第23話
矢田さんは、私がこの先どうするつもりなのか目を丸くしてただひたすらに待っていた。
「矢田さん、あの……ごめんなさい。でも、そのままで顔を見せて下さい」
こんな事言ったら私、変な奴と思われるかもしれないけど、もうここまでしてしまった以上後には引けなくなってしまった。矢田さんはまん丸にした目をさらに丸くして私の放った言葉を整理しているのか、それとも唖然としているのか全く動く気配がない。
矢田さんの返事はないけど、というよりも呆然としてよその世界に旅立って行ってしまったようなので、私は勝手に矢田さんの顔の観察を始める事にした。矢田さんのこの状態からして、暫く動く気配はないようなので、掴んでいた両手を下ろすと色んな角度から矢田さんの顔を観察し始めた。
「やっぱり矢田さん奇麗。お肌も奇麗だし、毛穴がまるでないみたい。それに睫毛が長いんですね? すご〜い」
未だ硬直状態の矢田さんからの反応はない。
「黒目の色素が薄いんですね、茶色というよりもベージュ? 透き通ってる、……奇麗」
と感心しながら呟いていると、矢田さんが突然吹き出し、弾けるように笑い始めた。これには私もびっくりして、矢田さんから飛びのいた。
腹を抱えて笑う矢田さんを今度は私が唖然と見ていた。暫く矢田さんの笑いが止まることなないように思われる。
やっぱり私のしたことって可笑しかったのかな。あ〜あ、変な事口走らなければよかった。でも、なんか間近で矢田さんの顔見れて、ラッキーな気もする。
矢田さんはやっとこ落ち着いて、目尻にたまった涙を右手で乱暴に拭い去った。
「俺さ、俺がゆうちゃんにキスしようとしたら、真っ赤になって焦るんだろうなって思ったんだ。でも、本気でキスしようと思ったわけじゃなくて、どんな反応が返ってくるのかちょっとからかうつもりだった。最初は俺が予想してたみたいになったけど、、突然、俺の顔見せてだろ? 何が起こったのかと思った。ゆうちゃん、本当に俺の顔、穴が開くほど見るから本当にびっくりした。あんな反応が返ってくるとは思いもしなかったよ。本当、ゆうちゃんは面白いね」
「あの、ごめんなさい、失礼なことして。でも、矢田さんの顔を見てたら何か凄く奇麗で、そしたら違う角度からも見てみたいと思っちゃって」
矢田さんは、私の必死の弁明を聞きながら、まだケタケタと笑っている。
「いいよ。俺の顔が見たかったらいつでもどうぞ。ゆうちゃんになら喜んで」
「いいんですか? でも、改めてどうぞって言われるとなんか恥ずかしくって見れません」
どうぞと言われて顔を近寄らせた矢田さんに、私は今度は怖気づいてまともに見る事が出来なくなってしまった。
「じゃあ、今度は俺にゆうちゃんの顔、見せて」
私は俯いたまま頭を横に振った。私の顔なんて誰かに見せられるようなものじゃない。
「私なんて見るにも及ばない顔ですから。見るならもっと美しい顔を」
「だ〜め、今度は俺の番」
そう言って矢田さんは私の顎に手を添えると、くいっと持ち上げた。
そして私がしたように色々な角度から私の顔を観察した。私は当然ナルシストでもなく、コンプレックスなんか山ほどあるので、あまり人にじろじろと見られるのは好きじゃない。というより苦痛でしかない。こんな苦痛な事を矢田さんにもしてしまったのかと思ったら申し訳なくなって来た。
「ふむふむ、ゆうちゃんってあんまり化粧しないんだね? 凄い奇麗な肌してる。あっ、ここにニキビ発見!」
うぅ〜と私は頬を膨らませて唸った。でも、本当に不思議なんだけど、楽しくなってきた。もう、いくらでも見やがれって開き直ってしまったのだ。それに、矢田さんが私を見ている間に矢田さんの観察を私もしていた。さっきは全く動いていなかった顔に、今は多彩な動きが加わって興味深い。
