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写真と湖と二つの夜

作者: 波多野道真
掲載日:2020/01/19

初めての失恋と、初めての本当の恋。

フツメンだけど優しいと思っていた彼氏に振られた。


私は彼を男らしくて優しい人だと思っていたけど、全然それは的外れだったみたい。

それが発覚したのは、大学のサークルのグループラインだった。

「ヒロキ君の熱愛発覚!!」

ヒロキが女の子とキスする写真がアップされた。

私とは全くタイプの違う、細身でセクシーな子。

人が撮ってるということは合コンだろうか。

お遊びだとしても、本気だとしても、キスした事実はこの写真が物語っていた。

私とヒロキがサークル内で付き合っているというのは皆知っている。

写真をアップした男の子は遊んでる奴だったけど、そんなのはどうでもいい。

私がサークルに行きづらくなってしまった事実には変わりがないから。


「あみ、大丈夫?」

友達のモモカからラインが来る。

思いっきり顔に縦線が入ってショックを受けてるスタンプを送った。

「しばらくサークル休むね」

「やめたりしないでよ?!写真上げたアイツ締めとくから!!ヒロキくんもマジ最低!今から会えない?」

モモカは心配してくれてるけど、人に会う元気なんてない。

「しばらく一人で泣いとく!」

「私アルバイトあるけど、時間空いてるときいつでも会うから!すぐ言ってね!」

「ありがと!」

サンキュー!とハートいっぱいのスタンプを送った。

冬休みで良かった。

ヒロキにラインを送ろうかと思ったけど、そうするまでもない。

結局三日経っても言い訳も申し開きの連絡も無いということは、そういう事なんだよね。

私の恋はあっけなく終わった。

サークルにさえ行かなければ、大学の誰にも会わない。

毎年定番のサークルのイベントも欠席しよう。

真冬の三日間がぽっかり空いた。



バイパスは、今日も車が多かった。

歩行者信号が青になった。

三車線×三車線を横切る横断歩道を渡る。

杖を突いて背中を丸めたおばあさんがゆっくり歩いているのを追い越した。

ここ、距離の割に信号短いんだよね。渡り切れるんだろうか。

中央分離帯を過ぎたところで振り返った。

おばあさんはまだ中央分離帯にすら辿り着いていない。

間に合わないよ。

私はおばあさんの所に引き返した。

「大丈夫ですか、一緒に渡りましょう」

青信号が点滅する。

抱きかかえるようにして歩くのを促すけど、おばあさんは早く歩けない。

歩行者信号は赤に変わった。


パパパーーーーッ!!!


一台の車のクラクションが私とおばあさんに向けて鳴らされた。

「歩行者優先なんだよ!おばあちゃん歩けないんじゃん!」

私はその車に向かって叫んだ。

「・・・・・・」

男の人の低い声がして、おばあさんをおぶって運んだ。

私たちが中央分離帯に着くと、車が流れ出す。

「ありがとうございます」

私はその男性にお礼を言った。

背が高くて前髪が長くてマスクをしている。えらくスタイルの良い人だな。

親切な人っているんだね。助かった。

「・・・・」

え?

この人日本人じゃないんだ。観光客の人かな。

何語かわからないけど多分どういたしまして、と言っているんだと思う。

おばあさんはしきりにお礼を言っていて、私が恐縮するほどだった。

「この後も一緒に渡りましょう」

「ありがとうねぇ。迷惑かけちゃって」

男の人は信号が変わると、遠慮するおばあさんをまたおぶって横断歩道を渡った。

おばあさんを降ろして、二人で見送る。

私は通じないだろうなと思ったけど、

「何度もありがとう。とても助かりました。さんきゅーそーまっち」

と言って頭を下げた。

「・・・・・・・・・・・・Thank You ,Too」

多分あれだよね、どういたしまして的な事だよね。

こういう時ってきっとどこの国でも同じようなことを言うに違いない。

私は振り返って歩き出した。

クラクション鳴らされた時はどうしようかと思ったけど、良いこともあるもんだね。

失恋して嫌な思いしてたけど、少し気持ちが晴れたな。

悪い事ばっかりじゃない。

私はイヤホンをして好きな曲を聴きながら歩いた。

この3日間はサークルで泊りがけイベントだったけど、行かないからたくさん本買って読むんだ。

小説も、ノンフィクションも、雑誌も、何でも買ってやるー!


