた。
こんなに暑い日に、しかも屋外でくっ付いていたら、ただひたすらに暑いはずなのだが、今の私には暑さは全く気にならなかった。
これから直ぐに圭と別れて仕事をしなければならないと思うと、何だか寂しくなってしまった。このまま仕事なんて投げ出して、どこかに二人で行ってしまいたい……。
だけど、小心者の私には大抵無理な話なのだ。
圭が私の頭を優しく撫でてくれる。私は、圭にこうして貰うのが大好きだった。飼い主に撫でられて嬉しそうにしっぽを振る猫や犬の気持ちが今なら解る気がする。
ドキドキしている私の心臓の音の速さは記録的な物を叩きだそうとしていた。それなのに、感じる安心感。ドキドキ感と安心感。同時に感じる二つの感情。それがとても心地好かった。
「よし、元気も出たし行こうか、ゆう」
私の頭をぽんぽんと2回軽く叩くと明るい声でそう言った。
圭の心臓の音が私と同じくらい速かった事、たまにごくりと喉を鳴らしていた事、汗をかいているのに少し震えていた事を私は知っていた。その明るい声が緊張やテレを隠す為だということも。
私は圭にバレないようにクスッと笑った。そして、今度は私から圭の大きな手を取ると、圭を見上げて微笑んだ。圭は嬉しさを隠そうともせずに顔をくしゃくしゃに緩めて笑う。圭は案外自分の気持ちをストレートに表現する。圭のそんな顔を見れるのが、私にとっての喜びでもあった。
私と圭は手を繋ぎ、サラリーマンやОLの波に乗って歩いた。廻りは二人のことを気にする者は誰もいない。私達が手を繋いでいようが、もしかしたらキスをしていようが、自分のことが精一杯で他人のことなど構っていられないのだ。
いつも別れる信号の前、名残惜しくて手をなかなか放せない二人。信号が青に変わる数分間がタイムリミット。信号が青に変わっても直ぐには手を放せない私。二人を通り過ぎるスーツ姿の戦士達。微笑み私を見下ろす圭。
「また、メールします」
最初に口を開いたのは私。
この1か月で、圭に散々敬語は止めるように言われて、大分抜けて来ていたのに、ふとした瞬間に出てしまうことがまだある。圭が眉間に皺をよせ、抗議の表情をする。
「ごめん。後でメールするね、圭」
慌てて言い直して、笑顔をつくる。
私に微笑み返す圭。大輪の花が咲き乱れる光景をバックにしても見劣りする事がないほどに奇麗な微笑み。女の私が完敗してしまうほどに。
ずるいななんて思うのは、お門違いというものだろうか。
「じゃあ」
と言って、いつものように颯爽と歩き去る。
信号を渡りきったところで、一度振り向き右手を上げる。それを見届けてからお互いに歩きだすのがいつの間にかの暗黙のルールになった。
そして今日もまた会社までのダッシュを余儀なくされた。
1時にはどうにか間に合ったが、今日もまた瑛子さんの鋭い目の餌食となってしまった。もう少し早めに戻るようにとキツイ目に責めたてられる。素直にそれを受け止めると、速やかにデスクに着いた。ふと顔を上げると綾がにやにやとこちらを見ている。私は顔の前で両手を合わせると、ごめんねと口の動きだけでそう伝えた。綾は首を横に振ると口を動かして何かを伝えようとしていた。一度では理解出来なかったので、もう一度同じ事を繰り返して貰いようやく理解することが出来た。「ど・う・だ・っ・た・の・?」綾はそう言っていたのだ。私は右手でぐ〜サインを作り、綾に頷いて見せた。私のその合図を見て、ぱっと嬉しそうに笑顔を作り、何度も頷く。
綾に沢山心配かけて、こんなに喜んでくれて感無量で、鼻の奥がつ〜んとなった。このままでは涙が出そうな気がして無理借り押し込めて笑って見せた。
その日の夕方、私は仕事を終え、帰ろうとしている時だった。恵人がエレベーター前の通路の壁によっかかっていた。
「お疲れ様です」
私は恵人に挨拶をするとそのまま通り過ぎようとした。だが、恵人の前を通ったその瞬間に手首を掴まれていた。
びっくりした私はパッと振り向くと、素早く手首をはらった。こんな所で誰かに見られたら碌でもない噂をたてられて働きづらくなってしまう。私は周囲を見回して誰もいないことを確認すると、ほっと息を吐いた
「話がしたい」
恵人の掠れた様な低い声が私の耳に届く。
「仕事の話ですよね?」
「そうじゃないの解ってるんだろ?」
苦笑して恵人が答える。
そう、勿論解ってるよ。だけど、恵人と二人で話をするのはまだ正直怖いんだ。折角昼に幸せな気持ちになれたのに、途端に苦しい気持ちを感じる。
でも、それを表情に出すつもりはない。私は恵人の前では驚くほど自分の気持ちを隠していられる。恵人が鈍いだけか、それとも長年恵人の前で何も感じないふりをして来たからなのかは解らないが、恵人の目を欺く事は出来るようだ。
「5分だけなら」
私は恵人を見ずにそう言った。
「じゃあ、屋上で。先に行っててくれ」
私は何も言わずに歩き始めた。エレベーターに乗って屋上の一つ下の階まで上がり、1階分階段を上る。屋上のドアの鍵が閉まっているんじゃないかと思ったが、ドアノブを回すといともあっさりとドアが開いた。外に出て、あたりに誰もいない事を確認する。
まっすぐに歩き、フェンスの前まで行って風景を眺めた。まだ日は高い。遠くまで見渡す事が出来た。
屋上のドアが開いた音がしたが、恵人だと解っているので、あえて振り向かない。
「俺たちの高校見っけ」
すっと私の隣に立った恵人が突然大きな声で言うものだから私は耳が痛かった。
「あいつと……付き合うことにしたんだな?」
1か月前に、圭と近藤家に行った時に、私達は付き合っているという嘘を吐いていた。今更な科白に少々困惑する。
「1か月前のあれは嘘だっただろ?」
バレてたんだ……。
恵人はまっすぐと前を見据えたまま、表情も変えていない。
「知ってたの? 嘘だって」
ああと、恵人が低く頷く。
「うん、私、圭と付き合うことにした」
「それで、お前は幸せになれるんだよな?」
「うん、なれる。圭となら私幸せになれる」
私は下を向かず、笑顔を作り恵人を見た。私は、圭と幸せになれると信じていた。下を向くわけにはいかない。
「もし、お前が泣くことがあったら、どんな事をしてもお前を奪うからな。その時は翠も家族も全部捨てて、お前をとる」
恵人の力強い真剣な目が少し怖かった。
「そんなことにはならないよ、絶対」
そう絶対。私は恵人ではなく、圭とずっと一緒にいる事を選んだ。二人で幸せになるんだ。私は確かにこの時、心からそう信じていた。そう、信じたかった。
「お前には幸せになって欲しい。相手が俺じゃなくても……」
「私だってそう思ってるよ。恵人に幸せになって欲しい、翠と……」
恵人は薄く笑った。悪かったな時間とらせて、と言って恵人は私を置いて去って行った。
追いかけたいとは思わない。待ってほしいとは思わない。ただ、切なかった。どうしてこんな気持ちになるのか、自分でもよく理解出来ずにいた。ただただ切なかった。