第16話
翌日、私は綾と一緒に出勤した。
いつもよりは遅めの出勤だった。綾が一緒にいる事で、恵人と会った時も気丈に振る舞えるような気がして心強かった。
私達が会社のビルのエレベーターを待っていると、上から降りて来たエレベーターの中に恵人がいた。私は一瞬ドキリとしたが、いつも通り素知らぬ顔で、「お早うございます」と、言った。恵人は少し寂しそうな表情を浮かべて、「お早う」と返した。
しくしくと胸が痛んだが、私はそれに気付かないふりをして綾にどうでもいいことを話しかけた。綾が心配そうに私を見ていたので、大丈夫だよという思いを込めて、微笑んだ。なのに、私の笑顔を見た綾は何故かさらに心配そうに顔を歪めた。
私はデスクに着くと、矢田さんにメールを送った。
『お早うございます。ランチの件、綾に聞いたらOK出ましたよ。いつにするかは、私達はいつも定時にお昼が取れるので、健司さんと決めて下さい』
それに対しての矢田さんの返事は、それから1時間後に来た。
『そっか、良かった。健司も喜ぶと思うよ。勿論、俺も嬉しいけど。それで、明日とかは大丈夫かな? 綾さんに聞いてみて』
俺も嬉しいの箇所を読んで、一人頬を赤らめてしまった。矢田さんはいつもこんな風にさらっとくすぐったいことを言ったりする。その度、私は馬鹿みたいに反応してしまう。
お昼休みに明日のランチの件を、綾に聞くと、いいよと快く応じてくれた。
「ゆうの矢田さんがどんな人なのか色々話して、探りを入れるんだ。あ〜、楽しみ」
綾はそう付け加えた。綾はなんだかとっても楽しそうだった。矢田さんがどんな人物なのか、尋問でもするつもりなのだろうか。まあ、綾には好きにやってもらっても問題はないとは思うけど。綾は、常識的に振る舞える人だし、矢田さんに失礼な事を聞いたりはしないだろうと思う。
その日の夕方、勤務時間を終えたが、私は今日中にやってしまわなければならない仕事があり残業を強いられた。綾が手伝おうかと言ってくれたが、そんな大した量でもなかったので大丈夫と答えて先に帰ってもらった。
事務関係の人は皆もう上がっていたし、営業の人たちは今日は皆直帰するらしく会社に戻って来ない。お偉方は本日は会議があるらしく、会議室に籠って、暫くは出てこないだろう。従ってここにいるのは私ただ一人なのだ。ひとりになるとなんとも心細い気分になってくる。朝を一人、ここにいる時にはとても清々しい気分になるものだが、日の沈みかけた事務所は何だか物悲しく、そして薄気味悪い気さえしてくる。そのため、私はとにかくこの仕事を集中して早いとこやっつけてしまおうと躍起になっていた。自分でも驚くほど集中していたのだろう、誰かが背後まで来ているとは夢にも思わなかった。
「わっ!」という大きな声と、がしっと両肩を鋭く掴まれ、私は「キャー!!!」と叫んだ。本当に心臓が止まるかと思った。いや、一瞬止まったかもしれない。
「悪い悪い。そんなに驚くとは思わなかったんだ」
私を驚かせた張本人、というかこんな事をするのはこいつしかいないとすぐに察しはついたのだが、その犯人である恵人は、私のあまりにオーバーな驚きようにげらげらと大笑いしている。
私は自分の心臓を必死で押えながら、キッと恵人を睨みつけた。
「ちょっと! 本当に止めてよね。心臓止まったらどうしてくれんのよ」
やっと落ち着いて来た私は、今度は恵人への怒りをぶつけた。
「悪かったって。そんなにびっくりするとは思わなかったんだよ」
「……早く終わらせたかったから、集中してたのよ。ドアが開いたのさえ気付かなかった」
先週のあの事があった後なのに、普通に話せる自分が不思議だった。あんなに苦しかったのに、あんなに泣いたのに、こうやっていつも通り話せるんだ。ぼんやりとそんな事を考えていると、恵人の視線に気付いた。何? と、私が訊ねると、泣いたのか? と恵人は私の問いに被せるようにそう訪ねた。
「まさか、泣くわけないじゃん」
そっかと恵人は薄く笑った。私の強がりなんて恵人は解っているに違いない。
「嘘だよ……。本当は超泣いた。一生分の涙出しきったんじゃないかって思うくらいに泣いた。涙と一緒に、恵人への特別な気持ちも全て流しきった。あとには、友達としての気持ちしか残らなかったよ。だから、大丈夫」
そう言って私は恵人に笑いかけた。
「俺は……大丈夫じゃねえよ」
ぼそりと聞こえた恵人の声。切なく見つめる瞳。沈みかけた夕日がオレンジ色の光を放っていた。静まり返った室内にコピー機の唸るような音。恵人が近づいて来た。私は少し慌てて恵人を止めようとした。次に何が起こるか分っていた。後ずさった私の腕にデスクの上に置いてあったファイルが当たり、そのファイルがバサッと大きな音を立てて下に落ちた。はっとした私はすぐに恵人から目を逸らし、ファイルを拾った。
