第27話
「ゆう、俺は君が好きだ。俺と付き合って欲しい」
もう、すでに圭の姿は暗闇の中へ消えていた。
私は蝋人形と化したままどのくらいそうしていたのだろうか。気付けば雨はもう止んでいた。
圭はとうに家に辿り着いているのではないか。
圭に掴まれた右手首は熱が徐々に引き、ほかの部位ともう変わらない。だが、あの生々しい感触だけが私の手首から消える事はなかった。
「熱出そう…」
と、一人ごちて初めて辺りを見回す。まだアパートまで着いていないと思っていたのに、そこはアパートの前だった。
自分が圭と一緒にいる事で廻りが見えていなかったのだと気付かされる。大きな息の塊をひと息に放出し、私はアパートへと歩を進めた。
翌日の日曜日は、家でゆっくり一人で過ごした。
久しぶりの一人の休日、色んな事が短期間で一気に降りかかり心も体も休まる事がなかった。
今日は、恵人のことも圭のことも何も考えずに心の骨休めをすることを誓った。
昨日は、矢田兄妹の毒にあてられて正直疲れていた。
先週綾と見たDVDをTSUTAYAに返しに行かなきゃならない。窓の外を見ると午前中ずっと降っていた弱い雨が今は止んでいる。また雨が降ってくるかもしれないので、止んでいる今のうちに行っておいた方がいいだろう。私は素早く身支度をすると、傘を持って家を出た。
外に出て空を見上げると、湿った雲が空を覆い隠し、今にも泣き出しそうだ。水たまりを避けて歩き出し、もしかしてTSUTAYAで圭と会ってしまったらどうしようと思い至った。別に会いたくないわけじゃない、どんな顔をして会えばいいか解らないだけだ。
今日は、恵人のことも圭のことも考えないと決めたのに、もう既に考えてしまったと自虐的な苦笑を洩らす。
TSUTAYAに着くと、不自然に店内を見渡し、圭がいないことを確認し、肩の力を抜く。いないと分かると急に気分が楽になり、鼻歌交じりに見たいDVDを捜す。
ふと目についたDVDを手に取る。見たいと思っていたが、ずっと貸出中で借りれなかったもの。こてこての恋愛物。今を逃せばまた暫く借りれないだろうことは目に見えていた。だが、日常生活で恋愛はお腹がいっぱいで、とても見る気にはなれない。泣く泣く棚に戻す。
今日はアクション物とコメディ物に的を絞って探すことにする。捜す事に夢中になって、来店してからゆうに1時間はたっていた。じっくり選んで決めた2本のDVDをレンタルすると、お店を出た。
雨が再び降り始めていた。
傘を持ってきておいて良かった。何気なく持って来た傘だったけど、こんな時自分の予想が当たったのだと思うと、ちょっといい気分だ。
そのちょっとご機嫌な気分のまま歩いていると、私の正面に男の人が立った。
ちょっと前からその人のジーンズは目に入っていたのだが、すぐに私の横を通り過ぎるものと思っていたので、目の前に立ち止まるとは考えてもいなかった。何よこの人っと、思い傘を上げて、その男の顔を見てぐっと一瞬呼吸が止まった。
そこには、嬉しそうに目を細めて私を見おろしている圭が立っていた。
「こんにちは。TSUTAYA行って来たんだ?」
「こんにちは。はい。圭はお出かけ?」
TSUTAYAで受け取ったDVDを軽く持ち上げてからそう言った。
案ずるより産むがやすしとは昔の人はいいことを言ったもんだ。圭と会ったらどうしようと必要以上に考え過ぎていたようだ。いざ会ってみると普通に会えた事が嬉しくて自然に笑みも零れた。
「うん。ちょっとコンビニまで、また未知に遣いに出された。でも、今この辺通ったらもしかしてゆうに会えるかなと思ってた……ら本当に会えた」
そうやってさらりと私に会いたかったみたいなことを口にする。きっと圭の思うつぼなんだろうけど、それでも私は馬鹿みたいに顔を赤らめてしまう。
「ゆうはこれから暇?」
「それって絶対返事解ってて言ってますよね?」
ようは暇だと言っているようなもんだ。別にいいんだけど、実際暇なわけだし。
「うち来ない?」
え? 昨日の今日で? また悪魔兄妹の餌食になれと言うのですか?
「ふっ、今日は未知の学校の友達が来てるから昨日のようなことはないと思うよ」
圭には私が考えている事は手に取るように解るみたいで、いや実際その通りなんだけど、なんか悔しい。ポーカーフェイスをたまには決め込みたい。
「あれ? 圭人さん?」
『けいと』という言葉にギクッとする私。圭の背後から真っ赤な傘を差した女の人が声をかけた。圭が振り返るとああと呟いて軽く笑った。
「もう帰るところなのかな?」
「はい。そちらは圭人さんの彼女さんですか?」
その女性は私を爪先から頭のてっぺんまで舐めるように見ていた。なんかこの人怖いなというのが、第一印象。特別奇麗とか可愛いとか言うタイプの女の子ではない。世間一般的に言う所の普通。別段何も問題がないように見えるけど、私を見る目が尋常じゃなかった。上手くは言えないが、彼女から負のエネルギーというか恨みにも似たオーラが体中から放たれているようで、見られていると、気分が落ち込んで来てしまう。
「まだ彼女ではないけど、俺がそうなって欲しいなって思っている人なんだ。石川ゆうさんだよ。ゆう、こちらさっき言ってた未知の友達で、えっっと」
どうやら圭は彼女の名前を覚えていないらしい。
「増田沙織です」
沙織さんの瞳が少し寂しげに揺れた。
「圭、名前忘れるなんて失礼だよ」
私が圭に文句言っているのに圭は何が楽しいのか私を見て口元を上げている。一体何が楽しいのだろうか。
「うん、ごめん。増田さん」
沙織さんに謝罪すると圭はまた私を見つめ、微笑む。優しい微笑み。圭は私を見つめる時、いつも眩しそうに目を細める。私を眩しいと思っているんだろうか。そんなまさかそんな事はないだろう。でも、圭には私がそう見えているのかも……? 実際より3割増しに良く見えちゃってるのかな、恋が冷めたらきっと私なんか見向きもしないんだろうな。恋が冷めたら……か、やだなそんなの。
私がほんの少し眉毛を下げると、圭は見逃さなかった。
「ゆう? どうした?」
圭があまりに心配そうに私を覗き込むので、安心させる為に私は圭に微笑みかけた。それを見た圭もホッとして微笑む。
不意に沙織さんを見ると、圭が私を見ている時とそっくりな目で圭を見ているのに気付いた。もしかして、この人圭が……好き……なんだ。それなら、彼女が私を見るあの目の説明もつく。要するに圭に近づく私に嫉妬しているのだ。
私の視線に気づいたのか、沙織さんは私に視線を向け私と目が合うと、はっとした顔をして目を逸らした。
「圭、今日は行くの止めておく。昨日ので少し疲れたから今日はゆっくり家で休むよ」
「そっか、じゃあ家まで送る」
うんと、短く返事をする。
「それじゃ、増田さん。俺達行くから」
「はい。さようなら」
私と圭は歩き始めた。沙織さんが歩き出した音は聞こえてこない。あのまま私達を見ているのかもしれない。圭を優しい目で見ているのか、それとも私を睨みつけているのかは解らない。
圭は解ってないのかな、彼女の気持ちに。人の表情を読むのに長けている圭が彼女の気持ちに気付かないわけがない。きっと気付いていて、気付かないふりをしているんだろう。だって、この鈍感な私でさえも解るくらいに、彼女の視線はあからさまだったのだ。