第19話
家の中に招かれ、翠の料理を楽しみながら賑やかな声が部屋中にこだましている。その声の90%が翠のものではあったが。
矢田さんはやはり大人の対応で、上手に翠の相手をしている。恵人は自分が不機嫌なのを誰にも隠すつもりもないのか、ぶすっとした顔でご飯に集中している。私はというと、自分からは率先して会話を盛り上げようとは思わないが、聞かれた事だけは答えていた。
今夜のデザートは翠特製のプリンだった。ダイニングからリビングに場所を移し、寛いだ雰囲気の中でデザートをいただく筈だった。
「ゆうちゃんの料理も美味しかったけど、翠ちゃんのも美味しかった…」
と、矢田さんが言った。
「翠の方がよっぽど料理が上手だって、私の言ったとおりでしょ?」
私が矢田さんにそう言うと、ゆうちゃんのも美味しかったよと矢田さんは私に微笑みながらそう言う。私にそんなおべっか使わなくてもいいのに、どこまでも気遣いの出来る優しい矢田さん。ふと見ると翠と恵人が私達を見ている。
あれ? 何だろう? 私、なんか変な事言ったかな?
「なになに、今の会話? ゆう、矢田さんに料理作ってあげたの? なんだ、上手くいってるんじゃない。ゆう何も言ってくれないから……。もう、付き合ってるんでしょ?」
うわっ、どうやら墓穴を掘ってしまったようだ。私はどう答えていいのかさっぱり分からず困っていた。
「付き合ってるよ」
矢田さんの低くて耳触りの良い声が私の耳に飛び込んできた。私は驚いて矢田さんを見ると驚くほど穏やかに笑っていた。
否定する事も出来た。冗談だよっと。だが、私は何も言わなかった。
「お前、本当にこいつと付き合ってんのか? まだ、知り合ったばかりでこいつの事本当に好きなのかよ」
今まで黙り込んでいた恵人が漸く出した言葉は喧嘩腰のとても低い声だった。目が私を捉え、そして責めたてていた。
「矢田さんの事こいつとか言わないで、失礼でしょ。私は矢田さんが好きだし、本当に付き合ってる。知り合ったばかりとか、そんなの好きになったら関係ないと思う」
言い出したら言葉がすらすら出て来て止まらなくなった。私はまだ矢田さんを本当に好きなのかも解らないし、付き合ってもいない。なのに、こんな嘘ばかりを並べてしまった。
「分かった。ゆうがそう言うなら俺はもう何も言わない。矢田さん、ゆうは俺と翠の大事な親友なんです。絶対に泣かせないで下さい。泣かせたらどんな奴でも俺は承知しない」
「約束するよ。絶対に泣かせない」
男二人は握手を交わした。
複雑な心境だった。元々私が恵人と友達に戻ろうとそう望んだことだった。恵人と友達に戻って、他の人と恋愛して、そして幸せになると。矢田さんはその相手に申し分のない人だし(私には勿体ないくらいの人だけど)、恵人も友達に戻る事を承知してくれたようだ。なのに私は涙を我慢するのに必死だった。
どんなに恵人は友達なんだと思っていても、未だに切り替えられずにいるのは、恵人ではなくこの私なのだ。口先だけの私。ここで泣くわけにはいかない。
無理矢理作った笑顔で、翠から受ける祝福の言葉をどこか上の空で聞いていた。恵人の顔を辛くて見れず、矢田さんには罪悪感のせいで見る事が出来ない、翠だけを見ていかも幸せだという風に笑って見せた。
その日、私と矢田さんは恵人に車で駅まで送ってもらった。
私の家は、恵人と翠の家から隣の駅に位置するので、普段なら家まで送ってもらうのだが、今日は矢田さんもいるので、駅で下ろして貰った。恵人はさっきの宣言から、無愛想はなくなり矢田さんともきちんと話をするようになっていた。もう、私の事は踏ん切りをつけたのかもしれない。自分ばかりが苦しみに苛まれているようで、自分が情けなくなった。
駅で、恵人と別れると電車に乗り込む。矢田さんがアパートまで送ると申し出た。
うちのアパートまで駅からバスで10分、そこから徒歩で1分。時計を見ると11時少し前、もう終バスは出てしまった後だった。