ターミナル駅の一番大きな本屋さんに着いた。

本気で買い込むぞ、と思って店員さんに買い物かごをもらって、私は店内を回り始めた。

読みたかった小説、気になってた小説をかごに入れる。

雑誌どうしようかな。

うろうろしていると、写真集のコーナーがあった。

きれいなものを見て心を癒すのもいいかもしれないな。

これはどこだろう。外国の風景かな?一冊取ってめくってみる。

次に目についたのは、流氷が表紙になっている写真集だった。

冬にこんなの見たら余計に寒くなりそうだけど、きれいだな。

私の気持ちもこんな感じだよね。真冬に失恋なんてほんとシャレになんない。

手に取って表紙をめくった。

「・・・・・・」

「へっ…?」

すぐそばですごく低い声がして、びっくりして振り向くと、さっき横断歩道で助けてくれた親切な男の人だった。

私今すごい変な声が出たよ?

それにしてもどうしたんだろう?

私が持っている写真集を指さす。見たいのかな?

渡そうとすると、彼は隣に来て本の右側だけを持った。

「・・・・・・・・・・・・・・」

何か言いながらその人はページをめくっていく。

「きれいですね、流氷」

しばらく一緒にその写真集を見た。

「・・・・・・・・・・・」

そう言って顔を見られたけど、何のことやらわからない。

私は首を傾げた。

『一緒に湖に行こうよ』

え?英語?

レッツ?ごー?


男の人は目を細めて本を閉じると私の手を引っ張ってどんどん歩いていく。

「ちょ、ちょっと待って!本買わせて!」

急いでかごの中の小説を買う。

何だろこの人。

悪い人じゃないんだろうけど、観光案内に付き合わされるのかな。

そっと振り向くと、その人はやっぱり後ろで待っていた。

会計が終わり、戻るとスマホを見せてくる。

翻訳アプリの画面にはこう日本語訳が書いてあった。

”良かったら湖に連れて行ってもらませんか。僕の名前はテヒョンです”

原文を見ると韓国語だった。この人韓国の人なんだ。

私もスマホを取り出した。

”私はあみと言います。湖はありますが、寒いですよ”

”流氷が見たいです”

いやー、それはないわ。無理。

流氷なら海だし。てか冬をナメてない?

”流氷の観れる場所は、ここから300km以上あります。無理です”

”大丈夫です。お金も時間も心配ありません”

そういうことじゃない。だから日帰りとか無理なんだって!

”私は旅行について素人なので、旅行会社のツアーに参加するのが良いと思います”

「・・・・・・・・・」

その人は私を見ながら何か言って、アプリに入力した。

”君と二人で行きたいです”



私は何故ここにいるんでしょうか。

レンタカーでテヒョンさんと二人。

本屋から引っ張られて行ってホテルのロビーで本を読んで待ってたら、

「・・・・・」

目の前に車の鍵がぶら下がってた。

なんでこの人が私を気に入ったのかわからないけど(おばあさんに親切にしたからかな)、どうせ、私も3日間暇なんだもん、いいか。

部屋に帰っても、一人ぼっちだし。

ドライブ好きだし。テヒョンさんは悪い人ではなさそうだし。

「じゃあ行きますよー!れっつごー」

「Yeah~!」 

私は車を出した。

それにしてもマスクを外さないので表情が良くわからない。

前髪の奥の目がきれいな人だというのはわかるんだけど。


とにかくひたすら、走る。

「・・・・・・・・」

風景を見ながらテヒョンさんが何か言ってるけど、全く私には不明。

「…風景珍しいですか?」

言ってみるけど通じるわけないよね。

翻訳アプリは使えないから、中学生英語で喋るしかない。

ああ、せめて英語の勉強もっとしておくんだった。

コンビニが見えた。

『何か飲みますか?』

『うん』

コンビニに車を停めた。

適当にそれぞれ買うよね?

私はお菓子をいくつか持ちながら、あったかい紅茶を棚から取り出した。

レジに持っていく。

「僕が、買います」

テヒョンさんがそう言って私を後ろに引っ張った。

日本語?!

