キス
#物書町企画作品
私は初めてのキスをした。この物書町で......
キスと言うものは不思議なもので、然も特別な事である様に振る舞って見せてはいるが冷静に思えば口を袷る事に何の意味が有ると言うのだろうか? それが永遠に縛る約束である訳でもなく、それは生き物が繁殖する為に行われる様な目に見えて身体を縛る行為でもなく。その『キス』と言う行為に私の心も身体を縛られる様に感じている私は一体何だと言うのであろうか。
ただ唇を重ね合わせて、その柔らかさを感じて、滑らかに唇を抜けて歯の間をスルリと入り絡み合う...... 。いや、それを思い出すだけで私の頬は紅潮して、胸の辺りをギューッと掴まれている様に息がきれぎれに為り、私と言う存在があやふやに頼りなく感じてくる。
私は小さい頃からこの物書町に住む15歳の物書高校に通い始めた女子なのだが、何か自分を現す物事全てが煩わしく感じている。それは私として現されたものが、私の心と身体を縛り付けている様にさえ思えて、簡単に言ってしまえば苦しいのだ。
そんな情態の私は地元の物書高校への通学途中に見える海を見ながら、煌めく波が朝陽を乱反射させている。その上に海鳥が影を横切らせて行く姿が何故か心に残りながらも、キスをした彼に今から会うと思うと私はどう言う顔をして良いのか解らずに下を向いたりしながら、お気に入りの赤い自転車を押しながら歩いていた。しかしそんな私の中の煩わしさを吹き飛ばしたい気持ちになり、サドルへ跨がると膝とふくらはぎに力を込めてグンっとペダルを蹴り立ち漕ぎで全身に風を受けた。すると心を覆う靄が少しずつ晴れていく気がした。
学校へ辿り着き教室へ入ると10名程が先に席に着いていたが、まだ彼は来ていない。いきなり教室へ入って来た彼を思うと私はどうして良いのかも判らないので、日頃開きもしない古典の教科書なんて開いてみては、然も私は気付いて居ませんでしたと装う事にした。
『陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに』
そんな言葉を目にしては、乱れきった自分を重ねて溜め息を吐いたりして
「源融さんも乱れて苦しかったんだねぇ。」
そう呟いて。私は自分の唇を指でなぞったりするものだから、余計に胸は締め付けられて苦しいもので机に突っ伏して外を流れる雲の早さに『自分の気持ちもああやって流れて行けば清清しい青空の様になれるのかな』と夢想したりしている。しかしこの気持ちが消えてしまうと寂しさに襲われるのかとも考えた。
そんな私の気持ちなんか構う事無く始業のベルが鳴り響き、結局彼は現れずに終礼のベルが鳴った。
私は何を期待していたのだろうか。
ただ唇を袷ただけで私の日常は信じられない程に様相を変えてしまった。そんな乱れきった心を抱えての帰り道、少しだけ海沿いの道で黄昏て防波堤に風に煽られるスカートを膝の裏へ挟み込んで座り込むとキラキラと赤く映えた海を眺めた。昼ほどの勢いを失った太陽は燃え尽きるかの様に水平線へ溶け込んでいく。
溶けそうな程に柔らかかった唇に何の答えを返せば良いのかなんて解っている筈なのに、先送りにされてしまって置いていかれたような心細さも合い重なり涙が滲んでくるのだが彼の笑顔がそれを阻もうとする。
この滲みボヤけた視界に、此れでもかと光輝く物書町の海辺の景色が映る。私はこの町に生まれて良かったと思った。彼も居る物書町だからこの気持ちにも何れ答えは出るのだと。
私は陽の沈み際の儚くも力強い光を正面に受けながら唇をなぞると、スカートを風になびかせて立ち上り。夕陽の似合う笑顔を見せるとお気に入りの赤い自転車を押しながら家へと歩いた。