第26話
私は夕方に、帰りますと、申し出たのだが、未知と矢田さんに強引に引きとめられた。
「夕飯も食べて行きなよ。帰りはお兄ちゃんに送らせるから、問題なし」
そう言われて矢田さんを見るとこくりと頷き微笑んでいた。それを見て、私は夕飯を御馳走になる事に決めた。
そして、夕食時。
夕飯は中華で、海老チリや回鍋肉、八宝菜、点心物などここはお店なの? と聞きたくなるほど多種多様な料理が並べられていた。
「いつもこんな豪華なの?」
「いやいや、今日はゆうゆがいるから特別だよ。朝から下拵え頑張っちゃったよ」
自慢げな未知を見て少し笑った。
「美味しい! 未知天才!!! 調理師になれるよ」
「きゃははっ、褒め過ぎだよ」
未知は頭の後ろをぼりぼりと掻きながらしきりに照れていたが、悪い気はしないようでへらへらと笑っていた。
「ゆうゆはさ、お兄ちゃんの第一印象どうだった?」
それぞれに食事を楽しみながら、他愛のない会話をしていたのだが、突然未知からそんな質問を浴びた。
「ええ? ここで言うの?」
矢田さんが聞いている前で話すのはかなり恥ずかしかったが、未知は許してはくれなそうだった。諦めた私は仕方なく話し始めた。
「矢田さんは凄く大人〜な感じがした。クールで冷静な大人の男の人って感じ。隣にいたのが健司さんだったから尚更そう思ったのかもしれない。凄く恰好良い人だなって思った」
私が矢田さんを横目で視界に入れると、矢田さんは少し照れているようで、顔が少し赤かった。それを見た私も伝染したのか顔が赤くなっていくのが解った。
「ふ〜ん、じゃあその印象はかなり裏切られたでしょ?」
「好い意味で裏切られたかも。あまり完璧すぎるとこっちが疲れちゃうもん。矢田さんは第一印象より今の方が断然好印象だな」
「ありがとう、ゆうちゃん」
いいえと、私は大袈裟に手を左右に振った。二人は自然と見つめ合い、そして微笑みを交わす。矢田さんのとろけそうな微笑みを受けて真っ赤になってしまった私は急いでまた食事に没頭するのである。
何かいつも私こんなんだな。矢田さんにもしかしたら、私はご飯を食べる時はがっつくタイプだと思われている気がする。それって女としてどうなのよ……。
私は矢田さんがどんな顔をして私を見ているのか怖くて見れなかった。もし、呆れた顔をして見ていたらと思うと、いたたまれなくって。
「ねぇ、ところでさ、その矢田さんって呼び方やめたら? 堅苦しいし、私も矢田さんなわけだしさ」
そう言われてみればそうなのだ。矢田さんと名前を呼んだ時に、反射的に未知もたまに振り返ってしまうらしかった。紛らわしいのだ。かと言って圭人とは呼びづらい。どうしても恵人を思い出してしまう。
「ゆうちゃん、俺のことは圭って呼んで。それならいいでしょ? 試しに呼んでみて」
『けいと』と呼ぶ事に私が抵抗を感じた事に矢田さんは気付いていたようだ。矢田さんの心遣いが、申し訳なくって胸が痛い。
「はい。えっっと圭…さん」
「「さんはなし!!!」」
未知と矢田さんから同時に指摘を受けた。二人の声がぴったり揃ったので、流石兄妹と変なところで感心してしまった。
それにしても、ずっと名字で呼んでいた人を突然名前で呼び始めるのは凄く恥ずかしくて、くすぐったい。
「け、圭」
私が戸惑いながらも何とか絞り出した小さな声を、未知も矢田さん…もとい圭も満足そうに頷いている。
「そしたらお兄ちゃんも、ゆうって呼びなよ」
矢田さんは私を窺った、いいのかなって顔をしているので、いいですよっと微笑み頷いた。
「ゆう」
ただ名前で呼ばれただけなのに、胸が苦しくなって、恥かしくって体が熱くなった。こんなこと初めて。
恵人に名前を呼ばれても感じる事のない高揚感が私の体を占拠する。そんな私を正面に座る兄妹は満足げに目を細めて見ていた。その表情や仕種が全く同じなので、やはり二人は兄妹なんだなと思うと可笑しくってクスッと笑ってしまった。何とかどうでもいいことを考えて圭を極端に意識して体が熱くなるのを抑制しようとしているような気がした。
私は食事を終えると未知の洗い物を手伝った後、おいとますることを二人に告げた。