「いいです!自分で払います」

そう言ってる間に彼はスマホで支払ってしまった。

キャッシュレスの世の中を恨むよ。

「ありがとうございます、でもこういうのしなくていいですから」

コンビニから出てそう言うと、

「…おれい?です」

と私の頭をポンポンとして、片言の日本語で笑った。

車に戻って、飲み物を飲んだ。駐車場が広いのはいいけど、遠くて寒いよ!

テヒョンさんがコーヒーを飲む為にマスクを外す。

「!!!!!!」

私はこんなに美しい男の人を見たことが無い。

あっけに取られていると、またそういう反応か、とでもいうように彼はクスクスと笑った。

何この人。俳優さんか何か??だからマスクしてるのか。

こんなイケメンというか彫刻?みたいな人が、何で私なんかに声かけたの?

きっとあれだな。

モテ過ぎるから人畜無害そうなのに声を掛けたんだな。

「はー、最近の私どうなってるんだろう。運気がおかしいよねこれ」

ぐでん、とハンドルにもたれかかり思わず本音を口にした。

フツメンの彼氏が浮気したかと思ったら、おばあちゃん助けたら超イケメンに声を掛けられたよ。

何もなく普通に生きてきたのに、急にいろいろありすぎる。

「あー、私これで人生終わるのかも」

「・・・・・・・・」

テヒョンさんは何か言って私の様子を見て笑っている。

「何で笑うんですか?」

少しむくれてみせた。

「・・・・・・・・・・・」

言葉は通じないけど、馬鹿にしてる訳じゃないのはわかる。

大変だったね、とでもいうように、また頭をポンポンされた。

”あみさんは学生?”

”そうです。大学3年生です”

”テヒョンさんは何をしている人なんですか?”

彼はしばらく考えてアプリを入力した。

”会社員です。働き出してから長いけど、あみさんより少しお兄さんかな”

うーん、会社勤めの人が平日にふらふらするかな?外国は休みの概念が違うのかな。

どちらにせよ自由業系の人っぽい。

ま、いいや。あまり詮索はしないでおこう。私もされたくないし。


音楽を車の中でかけてるんだけど、テヒョンさんって結構歌が上手い。

いい声だなあ。

なので、なぜか私も盛り上がってイエーイ!とか言いながらアクセルを踏んだ。

それにしても、予定していた時間よりはるかにかかってる。

もう午後3時。日が暮れてからの道は凍って危ないんだよねえ。

湖に着いたら真っ暗だし。

私は溜息をついた。

『どうしたの?』

英語で上手く答えられないな。

道のわきに車を停めてアプリを取り出した。

”あと2時間ほどで湖に着きますが、その頃には日が暮れています。真っ暗です”

”ここ予約してあるよ”

「えっ?!」

そこは湖のそばにあった。ナビにその住所を入れる。

”僕が誘ったから、泊まる場所は任せてください。運転かわります”

”ありがとうございます”

割り勘に慣れているとちょっと申し訳ない。まあ日当だと思って有難く甘えようかな。


車が建物の前に着く。

ペンションぽいけど、他に車が見当たらない。

「行こう」

テヒョンさんの唐突な日本語はびっくりするなあ。

おしゃれすぎてまだ子供っぽい私がくるのは場違いな感じがするなあ、と思いながらフロントを見回した。

「客室までご案内します」

ホテルのスタッフさんが先導して部屋まで連れて行ってくれる。

「・・・・・」

テヒョンさん、着いたよ、って言ったのかな?

「わあ・・・」

そこはとても素敵な部屋で、真っ白でふっかふかのベッドと、床暖と、えっと…語彙力がないから上手く言えないけど、とにかく学生が泊まれるような部屋じゃない。

窓から湖が見える。

「こちらから歩いて湖に行っていただけます」

ホテルスタッフさんからの説明を聞いて驚いた。

一体ここは??

パンフレットを見ると、一棟貸し切りの宿、と書いてあった。

絶対高いとこだよここ…。

いくつかお兄さんなだけなのに、お金持ち?

