第18話
「はぁ〜美味しかった。お腹いっぱい、ってゆうまだ全然食べてないじゃん。急いで食べないと時間やばいよ」
嘘、早って私が矢田さんに気を捕らわれて食べてなかっただけなんだよね。早く食べないとと、急いでオムライスをかっ込む。矢田さんを盗み見ると、くくくっと笑っている。
うぅ〜笑われてるし、緊張して食べれなくなるからこっち見ないで……、それにきっと、ううん、絶対私、顔が赤いんだよ……。なんて私がいくら心の中で叫んでいたって矢田さんに分かるわけもなく、いや矢田さんなら本当のところ分かっているのかもしれないが、可笑しそうに私を見守っている。
いつもは美味しく感じるオムライスが急いで食べていた事と、緊張していた事もあってなんだか味気ないものに感じてしまった。
食べ終えた綾は私が懸命に食べ続けているのをいいことに、私との事について、矢田さんにあれやこれやと質問し始めた。綾に何をどう言っても、どうせ受け入れて貰えないので、もう好きにしたらいいと投げやりな気持ちでいた。
矢田さんは質問に答えている時こそ、綾に目を移すが、すぐに私にそれが戻ってくる。綾と話してるんだから、綾の方を見ていればいいのにとは思うもののそんな事は決して口に出せない小心者の私。
結局、健司さんは姿を現さなかった。
「じゃあ、また」
と、矢田さんは手を振って颯爽と歩き去った。さっきは恥ずかしさから早くこの時間が終わってしまえばいいと思っていたのに、いざ矢田さんの歩き去る後姿を見ていたら寂しい気がした。
矢田さん、振り向かないかな……、振り向いて!
その背中に心の中で呼びけてみた。すると、私のその呼び掛けに応えるかのように、不意に振り返り、とびっきりの笑顔で手を振った。そして、またくるりと向きをかえ歩いて行った。
びっくりした……。まさか、本当に振り向いてもらえるとは思っても見なかった。私は矢田さんに振り返した手を握り締め、矢田さんが見えなくなるまで見届けた。
「お〜お〜、見せつけてくれますな」
その言葉に、私はここで一人でなかった事を思い出し、途端に自分のしたことが恥ずかしくなり頬を赤らめた。
綾がニヤニヤしながら、私を覗き込んでくる。
綾がいるのを完全に忘れていたなんてどうかしている。
「な〜んだそっか……」
綾はニヤニヤしたまま何度も頷いている。何となく怖くて何をそんなにしきりに納得しているのかは聞けなかった。綾の矢田さんと話した感想なんかを聞いてみたかったけれど、時計を見れば、13時5分前を指していた。
私と綾は二人同時に顔を見合わせ、まるで決まっていたかのように瞬時にダッシュした。食後の運動にしては激しすぎて、口から今食べた物が飛び出て来そうだった。だからって、ここで止まるわけにはいかないのである。
どの会社にも一人はいるであろうお局様。我が社には、神田瑛子さんというお方がいる、自称38歳、見た目は40歳は超えているように思う。一見優しそうな笑顔を絶えず作っておられるが、いつも目だけが笑っていない。ものすごく威圧的な目をしていらっしゃるのである。目を見れば、機嫌がいいのか悪いのか一目瞭然。時間に厳しい人で、少しでも遅れればたとえたった1秒でもあの威圧的な目で睨まれるそうな。まるで獲物を狙う蛇の目のようなお方、故に蔭では蛇子さんと言われている。
そして、私達はというと……間に合った、奇跡的に。瑛子さんがいつもの微笑みを湛えて待っていたが、目はちょっと怖かった。その目は、あなた達、次は容赦しないわよと、語っているようだった。
そんな私達の姿を見ていた人物と目があった。勿論、恵人である。今日は珍しく、社内で書類作成でもしているようだ。
私と綾は、はあはあと荒い息を吐きながらそれぞれのデスクについた。やっと落ち着いて漸くパソコンへ向かう。
暫くしてから、ミルクティーを作る為に給湯室に向かった。
先客がコーヒーを注いでいるところだった。
「お疲れ様です」
そう声をかけると、恵人が振り返る。
「ああ、お疲れ様」