今日一日ここにいて、この兄妹と一緒にいて気付いた事、それは、二人とも私をからかって(本気で言ってはいるようだが)は、私の反応を窺って楽しんでいるということ。二人が意図的にそうしているのか、無意識にそうしているのかは解らないが、私は二人の悪魔(天使の仮面をかぶった悪魔)に捕らわれてしまったように身のちじむ想いだった。奇麗な顔と零れるように大輪の花を咲かせたような笑顔で私を魅了する美しい天使のふりをした悪魔。私はもうその罠にかけられているのかもしれない。大袈裟かもしれないが、二人がタッグを組むとそんなイメージになる。これ以上ここにいれば取り返しのつかない事になりそうで、私はここからの逃亡を図った。
私は圭と連れ立ってマンションを出た。
家の中で過ごしていたせいで雨が降り始めた事に全く気付かなかった。当初はこんなに長く滞在する予定ではなかったので、傘を持ち合わせていなかった。圭に傘を借りてエントランスを出た。外はすっかり日が暮れていた。雨は小粒で傘にあたる音はパラパラと軽いものだった。雨の中を歩くと、パシャパシャという音と傘にあたるパラパラという音、時折電柱から滴り落ちる大粒の雫が傘に当たった時のボタッという音、それが水たまりに落ちた時のポタンという音、車が通り過ぎた時のバシャァァという音など、雨の日は晴れの日よりも色んな音が私の耳に入ってくる。雨は嫌いじゃない、寧ろ好きだ。だが、雨の日の通勤だけは好きにはなれない。子供の頃は実家の縁側から雨が降っている様を何時間も飽きずに見ていた。そんな時に口ずさむのはいつも雨の出てくる歌。懐かしくなってふっと口元を緩めた。
圭は、私の僅かな空気の動きに素早く反応した。
「何が可笑しいの?」
「ふふっ、思い出してたんです。子供の時実家の縁側でよく歌を歌いながら雨を見てたなって」
「どんな歌?」
「もう本当に色々。雨雨降れ降れ母さんが〜とか、かえるのうたとか、雨雨降れ降れもっと降れ〜とか、雨がつく歌を思いつくままに歌うの」
雨の音でよく聞こえないが、圭の傘が細かく揺れているところを見るとどうやら笑っているようだと思い至る。
また暫く沈黙が落ちて来て、私はぼんやりと雨が奏でるハーモニーを体で感じる。
「今日、付き合ってくれてありがとう。あいつ、煩くてごめん」
「別に、煩くなんてなかったですよ。ただ、兄妹二人揃うとなんか悪魔みたいで怖い…」
「ええっ、悪魔? それは酷いな、かなり傷ついたよ」
ううっと心臓を右手で鷲掴みし、苦しそうに呻いた。
「あのっ、そんなつもりじゃなくて、だって…二人とも私の反応を見てからかうから。悪魔だなんて言ってごめんなさい」
私は、悪魔は流石に言い過ぎたと反省した。思っていた事は心に留めておくべきだった。
「ゆうがキスしてくれたら許してあげる」
心臓を掴んだ手をそのままに、真意を疑うような科白を口にする。
ああ、これも悪魔の罠なのかしら?
私は数歩圭に近づくと少し背伸びをして圭の右頬に唇を押しつけた。チュッという音を残し圭から離れようとした。だが、すぐに圭の左手が傘を持っている私の右手を捉える。その衝動でぐらりと傘が傾くが、圭の左手がそれをすぐにまっすぐに戻す。見上げると圭の真剣な表情と吸い込まれそうなほどに深い瞳と出会った。そして、まるでスローモーションを見ているかのように圭の口が開いた。
「ゆう、俺は君が好きだ。俺と付き合って欲しい」
私が口を開こうとすると圭にそれを制された。
「聞いて、今は返事はしないで欲しい。答えは解りきっているから。完全に恵人君を忘れていなくてもいい、俺と前を向いて歩きたいって思えたら、俺に寄り掛かって欲しい。俺が必ず恵人君を忘れさせる。返事はいつでもいいから、俺の気持ちはずっと変わらないから。それじゃ、お休み」
今まで掴んでいた手を放し、圭は今来た道をバシャバシャと音を立てて戻っていった。圭の手の感触が仄かに残り、そこだけ明らかに温度が違う。私は蝋人形になったようにその場から動く事が出来なくなった。
今の言葉は完全に本気だった。今までは、本気だよって言っていても目が笑っていたから半分は冗談とノリだと思っていた。だが、今日の圭は明らかに違う。真剣そのものだった、真剣に気持ちをぶつけて来た。
今までは考えていても解らなくなれば、まあいいやとそこから逃げて来た、だが、もう逃げる事は、放棄する事は許されない……。