テヒョンさん、何者なんだろう。

肩をちょんちょん、とされて、スマホを見せられた。

”二泊取りましたから、ゆっくり湖を見ましょう”

二泊!何故二泊も⁈

”着替えがありません”

コンビニで買った下着しかない。服とか持ってない。

”大丈夫です”

いや大丈夫じゃないんだけど!


夕食も豪華だったし、目の前には爆イケのお兄さん。

どうなってるの?

私は多分一生の運をここで使ってる。絶対。

あーでもほんとに美味しい。

食材を日本語で言って、韓国語ではこういう、みたいなのをやりながら食べたりしてすごく面白かった。

たぶん私が社会人になっても当分食べられないレベルの料理だと思う。

部屋に帰る時に、

「お客様、大変失礼ですが、バスローブやスリッパのサイズがありますので、服のサイズをお教え願えますか?」

と女性のスタッフさんに声を掛けられた。

高級なとこって、そんなのまで徹底してるんだ!私は訊かれるがままに答えた。



『あみ、湖に行ってみよう』

テヒョンさんが英語で言ってきた。

二人で部屋の大きなガラスドアから外に出た。

「うー!!さむーい!!」

やはり日が落ちると急激に冷えてくる。

部屋の明かりが先を照らしてくれていた。

湖の前に来る。

湖水が凍っていた。きれい。

これが見たかったんだよね?

テヒョンさんの方を見て、湖を指さした。

『凍ってる!』

『そうだね』

真っ白な息を吐いてテヒョンさんは笑った。

『明日も見ようね。もっときれいだよ』

昼間見たらもっときれいなはず。

「あみ…」

いつの間にかすぐ後ろにテヒョンさんが来ていて、腕に包まれていた。

ちょっとドキッとする。

でもまあそういうのはありえないな。寒いんだろうな。

薔薇はペンペン草と一緒には生えないってこと。私自身全く望んでないし。

『戻りましょうか、寒いし』

『あみは、夜ぐっすり眠れる?』

耳元でボソッとテヒョンさんが言う。

何の話だろう。

『部屋に戻って飲みませんか?話しましょう』

『うん』

何か理由がある人なんだ。そんな気がした。

学生ノリをここで出していくのも変だけど、そのやり方しか私はわからないから。

ルームサービスでお酒を頼んだ。

「お酒って何がありますか?」

高級なのばっかり…。缶チューハイない…。

「じゃあ、スパークリングワインと、日本酒と焼酎と、ビールをお願いします」

でも韓国の人ってお酒強いって言うし。

よし、絶対潰れるから先にお風呂だね。お菓子はコンビニで買ったのがあるし、だいたいお腹いっぱいだし。

『テヒョンさん、先にお風呂入ってきて!”飲み会”するから』

「の・み・かい・・・?」

『そう、パーティーだよ』

口を四角くして笑いながらテヒョンさんはお風呂に行った。

3人掛けぐらいあるソファを動かして窓の外に向けた。

雪見酒だね!


外が見えるお風呂に感動して上がるのがもったいないと思ったけど、明日も入れるから、えい!っと上がった。

せっかく日本に旅行に来たんだし、テヒョンさんも楽しく飲んで話したら眠れるんじゃないかな?

「カンパーイ!」

スパークリングワインを一口飲んだ。

いいお酒って、こんな味なんだ…。

ちょっと私には辛いけど、果物の香りがふんわり残る。

さっきの質問だけど。

『私、夜は眠れます。テヒョンさん眠れないの?』

『たまにね』

『大人は大変ですね』

『そうだね』

ああーもどかしい!

スマホを開いた。

”あなたの事情はよく分かりませんが、テヒョンさんに元気出してもらいたいです。私にできることはありますか?”

”ありがとう”

優しく彼は微笑んだ。

えー!それだけ?