駅から徒歩で行けなくもないが、一人で歩くには心許ない。別段、人気が少ない暗い道ということでもない、だが、昨今は物騒な事件が多いことと、この界隈にも若い女性を狙った傷害事件があったと報道されていた事を考えると、一人で歩くのは不安がある。
和田さんには申し訳ないが、好意に甘え、送ってもらう事にした。
電車に揺られる事約3分ほどの短い時間ののち私の暮らす駅に電車は滑り込んだ。
この駅で降りた人は数えるほどしかいなかった。
改札を出ると、矢田さんと肩を並べて歩き出した。
「矢田さん、あの、嘘吐いてごめんなさい」
私が恵人と翠についた嘘は、矢田さんには酷いことだというのは分かっていた。だが、つい口から出て来てしまったのだ。後悔先に立たず。私っていつもこんなん。
「最初に嘘を吐いたのは俺だよ。俺こそごめん。でも、嘘でも、嬉しかったよ。ゆうちゃんに、好きだって言われて。本当にそうなるといいんだけどな……」
「矢田さんは、謝らなくていいんです。いけないのは私なんですから。でも、好きだっていうのは嘘でもないです……。矢田さんの事は好きです……、でも、その好きがどんなものなのか、よく解らないんです。だから……えっと……その」
私は自分の意見が整理できていないので、自分のこの感情をどう説明すればいいのかよく解っていなかった。自分の心と同じで、言葉もちぐはぐだったのだ。
「ゆうちゃん、もういいよ。有難う。その好きが、一人の男として、恋愛感情としてのものになるように、俺も頑張ります」
「何を言ってるんですか! 矢田さんは何にも頑張る必要なんてないんです。矢田さんは、とっても素敵で、私なんかには勿体ないくらいの人なんですよ? そんな人にもっと頑張られたら、私がいくら頑張ったって追いつかないじゃないですか。私が努力するんです。恵人を忘れて、矢田さんに相応しい女にならないといけないのは私の方なんですよ」
何だろう? 私何言っちゃってるんだろう? これって、もう矢田さんが好きだって言ってるようなものなんじゃないだろうか。私が矢田さんに相応しい女になるまで待ってて下さいって言っているようなものなんじゃないだろうか。聞きようによっては、これって告白? でも、これって今の本心だと思う。矢田さんは素敵で、友達だとしても私が隣にいるのは、相応しくないような気がする。
「何か嬉しいな。でも、ゆうちゃんが恵人君を忘れるっていうのはいいとしても、俺に相応しい女にってとこが解せないんだよな。俺ってそんな素敵でも凄い人間でもない、普通の人間だよ。相応しいか相応しくないかなんて誰にも決められないと思うよ。もし俺が決めていいなら、ゆうちゃんはもう既に俺に相応しい女の子だと思うけどな」
矢田さんに相応しい女の子だって言われたのは嬉しかったけど、でも、やっぱりもっと頑張んないといけないんだなって思うのが女の子ってもんじゃないだろうか。私は歩きながら、う〜んと、低い声で呟いて黙ってしまった。
「ごめん、なんか悩ませてしまったみたいだね。とにかくゆうちゃんは俺に相応しい女の子だって事。俺はそう思ってる。それだけは解って。よし、この話はお仕舞い。違う話しよう」
未だに悩んでいる私に、矢田さんはそう言った。悩んでいるというよりも解らなくなってしまっていたのだ。自分で言った事だが、矢田さんに相応しい女の子って一体どんな子なんだろうって。奇麗な女の子なのか。優しい女の子なのか。性格がいい女の子なのか。とにかく矢田さんが大好きって女の子なのか。それともエッチな女の子とか。考えだしたら止まらなくなってしまった。そして、私は一体どんな女の子なのかなって、自分はどんな風に矢田さんに写っているのかなってそれが気になってしまった。でも、聞きたいようで、聞きたくない。聞くのが怖い気がした。矢田さんが考えている私が本来の自分と全く違っていたら、それが解った時には私は嫌われてしまうのではないか。そう考えると、自分がどんな子なのか矢田さんの口からは聞きたくなかった。