矢田さんって、よくよく見てると表情がコロコロ変わるんだ。いつも恥かしくてこんなに近くで見たことなかったけど、ちょっとしたことで目を大きくしたり、眉間に皺寄せたり、何かを発見して口元だけで喜びを表現したり、ぱっと見では解らない小さな小さな変化を今私は目の当たりにしていた。
「いじわるぅ。もう、矢田さんと話してあげない」
私が苦し紛れにそういうと、矢田さんは大人しく顎の手を下した。
「それは……困る」
私が言ったまるで小学生レベルの嘘を本気で信じて困っている矢田さんが面白くって笑った。さっきのキスの件など嘘のように私達は和んだ空気の中にいた。
二人はお互いを見つめ、笑い合った。ふと、矢田さんの手が伸びて来て、私の前髪を上げると、おでこにそっとキスをした。
キスは初めてじゃない、恵人ともした、中学生の時に一時期付き合っていた男の子ともした。なのに、ほんの少しおでこに唇が触れただけなのに、私は少女の様に真っ赤になってしまった。
変なの、私。
「茹でダコだね」
私はそう言われたのがなんだか悔しくて、矢田さんがやったように私もおでこに唇を押しつけた。私が顔を遠ざけると、矢田さんも私と同じように顔を真っ赤にしていた。
「リンゴ病だ〜!」
私はしてやったりの顔でそう言った。そして、また二人は顔を合わせ吹き出した。軽快な二人の笑い声が部屋中に立ちこめる。
「ちょいと、お二人さん。私がいる事忘れてるんじゃないの?」
私と矢田さんが二人同時に振り向くと、未知が壁に寄り掛かり呆れ顔でこちらを見ている。
いや、ごめんなさい。正直、忘れてました……。というか未知さん、いつから私達のこと、見ていたのですか? 見てないで、早いとこ止めてくれたらいいのに……。
「忘れるわけないよ、ねっ、矢田さん」
「ああ、勿論」
私も矢田さんも目が明らかに泳いでいるので、未知の存在を忘れていたというのは言うまでもない。
「仕方ないなぁ。それより、お兄ちゃん。ちょっとドレッシング買って来てくれる?」
未知は二人がイチャイチャしていた事などどうでもいいようで、用件だけを口にする。矢田さんはそれを快く引き受け、家を出て行った。
未知はもうすでに食事の用意は出来ているようで、私の正面のソファに腰をかけた。紅茶をくいっと一口飲んだ後、私の顔をちらっと見て、口を開いた。
「お兄ちゃんのこと、どう思う?」
「解らない。好きだけど、その好きがどの程度のものなのかが解らないの。お兄さんみたいな存在としてなのか、一人の男の人として恋愛感情なのか」
「そっか、ゆうゆさ、もしかして近藤君のことまだ好きなんじゃないの?」
未知の真剣な目が私を射止める。私のことも、お兄さんである矢田さんのことも、真剣に心配してくれているのが伝わって来た。だから、その誠意に私は答えなければと思い、これまでの恵人とのいきさつを話して聞かせた。
「じゃあ、まだ忘れられてないのね。近藤君のことも忘れられないし、お兄ちゃんのことも気になってると」
「そうなんだけど、そうやって聞くと私ってやな女だよね」
まるで二股かけてる嫌な女のように自分が感じた。
「何でよ。大体さ、世の中には二股三股としている女だっているじゃない。べつにゆうゆはどっちとも付き合っているわけでもないじゃない。二人の男の間で気持ちが揺れるなんてそんな珍しい事じゃないよ。ていうか誰でも一度は経験あるんじゃないかな」
そうなの? と私は呟いた。思えば私は友達と恋愛トークをしたことがあまりない。自分の恵人への想いがバレるのを恐れてそういう話になるとさり気無く話しの輪から離れるようにして来た。そのため、他人の恋愛事情にも疎いのである。勿論、恵人と出会う前は、それなりにそういう話もしてきたが、私の脳内がとてもおこちゃまだったのだろう、あの人が好きとか、憧れとかその程度なのだろう。キスという言葉を口にするのも恥ずかしいようなそんなおこちゃまだったのだ。そこから、私は止まってしまっているのだ。
「ゆうゆ、お兄ちゃんね。私達が高校生の時からゆうゆのこと好きだったんだよ」
「え?」