第21話
勢い良く私に抱き付いて来た華奢な身体。聞き覚えのある声に聞き覚えのあるニックネーム。
私はすぐには反応する事が出来なかった。人間とは突発的なことが起きた場合迅速な行動は出来ないように思う。いや、私の頭が鈍くさいだけかもしれない。
「え……、え? え! 未知? 未知なの?」
私は大きな声でそう言った。
「そうだよ」
そういうと未知は抱きついていた手を緩めて私の顔を覗き込んだ。
「や〜ん、会いたかったんだよ。ゆうゆ」
私は突然の出来事に頭を整理しなければついて行けなかった。
「私も会いたかったよ。でも、ちょっと待って、どうして未知がここにいるの?」
待てよ、矢田さんは妹さんと住んでいる。妹さんは私と同級生。未知の名字は矢田……、てことは……!!!
「未知が矢田さんの妹さんなの!!!」
うんと未知が私に抱きついたまま可愛く頷いた。
「未知、再会出来て嬉しい気持ちは解るが、取り敢えずその手を放せ。玄関先でいつまでも話してるんじゃ、ゆうちゃんに失礼だぞ」
「あ、そっかごめん。とかなんとか言っちゃって本当は私がゆうゆを抱き締めてるから羨ましいんじゃないの? いいでしょ?」
未知はニヤニヤと笑いながら矢田さんを挑発している。私はより一層未知に抱き締められて少し痛いくらいだった。
「煩いぞ。お前の安易な挑発には乗らない。ほら、ゆうちゃんが痛がってるだろう」
矢田さんが未知のおでこをピンっと人差指で弾いた。それを受け、未知は漸く私を解放するつもりになったらしく、今度は手を取ってリビングまで案内された。
リビングに通されてソファに座ると未知が紅茶を出してくれた。私の隣には矢田さんが座り、正面に未知が座った。
未知は高校での3年間、同じテニス部に所属しており、1年生の時から変わらずペアを組んでいた。
未知は可愛くて、優しくて、明るくて、そして精神的に強かった。私が挫けそうな時は必ず未知がフォローしてくれて、そして目を醒まさせてくれた。未知は、3年生の時には部長になり同級生にも下級生にもそして先生方にも慕われ、頼りにされていた。
高校を卒業し、大学に入ってからはたまに連絡は取っていたのだが、いつしか連絡が取れなくなってしまった。
どうしているのかなとは思うものの連絡は取れず仕舞いだった。
それにしても、矢田さんの妹だったとは思いもよらなかった。でも、私としては嬉しい偶然だった。
「矢田さんは私と未知が友達だって知ってたんですね?」
昨日の「絶対に気が合うと思うよ」という言葉は、私達の関係を知っていた上での言葉に違いない。それに私が緊張していたのを見て笑っていたのも、この事を知っていたからに違いないように思う。きっと私の反応を見て面白がっていたのだ。
「うん、そうだよ」
あんなに緊張して損した。もう、矢田さんの事グーで殴っちゃおうかしらと拳を握りしめ、それを眺めながら本気でそんな事を考えていた。
「未知も私が来る事知ってたの?」
「最初は教えてくれなかったんだ。明日好きな子連れて来るからって言うわけよ、なんだけど、その子の名前とか私が聞いても全然言わないの。あんまり隠されるものだから、こっちも意地になっちゃって絶対教えて貰うって、朝から教えろって纏わりついてたの。お兄ちゃんも、私のしつこさには根を上げて、とうとう教えて貰ったってわけ」
好きな子って……。
矢田さんは未知に私のことをそんな風に話してたんだ。ちらっと矢田さんの表情を窺うと少しきまり悪そうな顔をしている。未知を睨みつけている目が余計な事は言うなと言っているようだ。だが、そんな視線を未知は完全に無視していた。
「相手がゆうゆだって聞いたら嬉しくなっちゃった。今、ゆうゆは何してるの?」
久しぶりに再会した未知は、会わなかった分の話が溜まっていたみたいでついていくのが大変なくらいに次から次へと会話が続いていく。