「恵人はもう帰りでしょ? 私はまだ残ってるんだ。早いとこやっちゃわなきゃ」
私はたった今の出来事などまるでなかったかのように努めて明るく振る舞った。だが、恵人の目を見る事は出来なかった。
「ごめん」
恵人は、短くそう呟いた。
「ごめん」って何よ? 「ごめん」なんていうくらいなら、私に近づかないで。涙と一緒に流した気持ちを呼び戻さないで……。そう思っていたが、決して口には出さなかった。
「ごめんって謝るようなこと何もしてないじゃん。何言ってんのもう」
私は可笑しくもないのに笑っている。恵人は笑わない、苦しそうな顔をしている。
「ごめん。お前を好きでごめん。忘れられなくてごめん。止められなくてごめん。……ごめん」
恵人は私に何度も何度も謝った。馬鹿みたいに馬鹿の一つ覚えのように何度も。壊れたコンポの様に。言葉を覚えたての文鳥の様に。止めなければきっと終わる事のない「ごめん」。
「恵人、もう謝んな、馬鹿! あんた馬鹿! ほんと馬鹿!!! ……でも、私もごめん。恵人の気持ちには応えられないよ……」
私は恵人を見据えてそう言った。恵人が苦しそうな顔に無理矢理笑顔を作る。見ているこっちまでもが辛くなる。自分の決心が挫けそうになり、懸命に歯を食いしばった。
「お前は謝んなくていいんだよ。俺の気持ちに応えなくてもいいんだ。ただ、どんな形でもいい、ずっと俺の近くにいてくれよ。俺の前からいなくならないでくれ」
「恵人にもうお前どっか行けって言われるほど、二人に付き纏うかもよ? それでもいいの?」
この重苦しい空気に耐えられなくなって来た私は、おどけてそう言った。
「はははっ、それでいいよ」
恵人のいつもの笑顔が一瞬だけ戻って、私はホッとした。
「さて、私は仕事しますか」
私は恵人に向けて、自分の中で一番良い顔であろう笑顔を作った。そして、また仕事をすべくパソコンの画面と資料に目を落とした。
私がキーを打ち始めると、背後の気配がふわりと動いた。私は最初、帰るのかなと思った。だが、違った。私の首に恵人の腕が回され、背後から優しく抱き締められていた。
「ちちちちょっとぉぉぉ、恵人?」
驚く私の耳元で、恵人の吐息が聞こえる。
これは反則だよ……恵人。
私の心臓が早鐘を打って、騒々しい。
「ごめん、今だけ。1分だけ」
そんな苦しそうな声で言われたら、嫌とは言えないよ。たったの1分がとても長く感じられた。この1分が二度と終わらないような気さえした。だが、現実には一秒一秒刻々と時を刻んでいた。
そして、恵人の腕がぎゅっと一瞬強まった。あっ、もう終わるんだなと私は思った。私の予想通り恵人の腕がすっと離れ、「ごめん」という言葉を残して恵人が歩き去ったのを背中越しに感じた。
「恵人! もう、ごめんって言葉はいらないよ。ねえ、私のお願い一つだけ聞いてくれるかな?」
背中向け歩きだしていた恵人に振り返った私は呼びかけた。
「何?」
「こんなの私達らしくないよ。だから、笑おうよ。昔みたいに。一緒に馬鹿やって、喧嘩して、笑ってたみたいに。あの頃みたいに私、恵人と笑っていたい。ってこんなの私の我が儘だよね。ごめん」
「ば〜か、お前も最近俺に謝ってばっかじゃねえか。お前の方こそ笑えよ。昔のお前は生意気で、負けず嫌いで、口が悪くて、女っぽさもかけらもなく大きな口開いて笑ってたじゃねえか。俺もお前には笑ってて貰いたいと思ってるよ。だから、お前の我が儘なんかじゃねえんだよ、馬鹿!」
恵人がつかつかと私の元までやって来ると、私の髪の毛をくしゃくしゃにした。
「もう、馬鹿馬鹿言わないでよ」
私はくしゃくしゃにされた頭を直しながら恵人をじろっと睨みながらそう言った。
「それだよそれ! お前のその顔、その憎まれ口」
恵人は私を見てにやにやしている。私をからかっている時の恵人のいつもの顔がそこにはあった。
「うっさい、馬鹿!」
私は本気で恵人にパンチを入れた。恵人がうっと低い声を上げ、腹部を抑えた。あまりに痛そうにするもんだから焦ってしまった。
「えっ、恵人大丈夫?」
「ば〜か、お前この手に何回引っ掛かってんだよ」
馬鹿だこいつ〜と言って笑い出した。最初は笑っている恵人を呆れて見ていた私もそのうち笑い出していた。
この雰囲気、高校時代に戻ったみたいで嬉しかった。私達はこんな関係がいいと心底思った。恵人が今どう思っているか解らないけど、笑っている恵人をみていたら、きっと同じように考えてくれているんじゃないかなって気がした。