そう思っていると、テヒョンさんが話し出した。

『失恋ってしたことある?』

ハートブレイク、って聞こえたんですが。イケメンでもハートブレイクするのか。

タイムリーですね話題が。

『つい最近失恋したばっかりです。一週間前に』

テヒョンさんが私をじっと見た。そしてニヤッと笑ってワイングラスを掲げた。

『同じだね』

もうワインが空きそう。

『あみ、その彼ってどんな人だったの?』

形容詞の単語が不足している私は翻訳アプリに頼った。

”優しくて男らしい人だと思ってたけど、別の女の子とキスしてた。私は人を見る目が無いみたい”

それを読んだテヒョンさんは、目を丸くして、微妙に微笑んだ。

ラインって何て言うのかな?ええと。

”グループチャットで、彼とその子のキス写真が送られてきたの。酷い話だよね。でも、そういう人だとわかって良かった”

一気に書いてまた見せた。

『テヒョンさんは?』

彼はにこにこと微笑んでいるだけだ。言わないつもりだな?

「ずるいよー!私言ったのに!」

日本語で文句を言ってみた。

「・・・・・・・・・・・・・・」

あー、これは韓国語で理由言ってる。わかんないってわかってて言ってるでしょ。

私は焼酎と日本酒を両方注いだ。

「好きなほうをどうぞ」

私も日本語で応戦だ。お酒の種類なんて、まあ見てたらわかっちゃうけど。

両方に口をつけて、悩んだ後に焼酎を選んでた。

じゃあ私は日本酒で。


…何だか変なの。

それぞれに失恋してさ、おばあさん介して知り合って、なんでこんな寒い湖に来てるんだろう。

失恋した隣の国のイケメンと、失恋した地方の学生。

あまりにもシュールすぎて、笑い始めてしまった。

「・・・?」

どうした?という顔でテヒョンさんが見る。

『だって、だって…』

何とか英語で言おうとするけど、上手く言えない。

私酔っちゃったんだな。

「おかしいんだもん、こんなシチュ…」

今さらヒロキに振られたことが悲しくなってきて、笑いながら泣いてしまっていた。

『彼が好きだったの』

私の英語力ではそれだけしか言えなくて、でもテヒョンさんは優しく頭を撫でてくれた。

「・・・・・・・・・・・・・・」

低くて落ち着いた声。慰めてくれてるんだな。

自分だって眠れないぐらい辛いのに、良い人だ。

「ごめ…ありがとう。もう大丈夫!」

泣くなんて醜態。迷惑かけちゃった。私は涙を拭いて笑ってみせた。

「・・・・・・・・」

テヒョンさんが私の顔を覗き込む。

綺麗な顏だなあ。睫毛が長くて、瞳に影ができるぐらい。

酔った頭でぼんやり思う。

「だいじょぶ…?…じゃ、ない、です」

そう言ったテヒョンさんの手が私の頬に触れた瞬間。

「・・・・!」

彼の唇が私のに触れている。


何が起きているんだろう?

今日は。



きっとこれは事故だ。

ほら、失恋した同志が慰めあうとかって、よくある話じゃん?

でも別の国の知らない人だよ。

今日会ったばっかり。

ああ、今すぐモモカに電話して聞きたい。

行きずりの恋ってしたことある?って。

こういう時ってどうしたらいいの?

初めてのことばかりで、全然何もわからない。



「おはよう」

日本語でそう言われた。

私が泣いていた時と同じようにテヒョンさんが優しく頭を撫でている。

誰かの腕の中でこんなに髪を優しく梳かれたことなんてなかった。

彼は眠れたんだろうか。

それとも、失恋した彼女のこととかを思い出してまた眠れなかったんだろうか。

彼は悲しみを体中に湛えていて、それは多分触れないとわからない。

そしてそれは一晩で私にも染み込んでしまった。

テヒョンさんは私が彼の悲しみや他の感情に気づいたことを知っているだろうか。

彼の魅力は外見だけじゃない。

触れないとわからないその感情だ。

優しすぎて傷つきやすい人。言いたいことがたくさんあるのに言わない。

何かを大切にすると何かをないがしろにしてしまうことにすごく傷つく人。

私よりも年上の人なのに。

私を慰めるために抱いたのに、それをした自分をとても嫌っている。

そんなこと気にしなくていいよと言いたかったのに、言えなくて、私はテヒョンさんにえへっ、と笑う事しかできなかった。


『お風呂に入ってくるね』

髪を濡らさないようにして、湯船につかった。

彼の香りが体に残っていると、本当に好きになってしまいそうだったから。

お風呂から上がると、新しい服が一式揃えられていた。

下着から上着まで全て。

あ…昨日ホテルのスタッフさんに聞かれたのはこれだったのか。

私なんかにこんな気の利かせ方しなくてもいいのに。

何で通りすがりの私なんかに。

いや…きっと、テヒョンさんは誰にでもそうする。

『服、ありがとう!』

『気に入ったかな』

『うんとっても!』

彼はとても静かに笑う。



湖のほとりを歩く。

一周するとしたらどのぐらいかかるかわからない広い湖。

"歩いて一周したら3時間はかかります。トレッキングみたいになる場所もあるみたいで。車で回りますか?"