「今は普通のОLだよ。未知は?」
「私はね、今、翻訳家を目指して日々勉強中。実はさ、ゆうゆと連絡が取れなくなったのは、私が留学していたからなんだよね。今の大学を休学して行ったから、まだ大学生なんだ」
「へぇ、そうなんだ。翻訳家か凄いね」
未知は嬉しそうに微笑んでいる。自分の夢を語る時の未知はとっても目が輝いていた。そういえば、高校生の時に英語関係の仕事に就きたいと話していたのを思い出す。その夢が具体的に動き出しているようで、なんだかこちらまで嬉しくなってしまった。
未知は翻訳家になるという夢、弥生はヘアスタイリストになるという夢、翠はきっと恵人のお嫁さんになるのが夢だったと迷わず答えるんじゃないだろうか。じゃあ、私の夢って何だろう? 私はこのままОLであるだけで終わってしまうのだろうか。
「ねえ、ゆうゆ。お兄ちゃんとは付き合ってるの?」
ぼんやりと自分の夢について考えながら、紅茶を飲んでいた私は未知の単刀直入な質問に口に含んでいた紅茶を吹き出してしまった。
「ぎゃ〜〜ゆうゆ、何やってんのぉ」
びっくりして未知が大きな声を出し、その状況を見てケタケタと笑いだした。笑いが止まらなくなってしまった未知に変わって矢田さんが布巾を持ってきてくれて、拭くのを手伝ってくれた。
「あの、矢田さん。ごめんなさい」
私が矢田さんにそう言うとクスッと笑った。
「こういう時は、『ごめん』じゃなくて『ありがとう』だよ」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
矢田さんがあまりに優しいので、自分のドジさ加減に無性に腹が立った。そして、とても恥ずかしかった。
こんなに優しいお兄さんがいて、未知が羨ましい。そう思った後、何となく今のこの気持ちに違和感を感じた。奥歯に何かが詰まって取れない感じ、背中のかゆい所に手が届かなくってもどかしい感じ、落ち着かなくて気持ち悪い。だが、私はその感覚をすぐに忘れてしまった。
「もう、未知笑いすぎ。未知が突然変なこと聞くからでしょ」
「別に変な事じゃないよ。妹としては、兄の恋愛は気になるもんです」
一人っ子の私には兄弟同士で恋愛の話をするもんなのかは解らないが、この二人はかなり仲が良いようだ。翠と健司さんも仲が良いが、それぞれの恋愛の話は全くしないし、興味がないと言っていた。ただ、変な人を嫁にしないでとだけは言ってあるのと可愛い翠が微笑を浮かべて言っていたのを思い出す。
「付き合ってはいないよ……まだ」
私はそう言った。そうとしか言いようがなかった。私と矢田さんは付き合っていないのだから。
「まだって事はこの先進展があるかもしれないね。お兄ちゃん、頑張んなよ」
「言われなくても、頑張ってるよ」
「あっそ」
そっか、矢田さんって頑張ってるんだ。そうだよね、私の愚痴とか沢山聞いてくれるし、優しいし、待っててくれてるし。矢田さんばっかり頑張っててなんとなく申し訳なく思ってしまった。
それにしても、矢田さんと私が付き合う日が来るのだろうか? それはとても夢のような話のような気もするが、決して有り得なくもないのだ。今は、恵人への想いがまだ残っているけど、それがなくなり矢田さんだけを見る日が来るのかもしれない。私は、そうなって欲しいのか、なって欲しくないのか解らなかった。
私の気持ちはゆらゆらと浮いている、一日のホンの少しの時間で考えが変わったりする。
矢田さんを好きかもと思ったと思えば、恵人が忘れられないと思い、止めようと思い、どうでもいいと思うこともある。どこまで浮いていくのか、いつまで浮いているのか……、私はまるで風船の様。風船の私は、どこまで行くのか、誰かに拾われるのか、割れてしまうのか、未来が見えない。風の赴くままに、ゆらゆらと。