第29話
―――1か月後
7月の終わり、梅雨が開け本格的に夏が始まっていた。梅雨が開けた途端に待ってましたというように、蝉がミンミンと大合唱を始めた。
恵人の家には、相変わらず毎週金曜日になると、翠に呼ばれていたので、訪問していた。恵人は、私と圭が『付き合ってます』という嘘の発言をしてから、むやみに私を抱きしめたり、愛の言葉を囁くことはしなくなった。以前のように、友人として私と接してくれるようになり、私としてはホッとしていた。
圭とは週に2度くらいの頻度で会っていた。メールは毎日していて、それに加えてたまに電話で話す事もある。ただ、私はいまだに圭に返事をしていたなかった。
「そんなの付き合ってるのと何が違うのよ。矢田さんが気の毒だよ。ちゃんと返事しな」
と、綾は言う。
私もそう思う。あれから1か月もたっている。私の中でも圭と付き合う覚悟が本当はもう出来ている。ただ、どう切り出していいか解らなかっただけなのだ。
「うん、そうする」
綾は自分のことの様に喜び、明日のランチは私がお祝いに奢ってあげるからねと、浮足立っていた。
綾には、今日圭と一緒に帰る約束をしていたので、その時返事をすると高らかと宣言した。
ところが私はいざ圭を前にするとたちまち緊張してしまい、情けないことに結局返事をする事は出来なかった。
その翌日に圭と綾と三人でランチをする約束をしていた。
三人でたまにランチをする事がこの1か月の中で何度かあり、圭も綾も大分打ち解けていた。1度だけ都合をつけて健司さんも来てくれた事があった。綾は、健司の第一印象を、『イケメンなんだけど、なんかちょっとアホっぽいわね』と言っていた。確かに、健司さんは明るくてお喋りが好きだから、アホっぽく見えるのかもしれない。でも、健司さんがあまりに気の毒になった私は、とてもいい人なんだよと、フォローを入れておいた。
その日、私は綾に前日に圭に返事することが出来なかったと伝えられなかった。前日の自分の失敗を悔いて中々寝る事が出来ず、朝は寝坊をしてしまい、そして日中は目が回るほど忙しく、人と話す余裕すらなかったのだ。
「あのね、綾。昨日、私実は……」
「いいっていいって、何も言わなくても解ってるから。うんうん、良かったね」
「違うの、綾。違うんだって」
「解ったから、惚気は後でいくらでも聞いたげるから」
圭との待ち合わせ場所に着くまでになんとか綾に昨日話せなかった事を打ち明けようとするのだが、綾は完全にカップルが成立したと思いこんでいるので、さっぱり話を聞いてはくれなかった。
「あっ、矢田さん! 良かったですね。やっっっと想いが通じて。ゆうのこと大事にして下さいね」
あぁ、もう駄目だ……。
「え? え?」
圭は綾の顔を見て意味が分らないと言う顔で一言、瞬時に何かを悟ったのだろうが、それでも意味が分らなくて一言呟いた。そんな圭を見た綾もまた、「え? あれ?」と、二人の視線が私に集中した。
私は二人の視線に耐えきれず、俯き自分の爪先をじっと見つめた。
どうしてこうなっちゃったんだろう……。ちゃんと自分の口から伝えるつもりだったのに……。うう、気まずい……。
「綾さんごめん。昼休み、ゆうを借りてもいいかな?」
「どうぞ、どうぞ」
綾も自分がとんでもないことをしてしまったと思っているようで、かなり焦って汗がだらだらと出ていた。勿論外が暑いから汗はかくんだけど、明らかにあれは冷や汗だと思う。私がきちんと話せなかったから綾にも嫌な気持ちを味わわせてしまった。あとで、綾にきちんと謝らなくちゃ。
でも、綾が圭に言った言葉を聞いて、綾の馬鹿〜って思わずそう思っちゃったことは内緒にしておこう。
圭は私の手をがっちりと掴むと、何も言わずに歩きだした。小走りで圭の後を引っ張られながらついて行く。
公園の中に入ると、圭の手が離れた。公園の中でも木が沢山あって木陰になっていて、人があまりいない所で二人は立ち止まった。私は圭の正面に立ち、俯いていた。
公園の木の下にいるのだから、当然蝉の音が聞こえる筈なのに、車が通る音や人々の喋り声、横断歩道のあのお馴染みの電子音、お店から流れる有線の音楽、それらいつも当たり前に耳に入って来る筈の音が今の私には何一つ聞こえてこない。
聞こえるのは圭の声だけ。
「あのさ、ごめん。お腹空いてるよね?」
私はぱっと圭を見上げると、首を振り否定の意を表した。
「でも、さっきの俺、気になってご飯どころじゃなくって。なんか俺の頭の中今ちょっとパニックになってて。って俺何言ってんだろ、自分でもよく解んないや」