『歩こう』

多分テヒョンさんは今あまり人に会いたくないんだろうな。

そんな感じがする。

『静かな場所がいいですか?』

『うん』

静かな場所に行きたい時ってある。

私もそうだ。

凪いだ静かな湖面を見たい。

私達は歩き始めた。


特別話す事は無かった。

昨日の夜、十分に彼の抱えている感情が伝わってきたから。

だけどそれを私にはどうする事も出来ないし、するべき事でもない。

ただ歩いて、見つけた美しい遠景や、落ちてきた葉っぱや、転がっている石を一緒に見た。

テヒョンさんはカメラを持っていた。

『写真撮るの好きなんですか?』

『うん』

写真を撮る時だけは、彼の中の重たい感情から逃れられているように見えた。

私もスマホで遠くを撮ってみた。

遠すぎてピンぼけした風景が、この旅行が幻みたいなものだということを教えてくれているようだった。

「あみ!」

呼ばれて振り向くと、テヒョンさんが写真を撮った。

「わ、撮ったでしょ!消して!」

絶対変顔で写ってるから勘弁して!

「・・・・!」

いたずらっ子みたいに笑って彼が走り出した。

「待てぇ〜!」

足は遅くないんだぞっ。雑木林の中を走って追いかける。

わ、テヒョンさんマジで走ってるじゃん。中距離本気で走るのが一番キツイんだよ〜!

落ち葉で靴底が滑る。

頑張って追いかけたけど。

…もうダメ。

喉から血の味がするくらい走った。

肩で息をする。

こんなにダッシュしたの久しぶりかも。

少し向こうでテヒョンさんも地面にひっくり返っていた。

鬼ごっこなら捕まえなきゃ。

ゆっくり彼の方に近づいていく。

覗き込んで肩をポンと叩いた。

「タッチ!捕まーえた」

鬼ごっこって世界共通なのかな?

考えていたら、腕を引っ張られた。

膝が笑っていた私は、あっけなく寝転がったテヒョンさんの胸の上に倒れた。

切らした息が元に戻るまでそのまま抱きしめられる。

冬の雑木林は誰もいない。

「…あみ、・・・『・・・・・』」

耳元でテヒョンさんの声がした。

「え…?」

最後何か英語で言われたような気がしたけど、強い風にかき消されて聞こえなかった。枯葉が舞い上がる。風から庇うように彼が私に覆い被さった。

彼のコートの中で私は、体の力が抜けてしまうまで唇を塞がれた。



湖の奥の山に夕日が沈んでいく。

きれいだな。

私はこの夕日をいつまでも忘れない。

テヒョンさんはあれから私の手を握りポケットに入れて歩いた。

触れている手からたくさん気持ちを聞いた気がする。

別に私は超能力者でもなんでもないけど、彼が行きずりで私を抱いていても、それが今の素直な気持ちなのだ。そこに私に対する悪意は微塵もない。

あるとしたら彼の場合は後悔とかそういう類のものだろう。

部屋に戻り、夕日を私と並んでみているテヒョンさんの横顔。彼がふいにこっちを向いた。

目が合う。

「…・・・・・?」

低く小さい声で呟く。

悲しくて何かを諦めた顔。

彼は私の首に両手をそっと掛けた。


ああ、

この人はもう、

死んでしまいたいんだ。

翻訳アプリを使わなくても彼の言葉が理解できた。


"…僕と死んでくれる?"