恵人は、コーヒーの準備が出来ているのにその場を立ち去ろうとしなかった。
「今日は外回りじゃないんですね」
「うん、先方が急にキャンセルしてきたからね」
そうなんだと、言いながら自分のミルクティーの手を動かし続ける。恵人の視線を感じるが、それを見るのはちょっと怖い。
「ああ、そうだ。お前に言うことあったんだ。金曜日な、あいつも誘えって翠が言ってんだよ」
あいつの部分を本当に嫌そうに言った。勿論、恵人が口にするあいつとは矢田さんの事でしかない。
遅かれ早かれ翠が私と矢田さんを誘うだろうことは分かっていた。だが、こんなに早く誘いが来るとは思っていなかった。
「恵人、矢田さんと喧嘩とかしないよね?」
それが一番心配なのだ。恵人は、とにかく矢田さんを嫌っているし、絶対失礼な態度とか、挑発的な態度とか取るんだろう。矢田さんは大人だから、そんな態度をとられてもさらっとかわすかもしれないけど。その二人の間に入る私の心労は計り知れないものになりそうだ。
「さあな」
あ〜不安だよ。
それに、恵人の前で翠が矢田さんに私の事とか色々聞いちゃうんだろうな。綾よりも何倍もの質問を投げ掛けるに決まってる。
あ〜怖い怖い怖い……。
だけど、結局私は翠の誘いを断る事なんてとてもじゃないけど出来なくて、矢田さんに金曜日のことを話した。
矢田さんは私の心労を知ってか知らずか、快くいくと言ってくれた。矢田さんがどういう意図でOKしたのかは解らないが、私としては是非とも矢田さんに断って欲しかった。
綾に金曜日のことを話すと、「うわぁ〜」とだけ言ったが、その表情も目もそれを楽しんでいるようにしか見えなかった。恐らく、面白いことになって来たなんて思っているのに違いない。
そして、問題の金曜日。
私は矢田さんにうちの会社のビルまで来て貰うと、二人で恵人の車に乗り込み、翠が待つ近藤家に向かう。恵人と矢田さんは、当たり障りのない挨拶をかわす。恵人は始終無表情だが、矢田さんはその事を気にする様子もない。恐らくこの恵人の矢田さんに対する態度は、想定内のことなのだろう、ニコニコとしている。
対照的な表情をしている二人の男たちの中で、私は消えてしまいたいと本気で思うほどに居心地の悪いものを感じていた。
車外の楽しそうに笑い合っている恋人たちや合コンをするであろうグループを私は恨めしげに見ていた。
不意に夜空を見上げると、真っ赤な満月が不気味に光っていた。それがこれから起こることを暗示しているようで、私は人知れず溜息を吐いた。
翠の待つ近藤家に着くと、玄関前に翠が立ち、私達のことを待っていた。私達の姿を確認した翠は女の子の様にぴょんぴょん跳ねて手を振っている。同年代の他の子が同じ事をやったら許されないかもしれないが、翠なら何の違和感もなく可愛らしいと微笑が漏れてしまうほどなのだ。
可愛い翠は、矢田さんにお久しぶりですと礼儀正しく挨拶した。
「翠ちゃん、久しぶり。相変わらず可愛いね」
私は矢田さんの言葉に胸がもやもやした。だが、何故こんな気分になるのかは私には見当がつかなかった。
「ゆう〜寂しかったよ〜」
「もう、先週もあったでしょ。翠、先週はごめんね」
私はいつものように抱きついてくる翠に苦笑しながらも頭を撫でる。ううん、いいよと可愛く頷く。
そして翠は恵人に抱き着き、「恵人〜おかえりぃ」と、甘えた声を出している。ぼんやりと私はそれを見ていた。だが、見ていられなくて目を逸らすと、逸らした先で矢田さんの視線と出会ってしまった。矢田さんは温かい目で私を見ていた。私を気遣うような目。心配させたくなくて、私は矢田さんに微笑みかけた。矢田さんも笑顔を返してくれる。
「あっ、二人微笑み合ってる。仲良いのね」
翠の声でふと我に帰り、翠と恵人に見られていた事に気付いた。
どう答えていいのか考えあぐねた私は、笑って誤魔化した。矢田さんは我関せずといった具合に清ましている。
この第18話、なんと、文字数が3333文字でした。なんか富士山みたいですご〜いと勝手に感動してしまいました。