私は照れ臭そうに頭の後ろを掻く圭を何かにとりつかれたように見つめていた。
「俺、ゆうが好きだよ。まだ、恵人君のこと完全に忘れられないんだろうなって解ってる。でも、俺が絶対忘れさせるから。俺がゆうを幸せにする。約束するよ。だから、俺と付き合って下さい。俺の傍にいてくれないかな?」
2コ年上の大人だと思っていた圭が声を震わせて、真っ赤な顔をして一生懸命に真っ直ぐな気持ちを伝えてくれていた。それが嬉しくて、胸がキュッとなって、恥かしくて、結局私から伝えられなかったと自分を情けなく思って、とにかくいろんな感情がごちゃまぜになって結局私がどう感じているのか解らなくなってしまった。圭が私の反応を恐る恐る窺っている。
「はい」
自分の声が震えているのにびっくりした。結局、その一言しか伝える事が出来なかった。もっと、色んな科白を考えていたのに、たったのそれだけ。だけど、それだけで私は一杯一杯だった。
圭の表情が、私の一言により、不安げだったものが一気に笑顔の花が開いた。私はそれを見て、自分が正しい選択をしたのだと嬉しくなった。私も自然と笑顔を見せた……つもり。二人とも恥かしさを誤魔化す為に声を立てて笑った。二人で笑い合っていたら、急にお腹が減って来てしまった。
ぐるきゅるるるるぅぅぅぅっ
「「……。」」
私のお腹が豪快な音をたてる。
嘘!!! こんなことって、こんなことって。たった今付き合い始めた二人なのに、こんなタイミングで、こんな豪快な音って、私のお腹ったら私に恨みでもあるんじゃ……。恥かしい…、ひたすら恥かしい。この場を逃げ出してしまいたい。
「プッ、ハハハハハハ」
私が気不味い想いをお腹に愚痴っていると、圭は突然吹き出し笑い出した。お腹を抱えて苦しそうに笑い出した。
「圭! ひどいっ、そんなに笑わなくてもいいでしょっ」
もう、そこまで笑わなくてもいいのにっ。
膨れっ面で圭が笑い終わるのを見ていようと思ったけど、結局私もつられて笑っちゃったんだ。だって、こんなの笑い飛ばさなきゃ恥かしくてやってらんないもん。そうでしょ?
気付いたら廻りの全ての音が戻って来ていた。違うか、私が戻って来ていたんだ。笑ってすっきりしたら、緊張の糸も切れていた。さっきまで恥かしくて圭の顔もまともに見れなかったけど、もういつものように見つめられる。二人のいつもの空気が戻って来た。
「ごめん、昼休み半分終わっちゃったよ。嫌じゃなかったら、ベンチでパンでも食べない?」
「うん、私はそれでいいけど。圭は足りるの?」
「大丈夫。俺、今胸がいっぱいであんまり食べれそうにないや。俺、適当に買って来るからゆうは座って待ってて」
そう言うと、背中を向けて走って行った。こんなに暑いんだもの汗びっしょりになるのに。
私は圭が公園を出るまで背中を見送っていたが、公園の中をぐるりと見回し日陰になっているベンチを見つけ、そこに腰をおろした。
不意に公園の前の通りを恵人が通り過ぎるのを見た。
どくっと心が一瞬揺れる。私に気付かないで、お願い気付かないで。私は少し圭に申し訳なく思ってしまった。
恵人のことは友達だと思うようにしている、実際そう思えるようになっている。だが、今日の様に不意に姿や名前を聞くとまだドキリとしてしまう。ほぼ毎週近藤家に遊びに行っているが、圭と付き合うようになったからには、もう行かない方がいいのだろうか。
「やっぱりもう翠のとこ遊びに行かない方がいいのかな……」
誰もいないと思い私は一人呟いた。
「行ってもだいじょうぶだよ」
誰もいないと思っていたのに頭上から返答が降って来て私は驚いて顔を上げた。見上げると圭は私に笑顔を向ける。
「俺に気を使わなくてもいいんだよ。翠ちゃんも恵人君もゆうの大切な友達でしょ?」
「うん、そうだけど」
そうじゃなくて、私は圭が嫌な気分になるんじゃないかとそれを気にしているんだよ。もし、私が圭だったら、出来れば恵人には会って欲しくないって思うだろうから。
「俺なら大丈夫。これからはゆうにいつでも会えるんだから」
笑顔がほんの少し不自然に見えるのは、私の気のせいだろうか。私は考え過ぎなんだろうか。でも、あんまりしつこくこの事を圭に聞いても、気分を害されるのも嫌なので圭の言葉を素直に受け取ることにする。
「うん。でもね、私友達も大事だけど、圭と会いたいから。だから、時々にするね」
私の言葉に本当に嬉しそうにふんわりとやわらかい笑顔を見せてくれる。今度の笑顔は本当に自然な笑顔だと思えた。