第11話
私が矢田さんと健司さんに交差点で会った週の金曜日、例の如く私は翠と恵人の家にお呼ばれされた。
翠の手料理をお腹が膨れるほど食べて、食後のお茶を飲んでいた。
「ゆう。矢田さんとはどう? あの人とってもいい人でしょ?」
恵人の視線を痛いほどに感じながらも、私はその視線を無視し翠だけを見て話した。
「先週の金曜日は殆ど喋れなかったんだけど、土曜日に携帯を受け取る為に会ったよ。すっごく良い人で、優しくて、恰好良くて……」
私は、ここに恵人は存在しないと思って話をしていた。そうでないと、こんな話は出来ない。それに、恵人の表情が怖くてとてもじゃないが見る事は出来ない。というか、絶対に見たくない。
「あの矢田って男、あんなにイケメンなのに彼女いないなんてどっか問題でもあるんじゃないのか?」
「ちょっと!!! 何言ってんの? 矢田さんに失礼でしょ」
カチンときた私は、思わず恵人を振り返り、睨みつけてからこう言った。
「待って待って。お願い二人とも喧嘩しないで。恵人、矢田さんはね、ずっと好きな人がいてね、だから女の人に好きだって言われてもずっと断ってるの。だから、問題なんてないわ」
大抵この場合、大きな喧嘩になると分かっている翠は、慌てて仲裁に入った。
「翠は黙ってろ。俺はお前がイケメンに鼻のばしてるから忠告してやってんだ。せいぜい騙されるないようにしろよ」
売り言葉に買い言葉とは、まさにこんな状態を言うのだろう。こんな言いがかりをして来る恵人に無性に腹が立って仕方がなかった。
「健司さんのお友達なんだよ。健司さんが変な人私に紹介するわけないでしょ〜が、馬鹿!!!」
私は興奮のあまり鞄を持って、翠にバイバイも言わずに家を飛び出した。翠のおろおろした顔が私の視界の隅に入った。
恵人の馬鹿……、恵人の大馬鹿。何であんな酷いこと言うのよ。
道路に出て、一つ大きな溜息をついて高ぶる心を鎮めようと試みた。
がちゃっと音がして、ドアが開くと恵人が現れた。私は反射的に恵人に背を向け早歩きで歩きだした。
「ゆう。ごめん、俺が悪かった。送ってくよ、頼むから車に乗ってくれよ」
そう言われて腕を掴まれた。
「な?」
恵人に即されて仕方なしに車に乗り込んだ。車が動き出しと恵人が口を開いた。
「ごめん。ただの……嫉妬。あいつにゆう取られそうで焦った……」
前を見据え、まるで独り言の様にそう言う。
「恵人……私ね、恵人のことずっと好きだったよ。今でも凄く好き。だけど、恵人には翠がいるでしょ? 私、二人の邪魔は絶対にしたくない。いくらお互いに想い合っていても、どうにもならない事があるんだよ。私達は、結ばれない運命なんだよ。私も今は凄く辛い。でもね、矢田さんなら好きになれるんじゃないかってそんな気がするの。もう、恵人への実らない想いは終わりにするの」
「俺……翠とは別れるよ。だから……」
「やめて!!! 聞きたくない……。翠を……傷つけないで。結婚する時、私…そう言ったよね。翠のこと幸せにするって恵人言ったでしょ? 私のことはもう忘れて。これからは、友達に戻ろう。私も恵人が私のこと好きだって言ってくれた事嬉しかったけど、忘れる」
私の目からは、涙が出そうだった。だけど、歯を食いしばって我慢した。泣きたくなかった。涙は見せたくなかった。
「ゆうの気持ちは分かった。翠を幸せにする。だけど、すぐに忘れる事は出来ない。この想いは、もしかしたら一生消えないかもしれない。でも、ゆうを困らせる事はしない。好きだってもう言わない」
うん、ごめんねと、私は呟いた。悲しい想いが私の心をかき乱していた。恵人も今同じように苦しいのかな……。そう思い、隣をちらりと見ると恵人の視線とぶつかった。恵人の切ない瞳が私の瞳に鋭く突き刺さる。
信号待ちで車は止まっていた。
恵人の顔が近づいて来て、私の唇に熱い恵人の唇が優しく触れる。
以前されたキスは乱暴で、強引だった。今日のキスは、大事に大事に優しく、包み込むようなそんなキスだった。
長くそうしていたように感じた。本当ならほんの数秒の出来事に過ぎないのかもしれない。
二人の間で時は止まっていた。このまま時間が本当に止まってしまえばいいのに。恵人が永遠に私の傍にいてくれればいいのに。そんな願いは叶う筈もなく、無情にも恵人の唇は私から離れて行った。
「泣くなよ……。お前に泣かれたら……奪いたくなる。全ての物をかなぐり捨ててお前を奪いたくなる……」
はっとして、自分の頬を触れると私の頬は濡れていた。恵人にそう言われて初めて自分が涙を流している事に気付いた。拭いても拭いても涙が零れ落ちてくる。自分の意志では、もはや止められなかった。
「ごめん。来週になったらいつもの私に戻るから……。今は見なかった事にして、見ないで……。お願い」
恵人は私をぎゅっと抱き締めた。切ないくらいに強い力で。それでも痛いと思わなかった。もっともっと強く、抱き締めて欲しかった。もう二度と抱き締めて貰えないのなら、二度と忘れられないくらいに強く。そして、私の体に恵人の刻印を残して欲しかった。
後ろの車に即されて、車は再び走り出した。
これらの出来事は信号が変わるたった2、3分の間の出来事だった。たった3分で……私は恵人への恋心にサヨナラをした。
恵人と別れて部屋に戻った私は、夜通し泣いた。
人ってこんなに涙が出るんだって、心の中の冷静な自分が、妙に感心していた。
途中何度かメールが来ていたようだが、開く元気もなかった。ただ、ひたすらに涙を流し続けた。
涙を流しているうちに、一体私は何が悲しくてこんなに泣いているのか解らなくなっていった。
何で泣く必要があるのか、私達は何も変わらないじゃないか。私達はずっと友達だった。そして、これからもずっと……。泣く必要がどこにある?
それでも、私の瞳からは大粒の涙が溢れ出す。意思とは無関係に。
今回少々短めです。