彼は私の首を絞めて殺すかわりに、私が気を失うまで何度も抱いた。

私を殺して自分も死んでしまいたいくせに、決して私を手荒に扱うことはなかった。

あなたも一緒に気を失えばいいのに。そうしたら少しの間だけ死ねるよ。

彼は眠れない。眠れたとしても眠りが浅い。意識がある間、テヒョンさんは何を思い考えているんだろう。

何も考えなくていい世界があるなら連れて行ってあげたい。

何度も彼が短く呟く言葉と私の名前は、呪文のように耳から入り頭に反響する。

ねえ、なんて言ってるの…?

最後に私の意識が無くなったのは、空が白み始めた頃だった。



「あみ、おはよう」

2度目の、そして最後のおはよう。

私の体には彼がつけた赤い跡があちこちについていた。

ベッドに座り込んでぼんやりする私の顎を持ち上げてテヒョンさんは言う。

「・・・・・・・・」

私は黙って頷く。

言葉はわからなくても彼が私にする事は、今の彼にとって意味があること。

彼は大きな安全ピンを持って近づくと、私の右の耳朶を貫き、自分のピアスを外して私に付けた。

酷い痛み。

『…君は僕のものだ』

知ってる。

綺麗な悪魔がいたらこんな風に微笑むに違いない。

今までの私はこの時に、完全に死んでしまった。

ちゃんと殺されたんだ、彼に。



帰りの道中はあまり覚えていない。

行きよりもたくさん寄り道をして帰ったから、朝出たのに、私が住む街に着いたのは夕方だった。

最後に、

『写真を送るから住所を教えて』

と言われて、紙に書いて渡した。

電話番号もメアドもラインも交換しようと言わないし、訊かなかった。

それをしちゃいけない人だというのを三日間一緒にいてわかったから。

『…またあの湖に行こう』

『うん、またいつかね』

本心だけど、果たされない約束をして、私達は別れた。



「あみ、冬休み明けて何だか雰囲気変わったね」

「そうかな〜?振られたからかな」

モモカが不思議そうに私を見る。

「違うでしょ。何だかすごく落ち着いて…きれいになったよ。新しい彼氏でもできた?」

「あはは、そんな訳ないじゃん!」

テヒョンさんとの事は誰にも話していない。

サークルは辞めた。全く今の私には必要が無くなったから。

「お前、もう新しい彼氏できたの?噂で聞いたぜ」

誰がそんな事言ってるんだろう。

ヒロキが突然話しかけてきた。

無視していたら、

「俺よりいい男?」

とトンチンカンな事を言い出した。

そうだね。

彼と君じゃ比較にならないね。

「なあ、またやり直さねえ?」

にやけたヒロキを上から下まで見てから言った。

「無理。バイバイ」


テヒョンさんの事を思い出しても不思議と悲しくはならなくて、彼が夜眠れていますように、と願うだけだった。

それなのに、彼が安全ピンで開けたピアスホールはいつまでもじくじくしていた。

右耳の傷も治りホールが安定した頃、私は大学4年生になった。


桜も散った頃、ポストに薄いダンボールの封筒が届いた。

差出人は住所も何もなく”Tae-Hyung"とだけ書いてあった。

あの湖の風景がたくさんあった。

半年も経ってないのに、ずいぶん昔の事のように思える。

私が振り向いて撮られた写真もあった。変顔じゃなくてブレてなかった。写真撮るの上手なんだな。

その他にも風景と一緒に私が写真に収まっていた。いつ撮られたのかな。気づかなかった。

風景の写真とは別に、薄い透明なフィルムにまとめて入っている数枚の写真があった。上に大きめの付箋が貼ってあり、英語で何か書いてある。

"僕は好きな写真だけど、これらの扱いは君に任せる"

フィルムから写真を取り出してみる。

そこにはテヒョンさんがレンズを覗き、彼の腕の中で寝ている私がいた。

赤い跡が散っている私の胸元、ベッドから伸びた私の脚、私の前髪と閉じた瞼…

ベッドの中での私の写真。

最後の一枚は、多分明け方の薄暗い光の中で、彼が私にキスしているものだった。きっと誰かが見ても、近すぎて誰と誰かわからない。


最後の写真の後ろに一枚の紙が入っている。

そこには三文字のハングルが書かれていて、読めない私は翻訳アプリをかざした。


"愛してる"


…嘘つき。


あの日以来、

私は彼の事を思って初めて泣いた。




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